人助けに、シグナルは必要ない
どれくらいの時間が経っただろうか。
千夏は最後の問題を解き終え、ボールペンを放り出し、大きく伸びをした。背骨がパキパキと小気味よい音を立てる。
「ふーっ、終わった! やっと終わったぁ」
彼女は机に突っ伏し、横顔をこちらに向けた。
僕は依然として読書の姿勢を維持していたが、ページはめくっていなかった。
実のところ、このページを十分以上見つめ続けているにも関わらず、脳に記録されたのはわずか二段落に過ぎない。
僕のプロセッサの処理速度は、著しく低下していた。
「ねえ、霜月くん」千夏の声が、僕の思考を遮断した。
「……なんだ?」
僕は我に返ったが、視線は本から外さなかった。
「今日、なんか変だよ」
彼女は指先で机の上に無意識に円を描きながら、探るような口調で言った。
「普段から『部外者立ち入り禁止』って顔してるけど、今日は特に……心ここにあらずって感じ? 本、逆さまだよ?」
僕は視線を落とした。
逆さまではない。
カマをかけられた。
だがそれは、僕の偽装に綻びが生じていることの証明でもあった。
「複雑な非線形方程式について思考していただけだ」
僕は本を閉じ、話題を終了させようとした。
だが、千夏は逃がしてくれなかった。
彼女は目を細め、新大陸でも発見したかのように僕を凝視した。
「本当に不思議だよね」
「いつも『面倒』とか『非効率』とか言ってるし、絶対的な利己主義者に見えるのに……どうして、そんなに『お節介』が得意なの?」
「お節介などしていない」僕は即座に否定した。
「そうかな?」千夏は腕に顎を乗せ、瞳を深めた。「じゃあ、なんで私のために鬼塚先生に逆らったの? なんで私がここに来るのを黙認してるの? それに……何も言わないけど、今の悩みだって、誰か『放っておけない人』のためなんでしょ?」
僕は沈黙した。
論理の核を正確に射抜かれた。
「……君こそ」
僕は防戦を放棄し、反撃に転じることにした。
椅子ごと向き直り、「死んだ魚の目」と称される瞳孔で、彼女を直視した。
「君は内心であれほど人間関係を嫌悪し、それらの要求を『マイナス収支』だと判定していながら、なぜ『いい人』を演じ続ける?」
核心的な質問を投げつけた。
千夏の表情が一瞬強張った。
あの見慣れた、完璧な「委員長スマイル」が、条件反射のように顔に浮かぶ。
「え? それは当然でしょ」
彼女は小首をかしげ、軽やかに答えた。「誰だって好かれたいじゃん? それに、誰かの役に立てるのって私も嬉しいし……」
星野千夏(裏):
『……見ないで。』
『そんな目で見ないで。』
彼女は嘘をついている。
使い古された仮面で、僕の侵入を防ごうとしている。
僕は何も言わなかった。
ただ静かに彼女を見つめた。その眼差しには非難も同意もない。
あるのは、嘘を透過する純粋な静寂だけだ。
その視線に晒され、千夏の張り付けた笑顔が、端から少しずつ剥がれ落ちていく。
膠着状態、約五秒。
「……ああもう! 分かったよ!」
千夏は乱暴に頭を掻きむしり、治療を放棄するように全身の力を抜いた。
「あんたのその目、ホント嫌い! 嘘発見器みたいなんだもん!」
彼女はもう笑っていなかった。代わりに、自嘲の混じった、どこか疲れた表情を浮かべた。
「そうだよ、嘘ついたよ」
「好かれたいとか……それは言い訳。本当はあの子達に利用されてるだけだって、分かってるよ」
でも。彼女は心の中で補足した。
『そうしないと……孤立するから。』
「ただ、一番最初は……たぶん、『助けてもらう』ってことが、すごく温かいことだと思ったからかな」
千夏の声が柔らかくなった。視線は虚空の一点に向けられ、壁を透過して遥か過去を見ているようだった。
「小学生の時、デパートで迷子になったことがあるの。私、親にいらない子だって思われてる気がしてて」
「当時の私は臆病で、泣くことも、誰かに道を聞くこともできなかった。人混みの中、ロビーの真ん中で一人で立って、服の裾を握りしめて、必死に涙を堪えてた」
「泣かなければ、捨てられた子供だってバレないと思ったから」
「誰にも迷惑をかけたくなかった」
「それで?」僕は促した。
「そしたら、知らないお姉さんが寄ってきたの」
千夏は笑った。それは純粋で、懐かしさに満ちた笑顔だった。
「その人は『どうしたの?』とも、『迷子なの?』とも聞かなかった。ただ近づいてきて、私の手を引いて、飴をくれて……館内放送で名前が呼ばれるまで、ずっと一緒に立っててくれた」
「私はその時も泣かなかった」
「むしろ強がって、人を待ってるフリをしてた」
「でも……その人は私の我慢を見抜いてた」
「『泣きたくないならいいよ。でも、君が怖くなくなるまで、私がここにいてあげるから』って」
「それ以来、思ったの。私もあんな人になれたらいいなって」
千夏は窓の外を見つめ、眼差しを優しく細める。
その決意を口にしながら、彼女の左手は無意識のうちに、右手首を愛おしげに撫でていた。
そこには、赤と緑の配色が施されたプラスチックビーズのブレスレットがあった。
作りは粗雑で、素材も安価。摩擦で白く摩耗している部分さえある。隙のない着こなしの制服や、入念にセットされた髪型と比較すると、それはまるで精密機器の中に混入した錆びたネジのように、あまりに不釣り合いで異質な存在感を放っていた。
以前にもその物体を視界に捉えたことはあったが、当時の僕はそれを「僕には理解不能な女子高生の流行ファッション」というカテゴリに分類し、ノイズとして処理対象から除外していた。
だが、今は違う。
あの粗末なビーズを指先で慎重になぞる仕草、その壊れ物を扱うような手つきは……。
まるで、何らかの『お守り』の存在を確認しているかのようだった。
「誰かが我慢してたり、困ってたりするのを見ると、つい手を出したくなっちゃうんだよね……」
『まあ、結果としてこんな都合のいいパシリになっちゃったけどね。』
彼女はブレスレットから手を離し、自嘲気味に肩をすくめた。
その瞬間、僕の脳裏に稲妻のような閃光が走り、論理の死角を瞬時に照らし出した。
救助要請がない。我慢している。強がっている。
あの安っぽいブレスレットを支えにしていた迷子の少女と、今の凛の姿が、完全に重なった。
凛もまた、我慢している。
彼女もまた、「なんとかなる」と強がっているだけなのだ。
「自分でなんとかできる」と装っている。
救難信号は、一切発信されていない。
僕の以前の論理では、「要請がない」ゆえに「介入の正当性なし」と判定された。
だが……あのお姉さんは介入したか? した。
彼女は間違っていたか? いや、彼女はその少女を救った。
「……つまり」
僕はゆっくりと口を開いた。新しい定理を確認するように。
「相手からの要請がなくとも、相手が隠蔽を試みていたとしても……観測者が相手を『窮地』にあると判定すれば、能動的介入は合理的であると?」
「当たり前じゃん」
千夏は1+1=2であるかのように、当然のこととして答えた。
「手を差し伸べなきゃ、『助けられてもいいんだ』って気づけないでしょ?」
彼女は僕を見た。その瞳には、すべてを見通すような優しさがあった。
「霜月くん。何に悩んでるのか知らないけど……」
「誰かが『痛そう』に見えるなら、たとえその人が笑ってたとしても……本当に痛いんだよ」
「その時助けに行くのに、理由も許可もいらない」
ドムッ。
一日中僕を苦しめていた無限ループが、あの【ERROR】という名の論理障壁が、その一瞬で粉々に砕け散った。
そうか。
許可はいらない。
凛が「助けて」と言う必要はない。
僕が彼女を「痛そうだ」と感じ、あの未央という存在に対して「不快」だと感じたなら、それだけで十分な理由になる。
僕は椅子から立ち上がった。
胸の奥の混乱した気団は霧散し、代わりに久しく感じなかった、冷徹な決意が満ちていく。
「……君の言う通りだ」
僕は鞄を掴んだ。「論理の死角によって、重大なエラーを犯すところだった」
「え? もう行くの?」千夏が唐突な僕の行動に驚いた。
「ああ。処理しなければならないタスクがある」
僕はドアへ向かい、ノブに手をかけ、振り返った。
「サンプルデータの提供に感謝する。今日の対話は……極めて価値が高かった」
千夏は呆気にとられ、次の瞬間、今日一番の眩しい笑顔を咲かせた。
「……なによそれ。行ってらっしゃい、バカ!」
僕はドアを押し開け、廊下へと飛び出した。
夕陽は完全に地平線の下に沈み、夜が訪れていた。
だが、迷いはない。
帰宅する。そして待機する。
今回は、ただ見ているだけでは終わらせない。
【あとがき:再起動】
作者「『誰かが痛そうに見えるなら、それは本当に痛い』。千夏ちゃん、いいこと言いますね」
霜月「……否定はしない。彼女の非論理的な感情論が、結果として論理の死角を照らし出した。これより、エラーの修正(未央への介入)プロセスへ移行する」
作者「理人くん、やる気満々ですね!
続きのは、今夜【18:10】に公開します!
(いよいよ兄妹会議。そして、理人が凛に突きつける『冷酷な問い』とは?)」




