腐ったケーキと、独占欲のスイッチ ~その少女は、笑顔で「殺意」を抱いていた~
凛は一万円札を数えて渡し、その動作は錆びついたロボットのようにぎこちなかった。
「……うん、じゃあ、行こっか」
彼女がそう言った時、その目は完全に死んでいた。
未央が満足げにお金をしまい、凛の腕に手を回して立ち去ろうとした、その時だった。
閉鎖的だったその場の空気に、活気に満ちた声が突然介入してきた。
「あれ? 凛じゃない?」
凛が固まり、振り返った。
通路に立っていたのは、ジャージ姿でポニーテールの女子だった。
たまたま通りかかった同級生のようだ。
「あ、由美!」
来訪者を見た瞬間、凛の死んでいた目に光が戻った。
「奇遇じゃん! 由美も買い物?」
凛は立ち上がった。その声は、いつもの快活なトーンを少し取り戻していた。
「来週バレー部の試合でしょ? 練習どう?」
心声はない。
必要ない。
彼女の晴れやかな目を見るだけで、彼女が『日常』を取り戻したことは明白だった。
しかし。
対面に座る未央は、動かなかった。
彼女はティーカップを持ったままの姿勢で、顔には変わらず甘い微笑みを浮かべている。
だが、僕の観測視野において、彼女から放射されるデータストリームは、この瞬間、劇的な変質を起こしていた。
先ほどまでの彼女の心声が、凛への甘ったるい愛に満ちたふわふわのイチゴケーキだったとするなら。
今、そのケーキは下水道に投げ捨てられ、高温下で急速に発酵し、腐敗し、悪臭を放つ黒い汚泥へと変貌していた。
「……凛ちゃん」
未央が口を開いた。
声は大きくないが、背筋が凍るような冷気を帯びていた。
「あれ、誰?」
凛は我に返り、慌てて紹介した。
「あ、こちらは隣のクラスの由美。由美、こっちは私の友達の未央」
「初めまして!」由美という女子は何も気づかず、笑顔で挨拶した。「未央さんも凛の友達なんだね、よろ……」
「……泥棒猫」
極めて低い声。
未央の可愛らしい唇から吐き出されたのは、その外見とはあまりに不釣り合いな、汚辱に満ちた単語だった。
「え?」由美が固まった。「なに?」
未央は答えなかった。
彼女はわずかに顔を上げた。潤んでいた大きな瞳は、今や濁って深く沈み込み、由美の顔を死んだように見据えていた。
瞬き一つしない。
それはまるで、餌を守る毒蛇が、領土に侵入したネズミを威嚇する目だった。
隠そうともしない悪意と排他性が、周囲の温度を氷点下まで叩き落とす。
由美の笑顔が引きつり、無意識に半歩後ずさった。「えっと……私、お邪魔だった?」
「あ、ごめんごめん!」
凛は慌てて二人の間に割って入り、気まずそうに、しかし慣れた様子で苦笑いを浮かべた。
「未央……ちょっと人見知りでさ。知らない人が苦手っていうか、悪気はないんだけど」
凛(裏):
『……まただ。』
『目は怖いけど、単に緊張してるだけでしょ?』
『未央には友達が私しかいないから……こういう時は私がフォローしてあげなきゃ。』
凛の判断には致命的なバイアスがかかっている。
彼女はこれを『人見知り』だと解釈した。だがそれは違う。『殺意』だ。
彼女は自身の善意によって、未央の悪意に保護色を塗ってしまっている。
「そ、そうなんだ……」由美は違和感を覚えつつも、凛の顔を立てて頷いた。「じゃあ、邪魔しちゃ悪いし行くね」
彼女は背を向けて歩き出したが、二歩進んで何かを思い出したように振り返った。
「あ、そうだ凛! 明日のボランティア活動、一緒に行くって約束忘れないでよ! 絶対だからね!」
「うん! 任せて、絶対行くから!」
凛は力強く頷き、眩しい笑顔を見せた。
それは、明日は『普通の時間』を過ごせるという期待による笑顔だった。
しかし。
その一言が、ラクダの背骨を折る最後の一本となった。
未央は座ったままだ。
彼女は、凛が他人と『未来』の約束を交わすのを見ていた。
凛が、自分には決して見せない、安堵に満ちた笑顔を他人に向けるのを見ていた。
プツン。
彼女の中で、『理性』という名の弦が断ち切れる音がした。
由美が去った。
凛は席に戻り、申し訳なさそうに未央を見た。「ごめんね未央、さっきのは……」
「ううん、いいの」
未央が遮った。
彼女は顔を上げた。そこには再び笑顔が張り付いていた。
だが、その笑顔は変質していた。
先ほどまでの蕩けるような甘さは消え、そこにあるのは死んだ水面のような静けさだけだ。
口角は上がっているが、瞳の奥は虚無と冷気で満たされている。
「凛ちゃんは人気者だね。みんな凛ちゃんが好きなんだ」
彼女は手を伸ばし、優しく凛の前髪を整えた。
壊れ物を扱うような、繊細な手つきで。
「でも……凛ちゃん」
彼女は心の中で、低く囁いた。
未央(裏):
『なんで?』
『なんで他の人に、そんなに楽しそうに笑うの?』
『私がこんなにしてあげてるのに……こんなに頑張ってるのに。』
『やっぱり、翼がある限り、凛ちゃんは外を見ちゃうんだね。』
『「友達」っていう鎖じゃ、まだ緩すぎたんだ。』
彼女の指先が凛の髪を滑り落ち、首筋に触れ、そこを愛おしげに摩った。
未央(裏):
『凛ちゃん。私のお姉さま。』
『そんなに外に行きたいなら……』
『もう……あなたの目を、私だけで満たしてもらうしかないんだね。』
『翼を折って、籠の中に閉じ込めて……そうすれば、凛ちゃんはずっと私だけを見てくれるよね。』
【あとがき:翼を折るという発想】
作者「『友達』という鎖では緩すぎるから、物理的に翼を折って籠に入れる。……未央ちゃん、思考回路が完全にヤンデレのそれなんですよ」
霜月「非効率かつ短絡的だ。対象の自由意志を剥奪すれば、一時的な拘束は可能だが、関係性は『依存』から『飼育』へと劣化する。だが、凛の認知バイアスが邪魔をして、彼女自身はその危機に気づいていない」
作者「凛ちゃん、優しさが仇になってますね……。
さて、明日は【2話更新】を予定しています!
それでは、また明日(12:10)にお会いしましょう!」




