孤独な退院と、ウサギの焼却提案
入院していた二週間、霜月凛以外に、この病室のドアを開ける人間は一人もいなかった。
僕が肋骨を二本折ってまで助けたはずのいじめられっ子も。
普段は「クラスの団結」を掲げて形式主義的なイベントに熱中する学級委員たちも。
当然、僕の両親さえも。
一般的な高校生にとって、これは「孤立」と呼ばれる悲惨な状況なのだろう。
深夜の布団の中で涙を流し、人の世の冷たさを嘆く場面かもしれない。
だが、僕はそうは思わない。
僕にとって、これは単なる数学的統計の結果に過ぎない。
僕は上級生を殴打し、「暴力的な狂人」あるいは「制御不能な因子」というレッテルを貼られた。
損得勘定で動く生物にとって、危険源から距離を置くのは遺伝子に刻まれた生存本能だ。
極めて合理的だ。
社交辞令もいらない。腹の探り合いもいらない。
「お見舞い」という名の、自身の道徳心を満たすためだけの虚偽の会話に耐える必要もない。
ここには、医師による冷徹な診断と、看護師による定時投薬があるだけだ。
全てが「治療」という明確な目的に基づいて稼働している。
それに比べれば、「学校」という場所は、数値化できない冗長なデータで溢れすぎている。
空気中には常に、細心の注意を払って読み取らなければならない「雰囲気」が充満し、人間関係は絡まったイヤホンコードのように混沌としている。
「霜月さん、退院のしおりです」
看護師の声が、僕の思考を中断させた。
新しく配属された看護師だ。
僕が初日に怯えさせたあの看護師は、翌日には老人リハビリ科への異動を願い出たと聞いている。
新しい看護師は、僕に書類を渡す際、指先が僕の皮膚に触れないよう細心の注意を払っていた。
視線は泳ぎ、身体は無意識にのけ反っている。
その目には、警戒と、困惑と、そして生理的な嫌悪が混じっていた。
この目には、見覚えがある。
記憶のインデックスがその視線をトリガーとして、より古い時間軸へとジャンプする。
小学二年生の時のことだ。
学校の飼育小屋で、一羽のウサギが死んだ。
おそらく熱中症だろう。その白い毛玉は硬直してケージの中に横たわり、生命活動を停止していた。
女子児童たちは一斉に泣き出し、男子たちは深刻な顔で穴を掘り、儀式的な葬式を執り行おうとしていた。
教師は涙を流しながら、「シロちゃんは天国に行ったのよ」「私たちの心の中で生き続けるわ」などと言い、感動的な教育的ムードを演出しようとしていた。
当時の僕は、教師の涙で潤んだ目を見ても、困惑しか感じなかった。
なぜ、機能停止によって生じたタンパク質の死骸に対し、「悲しみ」という感情を付与する必要があるのか?
すでに意識の存在しない生物を、なぜ「記憶し続ける」必要があるのか?
だから、僕は手を挙げた。
僕は死骸を指差し、当時の僕が考えうる限り最も科学的で、正確な言葉で提案を行った。
「先生、現在の気温は32度です。早急に無害化処理を行わなければ、死骸は四時間以内に腐敗し、細菌が繁殖します。みんなの健康のためにも、校庭のような人流の多い場所に埋めるより、焼却炉に直接放り込むか、生石灰で処理することを推奨します」
その瞬間。
教師が僕に向けた眼差しは、今ここにいる看護師の目と完全に重なった。
恐怖。排斥。
まるで、未知の地球外生命体を見るような目。
あの日、通知表の通信欄にはこう書かれた。
『共感性が欠如しており、性格に欠陥が見られる』
その時から、僕は理解した。
人間は、剥き出しの現実を直視するよりも、虚構の感傷に浸ることを好むのだと。
……。
僕は思考を現実に戻し、書類を受け取って荷物をまとめ始めた。
まとめるといっても、通学鞄と、着替えた制服があるだけだ。
病室を出てロビーで手続きをしていると、周囲は賑やかだった。
その多くは、退院する患者を迎えに来た家族たちだ。
左手では、母親が足を骨折した息子を慎重に支え、「帰ったら好きなものを作ってあげるからね」と話しかけている。
右手では、頭に包帯を巻いた彼氏の手を、彼女が強く握りしめている。
空気中には、「親愛」や「慈しみ」という名の温かい気体が充満していた。
僕はカウンターの前に一人で立ち尽くす。
首にかけた黒いヘッドホンだけが、僕の同伴者だ。
周囲の心温まる雰囲気に対して、寂しさは感じない。
僕はただ、この人の多さが、手続きの効率に影響しないかを計算しているだけだ。
「あの……霜月くん?」
受付の看護師が、僕の背後の何もない空間を見て、躊躇いがちに尋ねた。
「お一人ですか? 保護者の方は?」
「仕事です」僕は淡々と答えた。「これくらいの手続きは自分で行えます。他者の時間を浪費する必要はありません」
看護師は言葉に詰まった様子だった。僕のあまりに直截的な論理に噎せたようだ。
彼女は素早くハンコを押し、控えを僕に渡すと、壁の掛け時計をチラリと見た。
「えっと……気をつけて帰ってね。退院したとはいえ、あと二日くらいは自宅で安静に……」
「帰る?」
僕は時間を確認した。
午前10時15分。
僕は解せぬまま問い返した。
「今日は火曜日です。学校の時間割によれば、現在は三時間目の授業中のはずです。なぜ僕が帰宅する必要があるのですか?」
「え?」看護師が口をぽかんと開けた。「でも……退院したばかりじゃ……」
「損傷したのは肋骨と左腕です。僕の両脚の機能は正常で、脳の演算処理も正常。学校へ移動し、教育を受けることを阻害する生理的要因は何もありません」
僕は当然の事実として述べた。
「それに、帰宅することに意義を見出せません。誰もいない家では食事の用意もなく、余計なデリバリー経費が発生します。学校へ行き、食堂で昼食を摂る方が経済的合理性に叶っています」
看護師は完全に絶句した。
まるで狂人を見るような彼女の視線と、脳内に響く**『この子、勉強のしすぎで頭がおかしくなったんじゃ……』**という心の声を背に受けながら、僕は鞄を背負った。
病院の自動ドアを出る。
途端に、街の喧騒が物理的な波となって押し寄せてきた。
僕はヘッドホンを装着し、スイッチを入れた。
音楽は流さない。
流れるのは、単調なホワイトノイズだけだ。
これから脳内に雪崩れ込んでくるであろう無数の「心の声」を完全に防ぐことはできないが、少なくとも心理的な防壁にはなる。
この時間帯、制服を着て街を歩く人間は少ない。
僕は鞄のベルトを調整し、左腕の患部に当たらないようにして、通学路へと足を向けた。
僕にとって、そこは義務を履行するための場所に過ぎない。
身体が直ったなら、戻る。
ただそれだけのことだ。
ウサギのエピソード、ドン引きされた方もいるかもしれませんが……
理人は悪意があるわけではなく、ただ「効率」を追求した結果なんです(笑)。
さて、次はいよいよ学校に戻ります。
「空気」だらけの教室で、彼はどう振る舞うのか。
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次は**【18:05】**に更新します。




