「楽しい」の定義と、第一巻の終わり
鬼道が去った後も、気象観測部内の空気はすぐには軽やかさを取り戻さなかった。
「頂点捕食者」が残していった圧迫感が、目に見えない埃の層となって、部屋の隅々に吸着しているようだった。
千夏は依然として椅子の上で縮こまり、完全に冷めきったブラックコーヒーを両手で包み込んでいる。
その視線は固く閉ざされた鉄の扉に固定されており、まるで黒いTシャツの悪魔が、今にも戻ってくるのではないかと怯えているようだ。
「……『死ね』の一言でも、人間らしく見える……か」
彼女は鬼道が去り際に残した言葉を低く反芻した。聞き取れないほど小さな声だった。
僕は応答しなかった。
観測者として、今のデータ量はすでに十分膨大だ。
今必要なのは言語による慰撫ではなく、彼女自身による情報の消化と再構築のプロセスだ。
僕は黙々と机の上の記録ノートを片付け、二つのマグカップを流し台へ持って行き、水で洗った。
水流の音が、彼女の時間感覚を呼び覚ましたらしい。
千夏は弾かれたように顔を上げ、壁の掛け時計を見た。
「あ……もうこんな時間」
彼女は悪夢から覚めたように、慌てて鞄を掴んだ。
「は、早く帰らないと、お母さんにまた何か言われちゃう」
彼女は立ち上がり、少しぎこちない動作でスカートの裾を整えた。
顔に張り付いていた「衝撃を受けた」表情を力任せに拭い去り、代わりに「日常」という名の、少し無理をした笑顔を貼り付ける。
「あの、霜月くん。帰ろう?」
……
学校を出て歩き出すと、夜の闇は先ほどよりも濃くなっていた。
部室での窒息しそうな沈黙を打ち破るためか、千夏の口数は明らかに増えていた。
「そういえば、明日は土曜日だね!」
彼女は僕の斜め後ろを歩きながら、努めて明るい声を出した。「週末が楽しみ」という雰囲気を懸命に演出しようとしている。
「霜月くんは週末なにか予定あるの? やっぱり家で難しそうな本読んでたり?」
『喋らなきゃ……もっと喋らなきゃ。』
『黙ってると、さっきのこと考えちゃう。』
『それに……今聞いておかないと、二日間会えなくなる。』
『連絡先……LINEのID……せめてメアドだけでも……』
彼女の内面は、雑多な要求で満ちていた。
先ほどの恐怖から逃れるためでもあり、この週末も繋がりを維持したいという、ある種隠微な渇望のためでもある。
「特別な予定はない」
僕は平坦に応じた。
「必要な睡眠と摂食。あとは部室に来て気象観測を継続し、今週のデータを整理するだけだ」
「うわぁ、サプライズ皆無の答えだね」千夏は大げさに溜息をつき、道端の小石を蹴った。
「私なんて死ぬほど忙しいよ! スケジュール帳真っ黒なんだから!」
彼女は指を折り、戦利品でも自慢するかのように、一つ一つ項目を並べ立てた。
「明日は朝イチで駅前のパンケーキ屋に並ぶの。レナたちがどうしても限定メニュー食べたいって言うから、私が先に並んで席取る係」
「午後は体育館。私バスケ部じゃないんだけど、男子バスケ部の練習試合の応援でチアやるって言われて、駆り出されちゃったし」
「で、日曜でしょ……ファミレスで勉強会。まあ要するにミサキたちの宿題終わってないから、私が教えに行くんだけどね」
「あ、夜は隣のクラスの子の合コン用の服選びに付き合わなきゃ……」
席取り。サクラ要員。無料の家庭教師。荷物持ち。
彼女は四つも五つも予定を挙げた。
その全てが集団行動であり、全てが莫大な時間コストを消費するものだ。
だが、その過密なスケジュールのどこにも、「星野千夏」本人のために存在する項目は見当たらなかった。
彼女はまるで、週末の空気を維持するためだけのNPCだ。必要とされればどこへでも配置される、便利な背景モブ。
『……しんどい。』
『考えただけで足が重くなる。あのパンケーキ屋、二時間は並ぶって噂だし……』
『バスケの試合見て何が楽しいの? うるさいし、キャーキャー言って興奮したフリしなきゃいけないし。』
『私だって家で寝ていたいよ……読みかけの漫画読みたいよ……』
口から出る活力に満ちた「リア充宣言」とは裏腹に、彼女の心声は、無数の糸に絡め取られた操り人形のように、今にも切れそうな重い嘆息を漏らしていた。
駅の分かれ道まで来た。
通例に従えば、ここがお別れの地点だ。
「あ……あのね、霜月くん」
千夏は足を止め、制服のポケットに手を入れ、スマホを強く握りしめた。
「もし週末、暇なら……」
「星野さん」
僕は、彼女が口に出そうとしていた懇願を遮った。
「え? はい!」彼女は驚き、ポケットの中の手を硬直させた。
僕は彼女を見た。そして彼女が先ほど羅列した、一見華やかで、実のところ空虚極まりないスケジュール表を脳内で展開した。
「君は先ほど、少なくとも四つの高負荷な社会的活動を挙げた」
「行列待機、応援業務、学習指導、買い物同行」
「そ、そうだよ……充実してるでしょ? みんなに頼りにされてるんだ」
彼女は笑顔を維持し、僕からほんの少しでも肯定の言葉を引き出そうとしていた。あの不味い高級コーヒーを見せびらかした時と同じように。
「では」
僕は彼女の目を真っ直ぐに見据え、論理的推論によって導き出された、最も残酷な疑問を投げかけた。
「それらを行っている時、君は『楽しい』と感じるのか?」
「……」
千夏の笑顔が凝固した。
「え……?」
彼女は困惑の単音を漏らした。
以前の彼女なら、間髪入れずに即答していただろう。「もちろん楽しいよ! 友達といるのが一番だもん!」と。
それが模範解答だからだ。
仮面にプリインストールされた音声データだからだ。
ずっと自分自身を騙し続けてきた嘘だからだ。
だが、今は違う。
街灯の薄暗い交差点で、過去数日の出来事を経て、さらにあの鬼道の嘲笑が耳に残っている今。
その模範解答は喉に詰まり、どうしても吐き出すことができなかった。
『楽しい……?』
『炎天下で二時間並んで、あの子達が自撮りしてるのを見て、私は楽しい?』
『体育館で声枯らして叫んで、水の一本も渡されないのに、私は楽しい?』
『宿題を写されて、私の嫌いな話題で盛り上がってるのを見て、私は……楽しい?』
「彼女たちが私の興味のない男の話を楽しそうにしているのを見て、私は本当に……楽しい?」
沈黙。
長く、息苦しい沈黙。
彼女は口を開き、反論しようとし、「楽しいよ」と言おうとしたが、最終的に漏れたのは、今にも泣き出しそうな、力のない苦笑だけだった。
「……そういう質問、ずるいよ」
彼女は目を伏せ、ポケットの中で握りしめていたスマホから手を離した。
「連絡先を交換しよう」という言葉は、その溜息と共に、彼女の腹の底へと飲み込まれていった。
「じゃあ、また月曜日に。霜月くん」
彼女は背を向け、もうこちらを見ようともせず、早足で改札口へと吸い込まれていった。
その背中はいつもより小さく、まるで尋問から逃走する犯人のように見えた。義務と虚飾に満ちた牢獄へと逃げ帰っていく囚人のように。
僕は彼女が消えた方向を見つめた。
彼女は「楽しい」とも、「楽しくない」とも答えなかった。
その答えを出せない状態こそが、彼女の内なる秩序が崩壊しつつある証拠だ。
「……まったく、面倒な週末になりそうだ」
僕は視線を戻し、帰路についた。
予感がある。
「自我」という名の種子が、彼女の心の中で野生的に成長し、あの分厚い虚飾のコンクリートを突き破ろうとしている。
そんな予感を抱きながら、僕は家のドアを開けた。
出迎えたのは、静寂に満ちた部屋と、玄関に脱ぎ捨てられた見慣れたローファーだった。
凛が来ている。
これにて、第1部「感情欠落の怪物と、仮面の聖女」編は完結です。
派手な事件は起きませんでしたが、二人の「居場所」が確定した。それだけの、静かな結末でした。
**しかし、本当の物語はここからです。**
明日から始まる**【第2部】**では、
今回ラストで示唆された**「妹・凛の沈黙」**が、理人の日常を大きく揺るがします。
そして、鬼道蓮も本格的に動き出します。
**「平穏」は終わり、「激動」が始まります。**
本日の更新はここまでです。
一気読みにお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
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明日は**【19:10】**から第2部スタートです!




