聖女の充電方法 ~彼女にとっての、俺という「避難所」~
帰宅した時、マンションは漆黒の闇に包まれていた。
今日は凛が来ていない。
玄関に脱ぎ散らかされたローファーもなく、リビングからバラエティ番組の騒音も聞こえない。
これが過去十六年間、僕が最も慣れ親しんできた、「孤独」という名の常態だ。
だが、いつものような気楽さは感じなかった。
むしろ……室内の空気が、わずかに希薄になったような錯覚さえ覚える。
僕はキッチンへ行き、水を一杯注いだ。
舌先にはまだ、安っぽいあんこの甘ったるい味が残っている気がした。
「……論理性を欠いた食習慣だ」
僕は低く評価を下したが、口をゆすぐことはしなかった。
ソファに座り、日課である自己システムの定期点検を行う。
ここ数日、僕の行動パターンには著しい偏差が生じている。
他人のトラブルへの能動的介入。騒音源の接近許容。あまつさえ、栄養価の低い炭水化物の摂取。
従来のアルゴリズムに照らせば、これらは全て「非効率」かつ「高リスク」な行動だ。
しかし。
【自己診断結果:ストレス値の上昇なし。】
それどころか、長年胸を圧迫していた、虚構の世界を泳ぐことによる窒息感が、わずかに軽減している。
「嫌いではない、か……」
僕は窓外の夜景を見つめた。
不快でないのなら、この変化をひとまず「良性なシステム更新」として分類し、観測を続行しよう。
……
翌朝。
二年B組の席に着くと同時に、前の席の「無害な騒音源」が定刻通りに振り返った。
「よう霜月! おっはー!」
田中洋平は、永遠に曇ることのないような快晴の笑顔を浮かべている。
昨日の宿題借用未遂、およびその後の補習を経て、彼は僕を一方的に「身内判定」したらしく、周囲からの「なんであの変人と話してんの?」という視線を完全に無視している。
「おはよう」
僕は本を取り出し、対話を拒絶する姿勢で会話を終了させようとした。
だが、鈍感力レベルMAXの田中には効果がない。
「なあなあ霜月」彼は椅子にまたがり、背もたれに顎を乗せて、興味津々といった顔で僕を見た。
「俺ずっと気になってたんだけどさ、お前放課後いつも何してんの? 授業終わった瞬間消えるし、部活やってるわけでもなさそうだし、まさか『帰宅部のエリート』ってやつ?」
「部活には入っている」僕はページをめくった。
「え? マジで?」
田中は信じられないニュースでも聞いたかのように目を見開いた。
「ウチの学校に、お前を受け入れられる部活なんてあんの? ……あ、悪ぃ、そういう意味じゃなくて。何部? 格闘技系? それとも文芸部とか?」
「気象観測部だ」
「……は?」田中が固まった。
彼の大脳が必死にその単語を検索し、検索結果ゼロでエラーを返したようだ。
「き、気象? 天気予報見るやつ? そんな部活あったっけ?」
『聞いたことねえ……なんか地味で退屈そう。』
『でも……お前の冷めた雰囲気と妙に合ってる気もするな。』
「特別教室棟の最上階にある。大気圧と流体力学に興味があるなら、見学を歓迎するぞ」
僕は誠意のかけらもない招待状を出した。
「ハハッ、勘弁してくれよ。俺、物理アレルギーなんだわ」
田中は笑って手を振ったが、その目に嘲笑の色はなく、純粋な感心だけがあった。
「でもすげーな、打ち込めるもんがあって。俺なんてサッカーも中途半端だし、将来何したいかも全然わかんねーし」
僕らが(主に彼が一方的に)雑談をしていると、教室の前方のドアが開いた。
星野千夏が入ってきた。
彼女は相変わらず女子グループに囲まれているが、今日の彼女は、いつもと何かが違っていた。
外見の変化ではない。纏う空気だ。
常に張り詰めていた、いつ切れてもおかしくない焦燥感が消え、疲労感はあるものの、どこか安定した余裕が漂っている。
彼女は教室に入り、こちらへ視線を走らせた。
そして、クラス中の驚きの視線を浴びながら、彼女は足を止め、僕――あるいは僕と田中のいる方向に向かって、微笑んで会釈した。
「おはよう、霜月くん。おはよう、田中くん」
声は大きくないが、明瞭だった。
班長のイメージ維持のための作り笑いではなく、ごく自然な、友人に接するような挨拶。
路人(裏):
『……え?』
『自分から挨拶した? あの星野さんが、あの霜月に?』
『昨日一緒に帰ってたってマジ? まさか付き合ってんの?』
空気が一秒間凝固した。
田中は恐縮して手を振り返した。「お、おう! おはよ委員長!」
僕はただ頷き、応答とした。
千夏は周囲の視線を気にすることなく、挨拶を済ませると自然に自分の席へ戻っていった。
「千夏! ちょっとこれ見てよ!」
女子Aがいつものように、雑用の山を彼女の前に押しやった。
「この表埋めなきゃなんだけど、意味わかんなくてさー。やっといてくんない?」
二日前なら、千夏の内面は『やりたくない』『めんどくさい』という悲鳴で満たされていただろう。
だが、今日は違う。
『……表作成? 十五分くらいで終わるか。』
『まあいいや、今日は気分がいいし。』
『放課後になれば、あそこに行って、霜月くんと二人になれる。』
『……これくらいの雑用、我慢すればいい。』
彼女は、気象観測部を自身の「充電スタンド」として再定義したようだ。
電力が補充できると分かっているから、消費を恐れなくなったのだ。
「いいよ、貸して」
千夏は書類を受け取った。相変わらず「都合のいい人」を演じてはいるが、その笑顔からは悲壮感が消え、「どうでもいい」という淡白さが混じっていた。
僕は視線を戻した。
これは微妙な均衡だ。
彼女はまだあの虚偽のサークルから完全に脱却できてはいないが、少なくとも、そこで崩壊せずに生存する方法を学習した。
この日々が続くなら、それも悪くない。
僕はそう思った。
しかし。
世界は常にエントロピー増大の法則に従う。
安定ではなく、混沌こそが常態なのだ。
千夏ちゃん、吹っ切れましたね!
「部室に行けば充電できる」と分かったからこそ、教室という戦場でも笑顔を作れる。いい関係性です。
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次は**【本日 18:10】**に更新します。
(酸っぱい高級コーヒーと、部室の平和を壊す「あの男」の乱入)




