たい焼きによる「論理的攻略」
「……だからね、あの新作のファンデ、高いけど皮脂崩れ防止効果はマジで神だよ」
佐伯先生は鞄を片付けながら、僕には理解できず、理解する興味もない化粧品の話題で千夏と盛り上がっていた。
意外なことに、佐伯先生は千夏のトークテンポについていけるだけでなく、「ドラッグストアで買えるジェネリック(代替品)」の提案まで行っていた。
「じゃあ今度、薬局見てみます。ありがとうございます、先生」
「おう。ほどほどにな。観測も、デートも」
佐伯先生は手をひらりと振り、機嫌良さそうに部室を出て行った。
教師としてのモラルが欠如した捨て台詞を残し、鉄の扉が再び閉まる。
部屋には僕と千夏だけが残された。
空気が気まずくなることはない。むしろ大人の圧迫感が消えたことで、同世代特有の気安さが満ちた。
「佐伯先生って……不思議な人だよね」
千夏はドアを見つめ、感嘆したように言った。
「やる気なさそうに見えて、なんかこう……カッコいいっていうか。全部お見通しって感じ」
「それは過度な美化だ」
僕は記録ノートを閉じ、鞄をまとめた。
「あの人は単に怠惰で、社会的責任から逃避しているだけだ。人生のロールモデルにするなら、君の将来は暗い」
「厳しいなぁ」千夏は笑い、自分の鞄を背負った。「でも私からすれば、このルールだらけの学校であんなに自由に生きてるってだけで、すごいことだと思うよ。私も……少しだけ、あんな風になれたらなって」
……
学校を出る頃には、日は完全に落ちていた。
街灯が道を明るく照らし、商店街からは賑やかな販促BGMが流れてくる。
昨日のような重苦しい沈黙とは異なり、今日の星野千夏は明らかに「システム高負荷運転後の冷却期間」、あるいは「解放状態」にあるようだ。
彼女は僕の隣を歩きながら、軽快な足取りで、通りの両側の店をキョロキョロと眺めている。
「わっ! 見てあれ!」
彼女が突然、アクセサリーショップのショーウィンドウを指差した。
スパンコールが散りばめられたブレスレットが飾られている。
「あのデザイン超かわいい! 最近ああいうレトロっぽいの流行ってるんだよね」
僕は一瞥した。
「アクリル樹脂と粗悪な合金の組み合わせだ。光の反射率が高すぎて視覚疲労の原因になる。それにそのデザインは三ヶ月後には陳腐化する。資産価値の低い商品だ」
「……」
千夏の興奮が凍りつき、次いで頬を膨らませた。
「霜月くんってホントつまんない! 『可愛い』は正義なの! 分かる?」
「『可愛い』は主観的評価であり、定量化できない」
「はいはい、定量化できない」
彼女は唇を尖らせたが、怒ってはいない。
『口は悪いけど、まともな人間だと思わなければ逆に笑えてくるかも。』
『Siriと会話してるみたい。』
……人工知能扱いか。
僕はその評価を無視することにした。
角を曲がった時、甘ったるい香りが漂ってきた。
たい焼きの屋台だ。店主が慣れた手つきで金型をひっくり返し、湯気を立てている。
千夏の足がピタリと止まった。
『あ……たい焼き。』
『夕飯前にこれ食べたら太るよね……でも、すごいいい匂い。』
『今日はレナたちに振り回されて疲れたし、糖分補給が必要不可欠……』
迷いは一瞬だった。彼女は振り返り、目を輝かせて僕を見た。
「ねえ、霜月くん。食べる?」
「拒否する」
僕は即答した。
「夕食まで一時間を切っている。このタイミングで高GI値の炭水化物を摂取するのは、正餐の食欲を減退させ、かつインスリン分泌の異常を引き起こす」
「また出た、そのつまんない理屈」
千夏は僕の拒絶を完全に無視し、屋台へと歩き出した。
「おじさーん! 二つください! あんことカスタード!」
二分後。
彼女は二つの紙袋を持って戻ってきた。そして、「あんこ」が入った方の袋を、強引に僕の手に押し付けた。
「はい。これあんこ」
僕は手の中の物体を見つめ、眉間に皺を寄せた。
「僕は先ほど、明確に拒絶の意思表示をしたはずだが」
「知ってるよ」
千夏は自分のカスタードたい焼きを一口かじり、至福の表情を浮かべた。
「でも、もう買っちゃったもん。霜月くんが食べないなら、捨てるしかないよ? もったいないけど、フードロスも仕方ないね〜」
彼女は横目で僕を盗み見た。その目には悪戯っぽい光が宿っている。
これは明白な倫理的人質だ。
彼女は理解している。僕が「カロリー摂取」よりも、「資源の浪費」という非効率的行為を嫌う性格であることを。
『へへっ、この手なら絶対断らない。』
『佐伯先生が言ってた。「あいつには理屈じゃなくて、既成事実で攻めろ」って。』
……あの不良教師、余計なことばかり入れ知恵しやがって。
僕はため息をついた。
手の中の湯気を立てるたい焼きを見つめ、0.5秒の損益計算の後、妥協を選択した。
「今回だけだ。次はないぞ」
僕は頭からかぶりついた。
皮はパリッとしていて、中身は熱かった。
過剰な糖分が口腔内に拡散し、確かに脳へ、ある種の短絡的な快楽信号を送ってくる。
「美味しい?」千夏が顔を覗き込んできた。目が三日月のように細められている。
「糖分過多だ」僕は口をもごつかせながら答えた。
「それ、『美味しい』って意味だね」
千夏は勝手に翻訳し、満足げに歩き出した。
僕はその後ろ姿を追った。ポニーテールが歩調に合わせて揺れている。
昨日はあれほど緊張して狼狽えていた人間が、今はたい焼き一つで、こんなにも無防備な笑顔を見せている。
人間の感情調整メカニズムとは、実に論理性を欠いており、予測困難だ。
駅前で僕らは別れた。
改札に消えていく彼女の背中を見送り、僕はポケットに残っていた半袋のグミ――さっき部室で彼女が強引に押し付けてきた「お土産」――に触れた。
「……面倒な奴だ」
僕はグミを一粒、口に放り込んだ。
コーヒーに砂糖は入れないが、たまの直接摂取も、悪くはない。
少しだけ呆れを含んだ思考と共に、僕は帰路へと足を向けた。
千夏ちゃん、強い!
理人の「効率厨」設定を逆手にとって、たい焼きを食べさせるとは……。
佐伯先生の入れ知恵、効果てきめんでしたね。
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(翌朝の教室。エネルギーを充電した千夏が、クラスの空気に対して意外な「余裕」を見せます)




