距離感バグのサッカー馬鹿 ~俺のATフィールドが無効化される件~
翌朝。
二年B組の教室に足を踏み入れた時、「空気」という名のデータストリームは依然として揺らいでいたが、僕が想定していたような劇的な化学反応は起きていなかった。
僕は窓際の席へ行き、腰を下ろした。
鞄をフックに掛けた直後、前の席の背中が猛烈な勢いで回転してきた。
運動部特有の、制汗スプレーの匂いを伴って。
「よう霜月! おっはよー!」
田中だ。昨日初めて会話したばかりだというのに、まるで十年越しの親友のような口調で挨拶をしてくる。
「……おはよう」
僕は基本的な社交儀礼に基づき、短く応答した。
「なあなあ、折り入って頼みがあるんだけどさ」
田中は両手を合わせ、模範的な「おねがいポーズ」をとった。顔には媚びるような笑顔が張り付いている。
「坂本ちゃんの数学の宿題、ちょっと見せてくんない? 昨日部活が長引いてさ、帰って即行で爆睡しちまって。一限目チェックなんだよ、助けてくれー!」
『ヤベエヤベエ! あの「鬼の坂本」は宿題忘れに一番厳しいんだよな……バレたら絶対廊下で立たされる。』
『霜月なら真面目にやってそうだし……ちょっと怖いけど、頼むだけならタダだし!』
僕は彼を見た。
打算もなければ、「俺たち友達だろ?」といった虚偽の話術による道徳的脅迫もない。
あるのは純粋な、怠惰が生んだ生存の危機だけだ。
「断る」
僕は平坦かつ断固として却下した。
「剽窃行為はアカデミック・オネスティに反するだけでなく、校則違反だ。加えて、君の知識習得には何の寄与もしない。非効率かつ誤った損切り(ロスカット)だ」
「うわっ! ド正論!」
田中は目に見えない弾丸を食らったかのように、大げさにのけ反った。
だが、彼は怒らなかった。
他の人間のように、「ケチくさい」という表情も見せなかった。
「ハハッ、やっぱダメかー! まあそりゃそうだよな、お前、鬼塚にも噛み付くくらいのガチ勢だもんな」
彼は頭をガシガシと掻き、実に爽やかに諦めた。
「しゃーない、今日は『廊下の守護神』になる運命か。坂本ちゃんの機嫌が良いことを祈るしかねえな」
『やっぱ断られたか。ま、当たり前か。』
『こいつ、堅物だけど意外とスジ通ってるよな。』
彼は前を向き、教科書を漁り始めた。口元では知らない流行歌をハミングしており、迫り来る処罰など全く気にしていない様子だ。
僕は彼の背中を見つめた。
異常データだ。
拒絶されても負の感情(怨恨、気まずさ)が発生せず、感情的な揺さぶりもかけてこない。
この「断られても気にしない」という鈍感力、そして根拠のない馴れ馴れしさ(距離感のバグ)は、顔色を窺うことだけに特化したこの教室において、異質ですらある。
だがそれ故に、僕の中での彼に対する分類タグは、「路人」から「無害な生物」へとわずかに上方修正された。
この小さな挿話を処理した後、僕はいつものように、視線を観測対象へと向けた。
【観測対象:サンプルA(星野千夏)】
彼女は教室の反対側の席に座っている。
表面的には、平常運転だ。
周囲の女子と談笑し、顔には微笑みを浮かべている。
だが、継続的な観測者である僕は、データの偏差を鋭敏に感知していた。
「千夏、このノートの束、教員室に持ってってくんない? ちょうど日誌出しに行くでしょ?」
昨日の女子Aが近づいてきて、重そうなノートの山を無造作に千夏の前へ押しやった。
『フン、昨日はよくもドタキャンしてくれたわね。』
『今日は分からせてやる。誰が主導権を握ってるのか。早く受け取りなよ、いつもみたいに笑顔で「いいよ」ってさ。』
明白な試金石であり、懲罰だ。
以前なら、千夏はこの瞬間に受け取り、「うん、いいよ」という承諾の言葉を付加していただろう。
反応時間は約0.1秒。脊髄反射レベルだ。
しかし、今日。
千夏はノートの山を見つめ、その視線が一瞬凝固した。
『……また?』
『私だって忙しいのに……自分で持ってけば二分で終わるのに。』
『霜月くんの言ってた……これが、マイナス収支。』
『断らなきゃ、ずっとこのまま……』
彼女の手が、空中で止まった。
わずか1.5秒。
凡人の目には単なる呆けに見えるだろうが、僕の観測において、これは巨大なシステム遅延だ。
新しい論理(拒絶)が、古い慣性(服従)と激しく衝突している証拠だ。
「……千夏?」女子Aが片眉を上げ、声に苛立ちを滲ませた。「なに? 嫌なの?」
その催促の声で、千夏は弾かれたように我に返った。
古い慣性が、辛うじて新しい論理をねじ伏せたのだ。
「あ……ううん、平気」千夏はノートを受け取った。笑顔の硬直度は以前より5%増している。「ちょうどついでだし。任せて」
女子A(裏):『チッ、何ボサッとしてんのよ。』
『受け取ったけど、なんか最近あいつ変……あの目、なんかムカつく。』
結果は変わらなかった。
だが、あの「1.5秒の遅延」こそが、星野千夏が慣性から脱却しつつある兆候だ。
……
「おい、霜月」
前の田中が突然また振り返った。先ほどの僕の拒絶など完全に無視し、苦悩に満ちた顔で教科書を指差している。
「写すのがダメならさ、教えてくんね? この問題……『xを正の整数とする』って……これ一体どういう意味? サッカー用語で説明してくれね?」
僕はため息をついた。
どうやら千夏の崩壊を観測する前に、まずこの単細胞生物の補習問題を解決しなければならないらしい。
「xを、お前たちのゴールキーパーだと仮定しろ……」
「おお! 分かった!」
田中のパッと輝いた顔を見て、僕は認めざるを得なかった。
あちら側の、いつ爆発してもおかしくない女子グループに比べれば。
こちらの「空気」は汗臭く、馬鹿の匂いが充満しているが、確かに……「人間」があるべき単純さに満ちている。
「距離感バグのサッカー馬鹿」、田中くん初登場です。
ギスギスした教室の中で、彼の存在は清涼剤ですね(笑)。理人ともいいコンビになりそうです。
そして千夏が見せた「1.5秒の遅延」。
結果は変わりませんでしたが、これは彼女の中で「拒絶」のプログラムが起動し始めた証拠です。
本日の更新はここまでです!
一気読みにお付き合いいただき、ありがとうございました!
--------------------------------------------------
**【読者の皆様へのお願い】**
ここまで読んで「続きが気になる!」「千夏ちゃん頑張れ!」と思ってくださった方は、
**ページ下にある【☆☆☆☆☆】をタップして評価していただけると、執筆のモチベが爆上がりします!**
(なろうは評価がシビアですが、皆様の★が頼りです……!)
ブックマーク登録もぜひお願いします!
--------------------------------------------------
明日は**【12:10】**に更新予定です!




