沈黙という名の「異常データ」 ~妹が隠したエラーコード~
帰宅した時、時刻はすでに午後七時を回っていた。
ドアを開けると、玄関の明かりが点いていた。
どうやら、あの帰りたがらない「避難民」は、今日もここに居座っているらしい。
僕は靴を脱ぎ、リビングに入った。
霜月凛がソファにうつ伏せになり、ハーゲンダッツのカップを片手に、退屈なバラエティ番組を眺めていた。
「よっ、お帰り」
彼女は物音に気づき、こちらを一瞥した。
口調は軽快だったが、僕は彼女の目元に隠しきれない疲労の色と、床に置かれたスクールバッグの異変を鋭敏に捉えた。
バッグの口が開き、中の教科書が乱雑にはみ出している。普段の彼女は無造作に見えて几帳面な性格であり、これは彼女の行動パターンと一致しない。
僕は鞄を置き、ネクタイを緩めた。
「昨日は来なかったし、連絡もなかったな。何かあったのか?」
僕は努めて何気なく尋ねた。
これはあくまで、兄妹間の基本的な情報確認だ。
凛がアイスを掬う手が、一瞬止まった。
「あー……別に。友達とちょっとゴタゴタしてて、その処理してただけ」
沈黙。
僕は眉をひそめた。おかしい。
凛の性格モデルに基づけば、彼女は絶対的な「言行一致」の人間だ。
単なるトラブルなら、彼女の反応は「あーあいつマジうざい!」とか「学校マジ疲れた!」といった大声での愚痴になるはずだ。彼女は不満をストレートに言語出力するタイプであり、今のように言葉を濁すことはあり得ない。
だが今回、その曖昧な「ちょっとゴタゴタ」の後、彼女は何も言わなかった。
愚痴もない。説明もない。
それどころか、心声さえもが空白だった。
まるで信号伝送が突如として切断され、不気味なほどの死寂だけが残されたかのようだ。
「……そうか」
僕は彼女を見たが、深追いはしなかった。
システム異常は検知したが、彼女から救難信号(SOS)が発信されていない以上、僕に強制介入する理由はない。
凛もまた、この話題に触れられることを拒んでいるようだった。
彼女は素早く状態をリセットし、スプーンで僕を指差し、強引に話題を転換した。
「それより兄さん、あんた今、学校で有名人よ」
「あの『反逆のヒーロー』って何よ?」
「……その気持ち悪い呼び方はやめろ」
僕はキッチンへ行き水を注ぎながら、彼女の話に乗った。
「それに、情報の伝播期間が長すぎる。あれは昨日の出来事だぞ」
「はあ? JKの情報網ナメすぎ」
凛はいつもの早口に戻っていた。先ほどの一瞬の空白など、存在しなかったかのようだ。
「発酵には時間がかかんのよ。昨日はみんなビビってただけだけど、一日経って議論されて、あんたの評価が反転したの。今じゃ二年だけじゃなくて、私たち一年生の間でも噂になってるわよ」
彼女はソファから起き上がり、背もたれに顎を乗せて僕を見た。その目には揶揄の色が戻っていた。
「『あの嫌な鬼塚を、正論でボコボコにして赤っ恥かかせた猛者がいる』ってね。しかも『教師のパワハラを論理的に指摘した』って尾ひれまでついてる。一年の女子数人があんたの連絡先知りたがってるわよ。『普段は無口だけど、いざとなったら女子のために身体を張る』っていうキャラ設定、まるで漫画のダークヒーローだってさ」
「それは彼女たちの認知バイアスだ。眼科の受診を推奨する」
僕は水を飲み、キッチンカウンターに寄りかかった。
「僕は誰かのために身体を張ったわけでも、キャラを演じたわけでもない。あれは単なる、過失によるデータ損失に対する論理的修正だ」
「また出た。『帳尻合わせ』でしょ?」凛が笑った。
「その通りだ。僕の論理では、あれは等価交換の取引だ」
「はいはい、等価交換」
凛は肩をすくめ、再びソファに寝転がり、天井を見上げた。
しばらくの沈黙の後、彼女は不意に、独り言のように呟いた。
「でもさ、兄さん」
「理由が何であれ……結果として、あんたは彼女を救った」
「一昨日は私、あんたの目には人間が映ってないって言ったけど」
「昨日は……あんたは確かに彼女の困ってる姿を『見て』、そして選んだ。そうなんじゃない?」
僕は凛の背中を見つめた。
「……そうかもな」
「すぐにあんたがまともな人間になれるとは思わないけど……今のあんた、少しだけ『人間臭く』なったわよ」
彼女はスプーンを掲げ、乾杯するように軽く振った。
「その調子で頑張んな、バカ兄貴」
そう言い終えると、彼女は壁の掛け時計を見て、残りのアイスを一気に平らげ、立ち上がった。
「さて、そろそろ帰らなきゃ。母さんから『ちょっと具合悪いから病院行きたい』ってLINEきたし。私がついててあげないと」
彼女は鞄を掴み、玄関へ行き、靴を履いた。
ドアを閉める直前、彼女は背中越しに手を振った。
「じゃあね」
カチャリ。
ドアが閉まる音。
部屋に再び静寂が戻った。
僕はキッチンに立ち尽くし、手の中のコップを見つめた。
この二日間で起きた全てを反芻する。
気象観測部で苦いコーヒーを飲んだ時の千夏の表情。佐伯先生の「慣性」理論。そして今、去っていった凛の背中。
特に、凛のあの不自然な沈黙。
彼女には明らかに何か悩みがあった。だが、言わないことを選んだ。
単一音声の人間にとって、「言わない」という選択自体が、最大の異常データだ。
僕はコップを置き、電気を消した。
明日の学校は、また騒がしくなるだろう。
次に訪れる制御不能な未来に対応するため、今はスリープモード(休息)が必要だ。
妹の凛、再登場です。
いつもはうるさいくらい喋る彼女が「沈黙」している。
理人の言う通り、これは明らかな異常事態です。
彼女が何を抱えているのか……それはもう少し先のお話。
**本日まだまだ更新します!次がラストです!**
次は**【本日 20:10】**に更新します。
(翌朝の教室。重苦しい空気をぶち壊す「あのバカ」が登場します)




