仮面を外した帰り道
カップのブラックコーヒーを飲み干すと、窓の外は完全に暗くなっていた。
気象観測部の活動時間は終了だ。
僕は記録ノートを片付け、百葉箱を閉め、あの錆びた鉄の扉に鍵をかけた。
「……帰るぞ」
僕はうつむいて座っている星野千夏に声をかけた。
今の彼女には、来た時のような張り詰めた空気はない。まるで高難度の数学の問題を解き終えた受験生のように、どこか放心状態だった。
僕らは前後になって階段を下り、旧校舎の渡り廊下を抜け、昇降口へ向かった。
その間、会話は一言もなかった。
だが、静かというわけではない。
星野千夏(裏):
『……あの時、彼はどうしてあんなに冷静でいられたの?』
『鬼塚先生の怒鳴り声なんて、私だったらビビって謝るだけだったのに……』
『天気の話でもするように推理を話して、先生に謝らせるなんて。』
『空気を読まなきゃ死ぬ……ずっとそう思ってた。』
『みんなに溶け込むために、弾かれないために、必死で自分の考えを殺してきたのに。』
『でも、この人は空気を完全に無視して、誰よりも強く生きてる……もしかして、間違ってるのは私の方?』
『それに……あれを「取引」だなんて。』
『論理は通ってるし、帳尻合わせなのは分かるけど……なんでだろう、そんな冷たい言葉を聞いて、逆に胸が苦しくなるのは。』
『助けてもらったのに……素直に喜ぶべきなのに……』
彼女の内面世界は、先ほどの衝撃を反復するだけでなく、深い反芻のプロセスに入っていた。
彼女の中で激しい嵐が吹き荒れている。
僕の行動ロジックへの困惑、自身の生存様式への疑念、そしてあの「取引」という定義に対する、ある種の悔しさ。
高密度の思考活動が、途切れることのないデータストリームとなって僕の脳を打ち続けている。
普段なら、こうした結論の出ないループ思考は騒音として処理し、ヘッドホンで遮断するところだ。
だが今日は、そうしなかった。
なぜなら、その心声には嘘がないからだ。
以前の「内心では拒絶しながら、口では喜んで引き受ける」といった虚偽のノイズに比べれば、今の「純粋な困惑」は、聴覚的に遥かに聞き心地が良い。
校門を出ると、駅へと続く道は街灯によってオレンジ色に染められていた。
僕は駅の方角へ歩き出した。
星野千夏は何も言わず、自然と僕の横に並んだ。
前後ではなく、隣に。
人二人分の距離はあるが、傍目には十分「一緒に帰っている」と判定される距離感だ。
「あ、あれ……」
前方のコンビニ前で、アイスを片手にたむろしていた二年生の集団が、動きを止めた。
暗がりから現れた二つの人影を見て、硬直したのだ。
『あれ星野さん? それに……霜月?』
『あの鬼塚先生をボコったっていう猛者?』
『なんであの二人が一緒に? しかもこの雰囲気……喧嘩してるわけじゃなさそうだし。』
『まさか噂は本当だったのか? あの二人、実は仲良いとか?』
驚き。好奇心。下世話な勘ぐり。
空気が瞬時に粘度を増した。
以前の千夏なら、こうした場面に直面した際、万に一つの誤解も生まないよう、即座に完璧な笑顔を貼り付けて駆け寄っていただろう。「あ、偶然会っただけだよ! ちょうど先生の手伝いで……」と。
僕のような問題児と一緒にいるところを見られるのは、彼女の地位にとって明白なマイナス要因だからだ。
僕は避けるために歩調を速めることはせず、興味深く横目でサンプルを観察した。
この「対応を誤れば悪い噂になる」という社会的圧力テストに対し、彼女はどのような意思決定を下すのか?
千夏は顔を上げ、彼らを淡々と一瞥しただけだった。
『……あ、C組の山田たちだ。』
『普段なら、行って挨拶して誤解を解くところだよね。』
『でも……しんどい。』
『どうせ説明したって変に勘ぐるんでしょ。勝手に思ってればいいよ。』
彼女は足を止めず、営業スマイルも作らず、彼らの方を見ようともしなかった。
彼女は無表情のまま、路傍の石ころに気づかなかった通行人のように、呆然とする彼らの前を通り過ぎた。
僕は視線を戻し、脳内の記録帳のデータを更新した。
いつも完璧な仮面をつけていた委員長の顔には、今、なんの表情もない。
その「演技をするのも面倒」という倦怠感が、逆に彼女をいつになくリアルに見せていた。
駅の分かれ道まで来た。
「私、電車だから」千夏が立ち止まり、改札口を指差した。
「僕は徒歩だ」僕は反対側の通りを指した。
「あのね、霜月くん」
背を向ける直前、彼女は鞄のベルトを強く握りしめた。依然として僕の方を見ていない。
「今日のコーヒー……すごく苦かったけど、また分からない問題があったり……気分が乗らない時は……」
「……また、お邪魔してもいいかな?」
『拒絶しないで。拒絶しないで。』
『私……またあそこに居たい。』
僕は彼女を見た。
脳内で瞬時に費用対効果分析を行う。
コストは一杯のインスタントコーヒー代と、彼女が必然的に発生させる心声ノイズ。
対するリターンは、至近距離での優良な「人間行動サンプル」の獲得。
仮面と素顔を行き来する彼女のデータは、僕が人間論理を理解する上で極めて参考価値が高い。
結論。収支はプラスだ。
「構わない」
僕は計算に基づいた回答を出力した。
「閾値を超える騒音を出さない限り、好きにしろ」
「……バカ」
千夏は小さく呟き、口元にようやく、小さな弧を描いた。
「また明日」
彼女は改札を抜け、帰宅ラッシュの人波へと消えていった。
だが彼女が遠ざかっても、「安心」という名の波形は、僕の観測ログに残存していた。
僕は鞄のベルトを直し、帰路についた。
短い同行だったが、周囲の生徒たちの驚愕の視線が告げている。明日のクラスの空気は、恐らくより混濁し、かつ興味深いものになるだろう。
だが、どうでもいい。
以前のような一方的な悪意に比べれば、こうした変数だらけの混乱の方が、観測しがいがあるというものだ。
僕はヘッドホンを装着した。
帰ろう。
「閾値を超える騒音を出さない限り、好きにしろ」
実質的な「部室への入室許可(合鍵)」が出ました。
夕暮れの帰り道、二人の距離感が絶妙ですね。
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次は**【本日 18:10】**に更新します。
(帰宅した理人を待っていたのは、意外な人物でした)




