計算違いの「等価交換」 ~不味いコーヒーと、彼女がここに来た理由~
星野千夏の心拍数が正常範囲に戻ったことを確認し、僕は部屋の隅にある長机へと向かった。
ここは僕のテリトリーだが、最低限の接客プログラムは実行すべきだと判断したからだ。
電気ケトルのスイッチを入れる。
二分後。
僕は得体の知れない物理公式がプリントされた予備のマグカップを、彼女の前のテーブルに置いた。
中身は漆黒の液体。
安物のインスタントコーヒー特有の、少し焦げたような香りが立ち上っている。
千夏は古ぼけた回転椅子に座り、まだ少し落ち着かない様子で周囲を見回していたが、カップを見て動きを止めた。
「……あ、ありがとう」
彼女はカップを持ち上げ、匂いを嗅ぎ、気づかれない程度に眉をひそめた。
「あの……ミルクとか、あるかな? あと紅茶とか……」
「ない」
僕は自分の椅子を引き寄せ、専用のマグカップを手に座った。
「ここにはコーヒー粉しかない。ミルクはないし、紅茶のティーバッグなら先学期に賞味期限が切れた」
「じゃあ……お砂糖は? お砂糖はあるよね?」
「それもない」
「糖分による急激な血糖値の上昇と下降は、長時間の集中力を阻害する。だから調達していない」
「……」
千夏は漆黒の液体を見つめ、表情を引きつらせた。
『……これ、罰ゲーム?』
『何もないのにコーヒー出すとか……これ本当に飲めるの?』
だが、「礼儀正しく振る舞う」という彼女の慣性が働き、彼女は意を決して、薬でも飲むかのように少しだけ口をつけた。
「んぐ……っ」
強烈な苦味が口腔内で炸裂したのだろう。彼女の目鼻が一瞬中心に寄りかけたが、僕と目が合うと、無理やり表情筋を弛緩させて笑顔を作った。
「う、うん……け、結構コクがあるね」
『苦っが!! 舌痺れる!』
『こんなの毎日飲んでんの? 味覚死んでるんじゃない?』
「苦いなら飲まなくていい。強制はしない」僕は平坦に言った。
「ううん、大丈夫。私、これ好きだよ」
彼女は強情にもう一口啜った。
この部屋の「空気」に適応できることを証明しようとしているかのようだ。
カップを置くと、口に残る苦味が、ある種の鎮静剤として機能したらしい。
千夏は長く息を吐き、張り詰めていた肩を少し落とした。
椅子の端に座っていた身体を、背もたれに預ける。
古びた回転椅子がギィと軋み、彼女の疲れた身体を受け止めた。
千夏の視線が部屋の中を泳ぎ始めた。
埃を被った気圧計、壁一面に貼られた天気図、そして窓際にある、場違いに本格的な百葉箱。
「そういえば……私、特別棟の最上階にこんな部室があるなんて初めて知ったよ」
千夏が沈黙を破った。
「気象観測部……普段は何してるの? 天気予報を見るの?」
「それは気象学に対する最大の誤解だ」
その話題が出た瞬間、僕は読んでいた本を置いた。
「天気予報は、気象庁がスパコンでシミュレーションした『確率的結果』に過ぎない。ここでの観測は、局所的な微気象のリアルタイム捕捉だ」
僕は窓の外の雲を指差した。
「例えば今だ。天気予報では『晴れのち曇り』だが、この部屋の気圧計を見れば、過去一時間で3ヘクトパスカル低下していることが分かる。加えて、南西の積乱雲のエッジが毛羽立ってきている(絮状化している)……」
説明を開始した途端、僕の脳は自動的に「出力モード」へと切り替わった。
流体力学の基本原理から、局所的なヒートアイランド現象が降水に与える影響、さらにはこの学校特有の地形が生む風向偏差についてまで。
およそ五分間、僕はノンストップで喋り続けた。
喉の渇きを覚え、コーヒーを一口飲んで初めて、千夏が口をぽかんと開けてこちらを凝視していることに気づいた。
「……なんだ?」
「ううん……意外だなって」千夏は瞬きをした。「普段教室だと一言も喋らないし、聞いても単語しか返ってこないから……まさかこんなに喋る人だと思わなかった」
「それに……」
彼女は僕を見た。その眼差しは、少しだけ柔らかくなっていた。
「そういう話をしてる時、霜月くんの目、いつもみたいに怖くないよ」
『これがいわゆる「オタク特有の早口」ってやつ?』
『意外と……普通の男子高校生っぽいところもあるんだね。』
僕は眉をひそめた。
「客観的法則を陳述しただけだ。人間どもの論理的根拠のない無駄話に比べれば、大気変動の方が遥かにリソースを割く価値がある」
「空気……か」
千夏はその単語を低く反芻した。
彼女は窓の外へ顔を向け、分厚い雲を見つめながら、表情を曇らせた。
「霜月くん、本当に空気の観測が好きなんだね」
「でもさ。そんなに複雑な天気図が読めるのに、どうしてクラスの『空気』は全く読まないの?」
「表面的な平和を維持するために生成される、集団的無意識のことか?」
僕は問い返した。
「それは非効率で、かつ虚偽だからだ。大気の空気は物理法則に従う。それは真実だ。だが君たちの言う空気は、嘘と主観的憶測で満ちている。なぜそんな不確かなもののために、自分の真実を歪める必要がある?」
「だって……読まなきゃ、死んじゃうもん」
千夏の声が、不意に弱々しくなった。
彼女は温かくもないコーヒーカップを両手で包み込み、焦点の合わない目で虚空を見つめた。
「周りの顔色を窺って、みんなの意見に合わせてないと……弾かれて、無視されて、最後には居場所がなくなる」
『中学の時みたいに。』
『リーダー格の子に同調しなかっただけで……次の日から透明人間にされた。』
『教科書をゴミ箱に捨てられて、上履きに画鋲を入れられて、誰も口をきいてくれなくて……あんな地獄、二度と味わいたくない。』
恐怖とトラウマが混ざり合った心声が、冷たい泥水のように僕の脳へ流れ込んできた。
なるほど。
彼女がこれほどまでに「仮面」に固執する根本原因はこれか。
過去の外傷体験が、過剰な防衛機制を生み出している。
部屋に沈黙が落ちた。
窓外の風の音と、僕が本をめくる音だけが響く。
長い沈黙の後、千夏はようやく勇気を振り絞ったように、カップを置いて振り返り、僕を直視した。
「ねえ、霜月くん」
「なんだ」
「どうして、助けてくれたの?」
具体的に何をとは言わなかったが、文脈は明白だ。
昨日の件についてだ。
「聞こえたからだ」僕は彼女を見ず、手元の本に視線を落としたまま答えた。「君の心の声が、救助要請(SOS)を出していた。『誰か助けて』と」
千夏の肩がびくりと震えた。
「理由は昨日言った通りだ」
僕は本を閉じ、顔を上げ、さざ波ひとつない瞳で彼女を見た。
「恩には恩を、借金には返済を。それだけだ」
「……は?」
千夏は呆気にとられた。「それって……あのノートのこと?」
「そうだ。あのノートだ」
僕は極めて真剣に肯定した。
「あのノートのおかげで、僕は復習に要する時間を3時間短縮できた。僕の価値体系において、その3時間の価値は、君の危機を一度解決するコストと等価だ」
「だから、これは『人助け』でも『優しさ』でもない。等価交換の原則に基づいた、単なる取引だ」
千夏は口を開けたまま、僕のあまりに当然だと言わんばかりの顔を見つめていた。
彼女は僕が冗談を言っているのか、あるいは照れ隠しをしているのかを探ろうとしていたが、失敗したようだ。
『……本気で言ってる。』
『この人……本当にバカなの?』
『あんな適当にコピーした紙切れに、そこまでの価値があると思ってるなんて……』
『でも……』
温かい何かが、酸っぱい感情と混ざり合って、彼女の胸の奥から込み上げてくる。
「……なによ、その理由」
千夏はうつむいた。声は少し震えていたが、口元には制御できない、小さくとも確かな笑みが浮かんでいた。
「本当に……計算能力、壊滅的なバカなんだから」
「僕の数学の成績は学年一位だ」僕は訂正した。
「はいはい、学年一位さま」
千夏は顔を上げ、目元を乱暴に拭うと、あの泥のように苦いブラックコーヒーを、一気に喉へ流し込んだ。
「このコーヒー……あんまり、不味くないかも」
『ありがとう。』
今回、その心声には一切の不純物がなかった。
それは鮮明に、温かく、僕の受信機へと届いた。
「単なる取引だ」
理人なりの照れ隠し……ではなく、本気でそう思っているのが彼の面白いところです。
でも、千夏ちゃんにとっては、どんな甘い慰めよりも、その「対等な取引」が嬉しかったのかもしれません。
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(帰り道。仮面を外した千夏がとった行動は……?)




