正しいナイフは、嘘より痛い
家のドアを開ける。
出迎えたのは暗闇と、空気に微かに残る昨夜のカレーの香りだけだった。
凛はいない。
両親はもちろんいない。
この空っぽの単身用マンションは、僕という一人の住人だけの日常に回帰していた。
電気はつけず、窓から射し込む都市のネオンだけを頼りに靴を脱ぎ、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。
冷たい水が喉を滑り落ち、今日の過負荷で発熱した脳を少しだけ冷却しようとする。
リビングへ行き、身体を重くソファに預けた――昨夜、凛が座っていた場所だ。
何をするわけでもなく、テレビもつけない。
僕はただ仰向けの姿勢で、暗い天井を見つめた。
周囲は静かだ。
星野千夏の内なる悲鳴も、鬼塚の言い訳も、鬼道の狂傲な戦太鼓も聞こえない。
冷蔵庫のコンプレッサーが時折立てる低い羽音と、窓の外を走る車のライトが、壁に光と影を投射して移動していく音だけがある。
僕は恒例の「反省会」を行おうとしたが、論理チェーンが半分まで進んだところで、身体が制御権を失ったかのように、柔らかいクッションに沈み込んで動けなくなった。
奇妙な感覚だ。
今日の行動は論理的に完璧だったはずだ。借りを返し、騒音を排除し、リスクを回避した。
だが、昨夜凛が言ったあの言葉が、削除不能なエラーコードのようにシステムに常駐し、思考全体を無限ループ(死のループ)に陥らせている。
『あんたの目には、人間が映ってない』
その言葉が、闇の中で反響し続けている。
僕は千夏の窮地を見たから、手を出した。
鬼塚の隙を見たから、反撃した。
僕の網膜は彼らの動作を鮮明に捉え、脳は彼らの行動を分析した。
これは「見た」ことにはならないのか?
僕が自己弁護を試みようとしたその時、もう一つの声が――より古く、より悲しい声が、前触れもなく脳の奥底で蘇り、凛の声と重なった。
『お前は、その問題の中に……生きた人間がいるってことを、全く気にしてないんだ』
僕の指が、無意識にソファの布地を掴んだ。
力が入りすぎて、指の関節が白くなる。
身体がバグに陥ったような重さ。「最適解」を出したはずなのに胸が塞がるような異常状態……。
これには覚えがある。
その感覚に記憶の触手が引かれ、ゆっくりと、二年前に起きたあの蒸し暑い夏へと伸びていく。
あの時も、僕は今と同じように、電気のついていない部屋に座り、僕の「正しさ」によって崩壊していく全てを見ていた。
……
蝉の声が耳障りなほど降り注ぐ午後だった。
中学二年生の当時、僕はまだ「読心」の能力を持っていなかった。
当時の僕は単純に信じていた。「正しい」論理と、高効率な「行動力」さえあれば、世界中のあらゆる問題を解決できると。
当時、僕には啓介という友人がいた。
僕のことを「言い方はキツいけど面白い奴」だと思ってくれる数少ない変わり者であり、僕にとって唯一の「観測対象」でもあった。
ある日の放課後、いつも明るい彼が、公園のブランコで突然泣き出した。
湿度の高い日で、空気は窒息しそうなほど粘り着いていた。
「理人……見ちゃったんだ」
彼は泣きながら言った。涙が乾いた砂地に落ちて黒い染みを作る。
「親父が、知らないおばさんと、抱き合いながら駅前のホテルに入っていくのを」
「母さんは何も知らなくて、家で親父の夕飯を作ってるのに……」
「どうしたらいい? 理人……気持ち悪いよ、でも母さんに言ったら悲しむし……親父とどう接すればいいのか分からないんだ……」
あの時の僕は、泣いている友人を見て、脳内で即座に論理分析を行った。
問題の核心:情報の非対称性。
苦痛の原因:父親の欺瞞行為、および母親が現状を認識していないこと。
啓介の要求:「どうしたらいい」。
僕の論理において、これは彼が僕に「具体的な解決策」を求めていると解釈された。
気持ち悪いと感じ、どう接すればいいか分からないなら、最適解はこの情報の非対称性を解消し、過失者に責任を負わせ、被害者に事実を知らせて選択させることだ。
だから僕は言った。「任せろ」と。
啓介が顔を上げた。赤く腫れた目に、一瞬光が差した。
彼は僕が慰めてくれるか、あるいは精神的なアドバイスをくれると思ったのだろう。
だが、僕は違った。
翌日、僕は啓介の家を訪ねた。
家には母親しかいなかった。彼女はフルーツを切りながら僕をもてなし、「あら、理人くんまた背が伸びたんじゃない?」と「幸福」そのものの笑顔で話しかけてきた。
啓介は隣でうつむき、不安そうに服の裾をいじっていた。
僕はリンゴを一切れ食べ、その甘ったるい果汁を感じてから、母親を見た。
最も明瞭で、客観的で、一切の感情を含まない言葉で告げた。
「おばさん。昨日の午後三時、啓介の父親は駅前のホテルで、見知らぬ女性と性交渉を行いました。これは啓介が目撃した事実です。この家庭における契約は、一方的に破棄されています」
僕は今でも、あの瞬間を覚えている。
果物ナイフが床に落ちる音。
リビングに満ちていた温かい空気が、瞬時に凍結し、そして崩落する音。
母親の顔に張り付いていた「幸福」という名の仮面が、溶けた蝋のように歪み、剥がれ落ち、最後には極度の絶望と驚愕へと変わっていく様。
そして隣で、まるで悪魔を見るような目で僕を見る、啓介の表情。
「理人……何言ってんだよ!!!」
……
その後の出来事は、ドミノ倒しのように進んだ。
あの夏は異常に長かった。
口論、尋問、別居、離婚。
亀裂を含みながらも辛うじて維持されていたその家は、僕の「正しさ」によって、わずか一ヶ月で粉々に砕け散った。
一ヶ月後。蝉の声がようやく消えかける頃。
啓介が転校することになった。
母親の実家へ引っ越すのだという。
引越しトラックが路肩に停まり、僕はそこに立って、彼が段ボールを運ぶのを見ていた。
当時の僕は、罪悪感など感じていなかった。
結果として、僕は彼の「どうしたらいいか分からない」という難問を解決し、母親を嘘から解放したのだから。
嘘が暴かれるのは痛みを伴うが、それは真実を追求するためには必要なコストだ。
僕は「正しい」はずだった。
しかし、啓介が僕の前に来た。
彼は僕を殴りもしなかったし、罵倒もしなかった。
ただ、空っぽの、見知らぬ他人を見るような目で僕を見ていた。
「理人」
彼は口を開いた。声は小さかったが、あの日の公園での泣き声よりも耳に刺さった。
「お前は正しいよ。親父は確かに浮気してたし、母さんは知るべきだった」
「でもさ、知ってるか?」
「正しいナイフは、嘘をつくより一万倍痛い時があるんだよ」
彼は背を向け、トラックに乗り込んだ。
ドアが閉まる直前、彼は最後の言葉を残した。
「お前はロボットみたいだ」
「お前は問題を解決するために動いてるけど、その問題の中に……生きた人間がいるってことを、全く気にしてないんだ」
トラックは走り去った。
僕は排気ガスの中に一人取り残された。
……
僕は勢いよく目を開けた。
部屋は依然として暗闇の中で、窓外のネオンが天井にまだらな光を落としているだけだ。
胸のつかえは消えていない。むしろ回想が終わったことで、より鮮明になっていた。
『その問題の中に、生きた人間がいるってことを気にしてない』
『あんたの目には、人間が映ってない』
啓介の言葉と、凛の言葉が、三年の時を超えて、この死寂に満ちた部屋で完璧に重なり合った。
「なるほど」
僕は手を持ち上げ、目を覆った。
あの頃の僕には、啓介の心の声は聞こえなかった。
もしあの時、今の能力があれば、彼の心の叫びが聞こえたかもしれない。
『家庭が壊れるのは嫌だ』『ただ愚痴を聞いてほしいだけなんだ』『頼むから誰にも言わないでくれ』と。
だが、僕には聞こえなかった。
僕は彼が口にした「どうしよう」という言葉だけを受理し、独りよがりの「正しさ」を振りかざして、彼の日常を殺した。
確かに、これは僕の「バグ」だ。
行動は見えても、論理は見えても、「感情」という名の論理なき緩衝材が見えていない。
腫瘍を切除しているつもりが、宿主ごと殺していたようなものだ。
「……サンプルA、星野千夏」
僕は低くその名を呟いた。
今日、僕が鬼塚に対して行ったことは、本質的には二年前に啓介の家でやったことと同じだ。
真実を暴き、論理で嘘を圧殺した。
だが、結果は違った。
千夏は啓介のように虚ろな目で僕を見なかった。むしろ最後には、奇妙な目で僕を見ていた。
なぜだ?
今回、僕が彼女の心声を聞いていたからか?
彼女が心の底で「助けてほしい」と願っていたことを知っていたから、あの手段を選べたのか?
僕はソファから起き上がり、すでにぬるくなった水を一気に飲み干した。
「人を見なければ、人を傷つける」
「了解」
僕は自分の空っぽの手のひらを見つめた。
「以前は『聞こえなかった』から間違えた。ならば今は、『聞こえる』以上……」
「このバグの修正を試みるべきだ」
贖罪のためではない。いわゆる優しさのためでもない。
単なる検証だ。「人心」という変数を計算式に組み込んだ場合……
僕があの時よりも完璧な「最適解」を導き出せるかどうか。
自分ひとりしかいないこの部屋で、僕は初めて、この『読心』という能力に対し、単純な嫌悪以外の感情を抱いた。
もしかしたら、これは呪いなどではないのかもしれない。
「盲目」の僕に与えられた、一本の白杖なのかもしれない。
「正しいナイフは、嘘をつくより一万倍痛い」
過去編、書いていて胸が痛かったです。
理人は決して冷酷なわけじゃなく、「見えていなかった」だけなんですよね。
だからこそ、今の「読心」という能力が意味を持ってくる。
本日の更新はここまでです!
一気読みにお付き合いいただき、ありがとうございました!
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明日は**【12:10】**から更新再開です!
(いよいよ第1部完結へ向けて、物語が加速します!)




