鬼道蓮という名の「頂点捕食者」~学園最強の不良からの、非効率な勧誘~
気象観測部を出る頃には、空は完全に暗くなっていた。
校内からは人の気配が消え、遠くのグラウンドから、野球部がボールを打つ金属音が断続的に聞こえるだけだ。
僕は一階の昇降口へ向かい、上履きを脱ごうとした。
本来なら静寂に包まれているはずの場所だ。自動販売機のコンプレッサーが低い羽音を立てているだけの空間。
しかし。
僕が靴箱の扉に手をかけた瞬間、強烈な、圧倒的な圧迫感を伴う「気配」が、空間全体を支配した。
千夏の周りに漂う粘着質な「同調圧力」ではない。
鬼塚が見せていた虚勢の「教師風情」でもない。
もっと原初的で、純粋なナニカ。
ジャングルを歩行中、突如として頂点捕食者にロックオンされた時の感覚に近い。
残っていた数人の生徒が、ある一点を見た直後、怯えたウサギのように硬直した。
そして顔を伏せ、壁際を伝うようにして早足で逃げ出していく。
すれ違いざま、彼らの心の声が漏れ聞こえてくる。
『ヤバいヤバい……なんであそこにいんの?』
『三年生の鬼道だ……』
『逃げろ、あいつこの前、他校の不良グループ全員病院送りにしたらしいぞ……』
『絶対目合わせんな、殺されるぞ。』
鬼道。
以前、佐藤をいじめていた取り巻きの口から出た名前だ。
通行人たちの恐怖に染まったデータから推測するに、通常の不良とは危険度が桁違いの個体。
いわゆる「スクールカーストの頂点」に君臨する存在だ。
だが、この道を避けて引き返すのは明白に非効率だ。
僕は逃げ惑う生徒たちを無視し、自分の靴箱へと直進した。
自動販売機の横に、確かにその巨大な影はあった。
僕と同じ制服を着ているが、ボタンは二つ開けられ、下の黒いTシャツが覗いている。
髪は無造作な黒の短髪。
その眼光は、鞘から抜かれた日本刀のように鋭い。
彼は買ったばかりのブラックコーヒーの缶を片手で弄びながら、その野性味あふれる目で、遠慮会釈なく僕を品定めしていた。
『ほう? 雑魚は逃げたのに、こいつは歩調すら変えねえ。』
『いい目だ。恐怖がない。動揺すらない。』
『こいつか。』
極めてシンプルで、直接的な心声。
余計なノイズがない。
彼の思考は、ヘヴィメタルのドラムビートのようだ。一つ一つの音が重く、鼓膜を叩く。そこには反響も修飾もない。
星野千夏のような、複雑怪奇にねじれた迷路とは正反対だ。
「テメェが、霜月理人か?」
男が口を開いた。低く、天然のハスキーさを帯びた声だ。
彼は近づいてこない。ただ遠くの壁に寄りかかっているだけだが、それだけで空間の支配権を掌握している。
「そうです」
僕は靴箱を開け、外履きを取り出した。
「面識はありませんが、周囲の反応からして、あなたが三年生の鬼道先輩であると推測します」
「ハン、噂通りだな。テメェ、喋り方が面白い」
鬼道はコーヒーを一口飲み、口の端を狂暴に吊り上げた。
「三階から見てたぞ。さっきの職員室前。テメェがあの鬼塚ってゴミを、ぐうの音も出ないほど論破したところをな」
「あれは誤りを訂正しただけです」
「とぼけんな」
鬼道は鼻で笑い、握りつぶした空き缶を、五メートル先のゴミ箱へ正確に投げ込んだ。
「元々、テメェが人助けのために梶原の腕を折ったって聞いてな。俺はテメェのこと、自己陶酔した正義の味方か、綺麗事ばかり抜かす偽善者だと思ってたんだよ。俺はそういう手合いが一番嫌いだ。見てて反吐が出る」
『弱者を守るために暴力を振るう奴は、たいてい自己満足の馬鹿だ。』
『お前もそのタイプだと思って、今日の放課後、現実ってやつを教えてやるつもりだった。』
彼は当初の目的が「制裁」であったことを隠そうともしない。
「だがな」
鬼道の目の色が変わった。より熱く、飢えた色に。
「さっきの一件は、面白かった」
「『教師が生徒をいじめるな』なんて道徳論は一切使わず、『金属音』と『生理反応』なんていうガチガチの理屈だけであいつを追い詰めた」
「テメェは正義のために動いたんじゃねえ。あれは……なんだっけか。『帳尻合わせ』?」
「その通りです」
「カカッ! ハハハハハ!」
鬼道が突然爆笑した。乾いた笑い声が、無人の昇降口に反響する。
「帳尻合わせ! いいなそれ! 気に入ったぜ!」
彼は壁から背を離し、僕の方へ二歩近づいた。
距離が縮まると、圧迫感は倍増する。
「前言撤回だ。テメェは偽善者じゃねえ」
「テメェは俺と同類だ。この学校に漂ってるクソみたいな『空気』が気に食わねえんだろ?」
彼は僕の一メートル前で止まり、見下ろすように僕を見た。
「おい霜月。俺と組まねえか?」
「あの雑魚どもはテメェを怖がってるが、俺は評価してやる。テメェの頭と俺の拳があれば、この学校をもっと面白くできる」
『こいつは賢い。俺より賢い。』
『それにこの目……全てを見透かしてる目だ。』
『こいつと組めば、あるいは一戦やれば、最高にゾクゾクするはずだ。』
勧誘。
学内最強の男からのスカウトだ。
一般生徒なら恐悦至極に感じるか、あるいは腰を抜かす場面だろう。
だが僕にとって、これは形状を変えた「トラブル」に過ぎない。
僕は彼を見た。
戦意に満ちた瞳と、服の上からでも分かる引き締まった筋肉のラインをスキャンする。
「お断りします」
僕は平坦に答えた。
鬼道の笑顔が凍りつく。「あ?」
「第一に、僕は単独行動を好みます。『学校制覇』や『面白くする』といったことには一切興味がありません。非効率な集団活動です」
僕は自分の左腕を指差した。
「第二に、僕は現在負傷者です。対してあなたは、明らかに僕との戦闘を望んでいる。これは僕にとって巨大な安全上のリスク(セキュリティ・ホール)です」
「ぷ……っ」
鬼道は二秒ほど呆気にとられ、再び吹き出した。
今度は、より愉しげな笑いだった。
「テメェ、いい度胸してんじゃねえか。俺の誘いを即答で蹴るとはな」
彼は怒っていなかった。
彼の論理では、弱者こそが媚びへつらうものだ。
僕の拒絶は、むしろ彼のお眼鏡に適う証明となったらしい。
『カカッ、やっぱ当たりだ。こいつは骨がある。』
『ここですぐに尻尾振ってたら、逆に見損なってたところだ。』
「まあいい」
鬼道は肩をすくめ、再びズボンのポケットに手を突っ込んだ。
「テメェは今手負いだ。俺も弱者いじめは趣味じゃねえからな」
彼は背を向け、片手をひらりと振った。
「だがな霜月。テメェはもう俺にロックオンされたぞ」
「この学校で、俺が『胸糞悪くない』と思える奴はほとんどいねえ。テメェはその半分に入った」
「手が治ったら、遅かれ早かれ一回やるぞ。理屈か、拳か、どっちになるかは知らねえけどな」
言い残し、彼は豪快な足取りで自動ドアの外へと消えていった。
先ほど彼に怯えて逃げ出した連中のことなど、一言も触れなかった。
彼の世界において、彼らは道端の小石であり、1バイトのリソースを割く価値もない存在なのだろう。
僕はその場に立ち尽くし、無人になった入り口を見つめた。
鬼道蓮。
言動一致の野獣。
暴力的な因子に満ち、論理は単純極まりないが、意外にも……不快ではなかった。
「……実に、騒がしい一日だ」
僕はため息をつき、外履きに足を入れた。
同盟は拒否したが、またしても厄介な個体に目をつけられてしまったようだ。
だが、見えない場所から飛んでくる陰湿な矢に比べれば、ああいうあからさまな挑戦状の方が、処理はずっと楽だ。
僕はヘッドホンを装着した。
帰ろう。
新キャラ・鬼道蓮、登場です。
理人とは真逆のタイプですが、「嘘がない」という点では気が合うのかもしれません。
陰湿な「空気」が漂うこの学校で、こういう直球なキャラは書いていて楽しいですね。
彼が今後どう絡んでくるのか、お楽しみに。
**本日まだまだ更新します!**
次は**【本日 20:10】**に更新します。
(理人の過去。)




