人間関係の「慣性」と「外力」 ~あるいは、変化することの物理的コスト~
ひそひそ話に満ちた廊下を離れ、僕は特別教室棟へと直行した。
気象観測部の鉄扉を押し開けると、西側の窓から夕陽が射し込み、舞い上がる塵を金色に染め上げていた。
僕は百葉箱の前に行き、機械的に夕方のデータを記録した。
気圧は上昇、湿度は下降。
嵐の前の低気圧は過ぎ去り、大気は再び安定を取り戻していた。
およそ二十分後。
廊下から気だるげなスリッパの音が近づいてきた。
佐伯涼子がドアを開けて入ってきた。
彼女はどこか機嫌が良さそうで、相変わらず噛み跡だらけの棒付きキャンディを咥えているものの、足取りはいつもより軽快だった。
「よう、『論理処刑人』」
彼女は専用の回転椅子にドカッと腰を下ろし、くるりと回って、ニヤニヤしながら僕を見た。
「今日は派手にやったな。今、職員室はお前の話題で持ちきりだぞ」
僕はペンの手を止め、振り返らずに答えた。
「物理層面のエラーを修正しただけです。鬼塚先生に関しては……」
僕は一呼吸置き、あの男の性格プロファイルに基づいて推論を述べた。
「彼の面子への執着度からして、あれだけの公開羞恥を受けた後、報復行動に出る確率は85%を超えると予測されます」
「報復? ハッ!」
佐伯先生は冗談でも聞いたかのように、短く鼻で笑った。
「安心しろ。あの筋肉脳なら今、自分のデスクで顔面蒼白になりながら、お茶をすすって震えてるよ。背骨を抜かれたクラゲみたいで、見てて笑えるくらいだ」
『ハハッ、ざまあみろってんだ。普段は古株面してデカイ顔してるくせに、生徒に正論でボコられてぐうの音も出ないとか、傑作すぎる。』
『さっきお茶飲む手が震えてたの、今学期一番のエンタメだったわ。』
彼女は内心のシャーデンフロイデ(他人の不幸を喜ぶ感情)を隠そうともしない。
どうやら彼女は職員室で困惑するどころか、特等席でショーを楽しんでいたようだ。
「だから、あいつがお前にちょっかい出すことはない」
佐伯先生は新しいキャンディの包み紙を破りながら、漫然と言った。
「少なくとも今学期中は、廊下でお前を見かけたら脱兎のごとく逃げ出すだろうよ」
「そうですか?」僕は意外に思った。「人間の羞恥心が攻撃性に転化するモデルに基づけば、彼は逆上するはずですが。なぜ萎縮を選択したのです?」
佐伯先生は飴を噛み砕き、視線を窓外へと逸らせた。
『そりゃあ、私が戻るついでに、あいつのデスクに寄りかかって少し「お話」してきたからな。』
『あいつが機材室で違法喫煙してる証拠写真、まだ私のスマホに残ってるぞってリマインドしてやったんだよ。』
『ああいう弱い者イジメしかできないゴミは、ちょっと脅せば犬みたいに大人しくなる。』
『お節介は趣味じゃないが、私の生徒があんなクズに内申書を汚されるのを見過ごすわけにはいかないしな。』
心声が鮮明に鼓膜を打つ。
なるほど。
彼女は単なる観客ではなかった。
彼女は大人の世界のルールと弱み(ネタ)を利用し、舞台裏で鬼塚の報復ルートを完全に遮断していたのだ。
いわゆる「逃げ出す」という結果は、彼女が強引に構築した安全地帯だったわけだ。
「……了解」
僕は視線を戻し、彼女の秘密を暴くようなことはしなかった。
佐伯先生のようなツンデレ(訂正)、面倒くさがりな性格の場合、僕が面と向かって礼を言えば、気まずさや怒りを感じる可能性が高い。
僕は黙って立ち上がり、部屋の隅へ行き、電気ケトルのスイッチを入れた。
二分後。
適温のインスタントコーヒーが彼女の手元に置かれた。
「僕にもいいショーを見せてくれたお礼に、今日はいつもより500円高い豆を使っています」
佐伯先生はそのコーヒーを一瞥し、次に僕の無表情な顔を見て、口元に微かな笑みを浮かべた。
「少しは殊勝なとこあるじゃん」
彼女はカップを持ち上げ、立ち上る湯気の向こうから、鋭さを取り戻した瞳で僕を見た。
「にしても、珍しいな。『絶対不干渉主義』の霜月理人が、あんな泥沼に自ら飛び込むなんて」
「あの委員長のためか?」
「帳尻合わせのためです」
僕は席に戻り、記録ノートを開いた。
「彼女が以前提供したノートには一定の価値がありました。僕は等価の報酬を支払っただけです」
「それに、当時の騒音レベルは確かに基準値を超えていましたから」
「はいはい、帳尻ね」
佐伯先生は適当に相槌を打ったが、僕の言い分を信じてはいないようだった。
彼女は椅子を回し、窓外の夕陽を見つめながら、指先でリズミカルに机を叩き始めた。
「でも、先生」
この雰囲気を利用して、僕は午後ずっと抱いていた疑問を投げかけた。
「サンプルA……つまり星野千夏についてですが。彼女の行動ロジックが理解できません」
「ん?」
「一日中観測しました。彼女は極めて低効率な生存状態にあります。クラスメイトに利用され、友人のゴミ箱にされ、教師に責任を押し付けられている」
僕は脳内の観測ログをめくった。
「彼女の内面は常に拒絶し、悲鳴を上げている。生物の『苦痛回避』の本能に従えば、即座に関係を切断すべきです。しかし彼女はそうしない。忍耐を選び、あまつさえ迎合している」
「なぜ人間は、自らを苦しめる『空気』を能動的に維持しようとするのですか? この不採算取引の合理性はどこにあるんです?」
佐伯先生は黙って聞いていた。
少しの間、僕を見つめた後、彼女は手を伸ばし、机の上にあった古びたニュートンのゆりかご(バランスボール)を指差した。
端の鉄球を弾くと、カチカチと規則的な往復運動が始まった。
「理人、慣性の法則は知ってるな?」
「ニュートンの第一法則。物体は外部から力を加えない限り、静止または等速直線運動を続ける」
「その通り」佐伯先生は揺れ続ける金属球を見つめた。「人間関係にも質量があるんだよ。星野にせよ、お前が以前助けた佐藤にせよ、彼らは巨大な『社会的慣性』の中にいる」
「慣性?」
「現状維持――たとえそれが苦痛な現状であっても――それを続けるのに必要なエネルギーはゼロだ。ただ耐えればいい。決断しなくていい」
佐伯先生の声は低く、理性的だった。
「だが、『変わる』こと、『拒絶する』こと、これには巨大な『外力』が必要になる。摩擦力に逆らい、孤立し、指差され、生活の軌道が変わるリスクを負うために、莫大なエネルギーを消費しなきゃならない」
彼女は振り返り、僕を見た。
「大多数の凡人にとって、『変化への恐怖』は『忍耐の苦痛』を遥かに上回る。だから彼らは泥沼の中で腐る方を選ぶ。足を抜いて二歩進むよりもな」
「それがお前の言う『非合理』の正体だ。お前は理性が摩擦力を無視できる構造をしてるが、彼らは違う」
『……かつての私と同じようにな。学会の闇を知りながら、ちゃぶ台をひっくり返す度胸がなくて、結局ここに逃げてきた。』
『私も所詮、慣性に縛られた臆病者ってわけだ。』
心声に、自嘲の苦味が混じる。
僕は揺れる鉄球を見つめた。
現状維持エネルギーはゼロ。変化には巨大な外力が必要。
「なるほど」
僕は頷き、この物理モデルを星野千夏の分析にインポートした。
「変化に伴う未知のリスクを恐れ、既知の苦痛を選択した。確かに熱力学のエントロピー増大則に合致します。崩壊は自発的に進行しますが、秩序の構築には仕事が必要です」
「正解」佐伯先生は指を鳴らした。「だから、お前が今日やったことは、単なる帳尻合わせじゃない」
「お前がその『外力』になったんだよ」
「お前は彼女の慣性運動を強制的に断ち切った。これから彼女がどこへ滑っていくのか、軌道に戻るのか、それとも完全に脱線するのか。それは彼女次第だ」
彼女は最後の一口を飲み干し、立ち上がって伸びをした。
「よし、退勤退勤! 早く出ないと教頭に捕まって会議地獄だ」
彼女は鞄を掴み、ドアの前で立ち止まると、背中越しに手を振った。
「悪くなかったぞ、霜月。やり方は乱暴だったが、少なくとも……今日のお前は、血の通った人間に見えた」
『……他人のために怒れるってことは、こいつの心臓もまだ完全に凍っちゃいないってことだ。上出来だ。』
鉄扉が閉まる重い音と共に、部屋に静寂が戻った。
僕は自分の胸に手を当てた。
心臓?
僕は怒ってなどいない。ただ騒音を排除しただけだ。
だが……。
僕は窓の外を見た。
太陽は完全に沈み、街の灯りが点り始めている。
佐伯先生の「慣性理論」は、千夏の矛盾を完璧に説明していた。
外力を加えなければ、彼女は崩壊するまであの演技を続けていただろう。
「慣性と、外力か……」
僕は、千夏が最後に見せたあの呆然とした表情を思い出した。
予感がある。
これからの観測結果は、これまでとは違う数値を示すかもしれない。
佐伯先生の「慣性の法則」理論。
「変わるためには、摩擦力以上の外力が必要」。
人間関係を物理で説明するこの二人は、やはり似た者同士ですね。
そして、理人がその「外力」になりました。
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次は**【本日 18:10】**に更新します。
(新たな「捕食者」が登場します)




