対価の精算 ~君を助けたわけじゃない、これはただの「帳尻合わせ」だ~
鬼塚の重苦しい足音が廊下の尽彼方へ消えると、張り詰めていた空気が、針で突かれた風船のように一気に緩んだ。
星野千夏は全身の骨を抜かれたように膝から崩れ落ち、冷たいテラゾーの床に座り込んだ。
完璧なメイクと笑顔で武装していた顔は、涙と冷や汗でぐしゃぐしゃになっている。
「委員長」の余裕も、「聖女」のオーラもない。
今の彼女は、巨大な恐怖から辛うじて生き延び、脳がまだ震えているただの女子高生だった。
彼女は呆然と僕を見上げている。
涙で洗われたその瞳は、激しく収縮していた。
驚き。困惑。信じられないという色。
委員長(裏):
『……行った? 鬼塚先生……逃げたの?』
『助かった……? 本当に……親を呼ばなくていいの?』
『彼が? なんで? なんで私を助けたの?』
『あんなにみんなから嫌われてるのに……』
巨大な認知的不協和が、彼女の思考を停止させている。
恐怖が引いた後に押し寄せてきたのは、九死に一生を得た脱力感と、価値観の崩壊による迷走だった。
しかし、彼女が口を開くより先に、遠巻きに様子を伺っていた別の生物群が、「安全」の匂いを嗅ぎつけて殺到してきた。
「千夏! 大丈夫?!」
「うわーん、怖かったよぉ! 千夏ちゃん怪我ない?」
「鬼塚マジ最悪! 私は千夏が無くすわけないって信じてたよ!」
女子A、女子B、その他普段から千夏を取り巻いている「親友」たちが、一斉に押し寄せる。
彼女たちは千夏のそばにしゃがみ込み、ティッシュで涙を拭き、背中をさすり、顔いっぱいに「共感」という名の焦燥と義憤を浮かべている。
まるで、さっきまで数メートル離れた場所で冷ややかに傍観し、あまつさえ他人の不幸をほくそ笑んでいたのが自分たちではないかのように。
僕は彼女たちを一瞥した。
「偽善」という名のデータストリームが、人間という生物の演技力の高さを改めて見せつけてくる。
女子A(裏):『あー危なかった。さっき近寄らなくて正解。巻き添え食うとこだったわ。』
『とりま慰めとこ。好感度稼ぐチャンスだし。嘘泣きしとこっと。』
女子B(裏):『めんどくさ。化粧崩れてブサイクな顔。』
『ま、無事だったなら友情ごっこしとかないと。後でハブられたらダルいし。』
女子C(裏):『教師が自爆かよ、つまんね。優等生の転落劇が見れると思ったのに。』
『まあ先生の悪口言っとけば正義側になれるっしょ。』
表層:温かい友情の抱擁、正義の糾弾。
内面:安堵、嫌悪、退屈、同調圧力。
これが、星野千夏が必死に守ろうとしていた「空気」だ。
これが、彼女が自己を犠牲にしてまで媚びていた「友達」だ。
危機が去った瞬間、ハイエナたちは即座に心配そうな仮面を被り直し、「友情」という名の腐肉を分け合い始めたのだ。
千夏はされるがままになっていたが、その視線だけは、人垣の隙間から僕を凝視していた。
彼女にはこの心の声は聞こえない。
周囲の温かい体温と優しい言葉しか感じられないはずだ。
だが、先ほどの極限状態が彼女の感覚を鋭敏にさせたのか、あるいは僕の視線があまりに冷たかったせいか、友人に囲まれた彼女の顔に、いつもの「感謝」の笑顔は浮かんでいなかった。
彼女はただ僕を見て、唇を震わせ、何かを言おうとして声を出せずにいた。
周囲の野次馬たちの視線も、微妙に変化していた。
「おい、さっきの霜月だよな?」
「すげえ……鬼塚を論破したぞ」
「しかも理路整然としてて、ぐうの音も出させてなかった」
「あいつ、ただの暴力バカじゃなかったのか……」
路人(裏):
『ちょっとカッコいいかも。』
『まだ怖いけど、言ってることは正論だったな。』
『鬼塚が凹まされるの見てスカッとしたわ。やるじゃん。』
風向きが変わった。
先ほどまで僕を「危険分子」と見なしていた群衆は、僕がより嫌われている「強権(鬼塚)」を撃破したことで、瞬時に僕をある種の「ダークヒーロー」として再定義し始めた。
立場の違いによる掌返し。安っぽくて無価値だ。
「……うるさい」
僕は低く呟いた。
周囲の空虚な慰めも、無知な称賛も、僕にとっては周波数が違うだけの騒音に過ぎない。
目的は達成した。
債務は清算された。
僕は「九死に一生の友情劇」という三文芝居を鑑賞する趣味はないし、千夏が正気に戻って複雑な感謝や質問をしてくるのを待つつもりもない。
僕は鞄のベルトを直し、踵を返して歩き出した。
「ま……待って!」
背後から、千夏の上擦った声が聞こえた。
彼女は心配するフリをする友人たちを振り切り、床に手をついて立ち上がろうとした。
「霜月くん……な、なんで?」
彼女の声は、純粋な困惑に満ちていた。
委員長(裏):
『なんで?』
『私、心の中であんたの悪口言ったのに。作り笑いも見抜かれてたのに……』
『それに相手は鬼塚先生だよ! 私なんかのために、先生に楯突いて……なんでそこまでしてくれるの?』
僕は足を止めた。
振り返りはしない。顔だけをわずかに横に向け、視界の端で彼女を捉えた。
「勘違いするな。君を助けたわけじゃない」
僕は平坦に言った。
「前回の数学ノートの借りを、返済しただけだ」
「……え?」
千夏が絶句した。
周囲の女子AやBも、ポカンと口を開けている。
「ノ……ノート?」
千夏は理解不能な異星の言語を聞いたかのように、涙を流すことさえ忘れていた。
委員長(裏):
『ノート? あれだけで?』
『あんなの……クラスのイメージアップのために、適当にコピーした紙切れだよ?』
『あんなもの……あんなありふれた安いものに……停学のリスクを冒す価値があるの?』
彼女の価値観において、彼女の献身は安売りされ、卑下されるべきものだった。
彼女は無数の人間にノートを貸し、無数のパシリをこなし、誰からもそれが「対価」に値するとは思われず、彼女自身もそれを「奉納品」として当然だと思い込んでいた。
だが、僕の論理では、価値は価値だ。
「僕にとって、あのノートは3時間の復習時間を節約する価値があった。対して、今の状況処理に要した時間は2分だ」
僕は人差し指で、自分のこめかみを軽く叩いた。
「時間コストのレート(交換比率)で見れば、むしろ僕が得をしたくらいだ」
「これで帳尻は合った。貸し借りなし(イーブン)だ」
言い捨てると、僕は極度の衝撃で呆けている彼女を放置し、ヘッドホンを装着してホワイトノイズを最大音量にした。
背後の世界が遮断される。
だが、あの一瞬の読心によって、彼女の内面世界で発生した巨大な地殻変動だけは、確かに捕捉していた。
女子A(裏):『はあ? ノート? やっぱコイツ頭おかしいわ。紙切れ数枚が理由になる?』
女子B(裏):『意味わかんない……』
それらの雑多な背景音の中で、星野千夏の心の声だけが、壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返していた。
委員長(裏):
『……貸し借りなし?』
『なしじゃないよ……』
『あんな紙切れと……これが、釣り合うわけないじゃん……』
その瞬間、彼女の中で崩壊していた「犠牲と報酬」という名の天秤が、僕という理不尽な重りによって、初めて反対側へと強引に傾けられたのだった。
「勘違いするな。君を助けたわけじゃない」
ツンデレ……ではなく、本心からの「等価交換」ですね。
千夏ちゃんにとっては、人生で初めて「自分の犠牲」以外で助けられた経験かもしれません。
ここから彼女の内面がどう変わっていくのか、ご注目ください。
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次は**【本日 16:10】**に更新します。
(佐伯先生による「物理学的解説」です)




