騒音レベル過多の教師を論破する ~物理的証拠と、震える拳への対処法~
「先生、あなたの騒音レベル、基準値をオーバーしていますよ」
唐突に挿入されたその声は、冷徹な手術刀のように、廊下の灼熱した空気を瞬時に切り裂いた。
怒号を上げていた鬼塚が、呆気にとられたように動きを止める。
教務ファイルを振り上げた体勢のまま、充血した目で僕を睨みつけた。
崩壊寸前だった星野千夏も顔を上げ、涙に濡れた顔で呆然としている。
「……霜月?」
鬼塚が僕を認識した。
「上級生の腕をへし折った狂人」という悪名は、職員室でも轟いているらしい。
彼の目に一瞬の忌避感が走ったが、それはすぐに大人の権威によって押し潰された。
「これは俺と星野の問題だ! 部外者は失せろ!」
鬼塚は矛を収めるどころか、生徒に話を遮られたことでさらに逆上したようだ。
僕は動かない。
彼から二歩分の距離――細部を観察でき、かつ彼が暴れ出した際に回避可能な安全マージンを保ち、静かに立ち尽くす。
「教育現場に介入する趣味はありません」
僕は、彼が右手に強く握りしめている、分厚い黒革のファイルを指差した。
「ただ、明らかな計算ミス(Bug)を修正しに来ただけです。あなたは先ほどから、星野さんに鍵の在り処を詰問していますが……事実として、あなたのそのファイルから『金属が滑る音』がしていますよ」
「……あ?」
鬼塚の表情が凍りついた。反射的に、手元のファイルを握りしめる力が強くなる。
鬼塚(裏):
『……音だと? 馬鹿な。まさか本当にこの中に?』
『待てよ……さっきの勧誘電話の時……無意識に挟んだか?』
『いや! ありえん! ここで認めたら俺のメンツはどうなる!?』
図星か。
強気だった心声が瞬時に揺らぎ、自己保身のための言い訳へと変質していく。
「適当なことを抜かすな!」
鬼塚はボリュームを上げ、論理を気迫で押し潰そうとする。
「あいつを庇おうとしても無駄だぞ! ここには出席簿しか入っていない!」
「そうですか?」
僕は彼を、滑稽なピエロを見るような目で見つめた。
「物理法則に基づけば、紙が擦れる音はもっと鈍い。ですが、先ほどあなたが腕を振った時に聞こえたのは、金属と硬質プラスチックが衝突する硬質な音でした。指で強く握って固定しようとしているようですが、物体の慣性までは消せませんよ」
一歩、前に出る。
「それに先生。瞳孔が収縮し、心拍数が上昇しています。それは典型的な『図星を突かれて動揺した際』の生理反応です。内心では疑っているんでしょう? 『もしかして本当に挟まっているんじゃないか』と」
「きっ……きさ、ま……ッ」
鬼塚の顔が猪のような赤紫色に染まる。
生徒ごときに衆人環視の中で生理反応を分析されるなど、彼にとっては前代未聞の屈辱だろう。
「証明するための最も効率的な方法は、それを開くことです」
僕は反論を許さない口調でコマンドを入力した。
「あなたが正しいなら、開くのに二秒もかかりません。僕の戯言を証明し、心置きなく星野さんを叱責できる。……なぜ、開かないんです?」
「誰が……開かないと言った!」
追い詰められた鬼塚には、数十の野次馬の視線の前で、もはや退路はなかった。
開かなければ、心虚しいと認めることになる。
彼は歯を食いしばり、何かを引き裂くように乱暴にファイルのファスナーを開けた。
「よく見ろ! 中身なんざ……」
彼はファイルを逆さにし、力任せに振った。
チャリン――。
死寂に包まれた廊下に、金属が床を打つ乾いた音が響き渡った。
赤いタグの付いた真鍮製の鍵が、書類の束の隙間から滑り落ち、テラゾーの床で二度跳ねて、星野千夏の足元で静止した。
視聴覚室のマスターキーだ。
空気が、完全に凍結した。
鬼塚はファイルを振った姿勢のまま、石化したように固まっている。
赤かった顔色が、瞬く間に土気色へと変わっていく。
鬼塚(裏):
『……終わった。』
『本当に入ってやがった……』
『みんな見てる……生徒たちの目が……』
「ありましたね」
僕は足元の鍵を一瞥し、小学生の算数ドリルを解いた時と同じ平坦なトーンで言った。
「確率収束100%。星野さんの過失率はゼロです」
僕は顔を上げ、放心状態の男を見た。
「先生。あなたは先ほど言いましたね。鍵を紛失すれば始末書を書き、錠の交換費用も負担しなければならないと」
「鍵は見つかったので交換は不要ですが……『教師でありながら自身の不手際で生徒を冤罪にかけ、公共の場で言語的暴力を振るった』件については――」
「う……うるせえええええ!!」
鬼塚が突然爆発した。
極度の羞恥が、逆ギレという名の攻撃性へ変換されたのだ。
彼はファイルを床に叩きつけ、拳を握りしめ、僕に向かって大きく踏み込んだ。
制御を失った成人男性が、暴力を行使する際の前兆動作だ。
「目上の敬い方も知らねえクソガキが! 揚げ足取って調子に乗ってんじゃねえぞ!」
彼の手が、僕の胸倉を掴もうと伸びてくる。
周囲の女子から短い悲鳴が上がり、星野千夏が恐怖で口を覆った。
だが、僕は動かない。
瞬き一つしなかった。
僕はただ顔を上げ、「死んだ魚の目」と称される無機質な瞳孔で、彼の目を直視した。
暴力は怖くない。
僕は他人の骨を折り、他人に骨を折られたことがある。
痛みの味も、人体力学の限界も知っている。
彼が手を上げた瞬間、すでに計算は完了していた。
もし彼が拳を振るえば、何度側方へ回避し、どの関節を攻撃すれば彼が瞬時に行動不能になるか。
その計算は怒りによるものではない。単純な防衛プログラムだ。
『やるんですか? 教師が生徒に手を出した瞬間、あなたのキャリアは終了ですよ』
僕の目はそう語っていたらしい。
読心能力を持たない彼でさえ、その意味を読み取ったようだ。
その絶対的な冷静さ、あるいは「無機物」を見るような冷たい視線は、液体窒素のように鬼塚の頭を冷却した。
鬼塚の動きが空中で硬直した。
彼は僕の目を見ていた。
その漆黒の瞳孔には、恐怖も、挑発も、人間的な感情さえも見当たらない。
あるのは底知れぬ虚無だけだ。
鬼塚(裏):
『……なんだこの目は?』
『俺が怖くないのか? コイツ、本当にやり返す気だ……それに、もし手を出したら、俺の方がヤバイことになる気がする……』
『こいつは……人の腕をへし折る化物なんだ……』
恐怖が怒りを上書きした。
冷や汗が彼の額を伝い落ちる。
「……チッ」
鬼塚の手が力なく下ろされた。
彼は周囲を見回し、生徒たちが軽蔑と嘲笑の混じった目で見ていることに気づいた。彼が纏っていた「教師の威厳」は、もはや塵ほども残っていない。
「今回は……俺の見落としだ」
彼は地面の鍵を拾い上げ、最後の面子を保つために、強引な捨て台詞を吐いた。
「星野! 鍵はあったがな、委員長なら教師の持ち物チェックくらいちゃんとしろ! 指導不足だ! 次は気をつけろよ!」
論理のかけらもない暴言を残し、彼は床のファイルをひったくると、僕の方を見ようともせず、そそくさとその場を立ち去った。
その背中は、尻尾を巻いて逃げる野良犬のように狼狽していた。
「先生、あなたの騒音レベル、基準値をオーバーしていますよ」
このセリフ、書きたかったんです(笑)。
理人による「物理的論証」、いかがでしたでしょうか。
感情論ではなく、あくまで物理法則で追い詰めるのが彼らしいですね。
**★カクヨムに追いつくため、本日も一気に【5話更新】します!**
土曜日には第1部完結予定ですので、ぜひお付き合いください!
次は**【本日 14:10】**に更新します!




