エピローグ:観測者から見た『非論理的』な進化
【観測者:霜月理人】
【時間:放課後 一七時四五分】
【場所:駅へ続く坂道】
夕日がアスファルトを深紅に染め上げている。
俺と星野千夏は、帰路を並んで歩いていた。
以前のような、他人の目を気にして空けていた一メートルの距離ではない。俺の後ろをついてくる従者のような距離感でもない。
現在の距離は、三〇センチ。
互いの歩行を阻害せず、かつ、いつでも会話が可能な、『対等』という名の距離だ。
俺は横目で、隣を歩く少女を見た。
彼女は名の知らない鼻歌を歌いながら、足元の影を軽快に踏んで歩いている。
つい一週間前、いつもオドオドして量産型ロボットのようだったこの『委員長』が、現在のような姿に変貌すると誰かに告げられたとしたら、俺はその予測を『発生確率〇・〇一%以下のフィクション』と判定しただろう。
しかし、現実は往々にして論理よりも予測不可能だ。
俺は脳内の『人間観察ログ』を展開し、このわずか四八時間以内に発生した激変への遡及を開始した。
【『ネット流言』事案について】
あれは極めて杜撰な攻撃手段だった。
いわゆる『裏垢』の捏造だが、投稿頻度、語彙の選択、約物の使用パターン、どれをとっても論理的欠陥だらけだった。データを照合すれば、それが偽造品であることは容易に見抜ける。
しかし、群集心理は愚かだ。彼らは退屈な真実よりも、『聖女の堕落』という娯楽を消費することを好む。
当時、教室で狼狽していた星野の姿は、社会的抹殺に直面した際の一般的な急性ストレス反応としては妥当なものだった。
俺が介入したのは、いわゆる『英雄願望』からではない。
彼女が俺に向けた視線――それが憐れみを乞うものではなく、『正解』を乞う目だったからだ。
そして何より……等価交換の原則だ。
前回の佐藤の件を思い出した。あの時、彼女は俺のために完璧な『不在証明』を提示し、俺への疑いを根底から粉砕した。
論理的に言えば、その『論理的負債』を返済するために俺が手を貸すのは合理的だ。
だが、不可解な点がある。
あの瞬間、俺のCPUは『借りの返済』に関する計算を行っていなかった。
『損益分析』すら完了していなかった。
思考よりも先に、体が動いていた。震える彼女の肩を押さえていた。
俺はあの時、返済のことなど考えていなかった。
ただ単純に……彼女が非論理的な悪意によって圧し潰される様を、見たくなかっただけだ。
あるいは。
このサンプルを観測する過程で、いつの間にか……。
観測者である俺自身にも、ある種の不可逆的な『変化』が生じているのかもしれない。
【『更衣室衝突』事案について】
あれは彼女の二度目の敗北だった。
俺は現場にいなかったが、事後の彼女の顔面蒼白な様子と、周囲に充満していた悪意の濃度から、何が起きたかを推論するのは容易だった。
典型的な『ガスライティング』の罠だ。彼女の衝動性を利用し、プライバシー侵害へと誘導し、道徳的優位に立って逆襲する手口。
正直に言えば、放課後に彼女がこの世の終わりのような顔で俺の前に座った時、俺は彼女が崩壊すると思っていた。
常識的に考えれば、泣き喚き、逃避し、あるいは俺に復讐を懇願するのが自然な反応だ。
しかし、彼女はそうしなかった。
彼女は震えながら、俺にこう言ったのだ。「一緒に部活に行こう」と。
その瞬間、俺はある事実を認識した。
このサンプルは、質的変化を起こした。
彼女は有象無象からの承認を求めるのをやめ、『選別』することを学習したのだ。俺と気象観測部こそが自身の『有効な帰属先』であると判定したのだ。
これは極めて高効率、かつ合理的な判断だ。
【『公開謝罪』事案について】
そして今朝の一幕に至っては、完全に俺の予測モデルを超越していた。
クラス全員の前での土下座に近いお辞儀。
高価なGODIVAの譲渡。
表面上、それは屈辱的な降伏に見える。
だが実質的には、あれは教科書通りの『公開処刑』だった。
彼女は玲奈が最も重視する『空気』を逆手に取り、つけ入る隙のない『善意』と『金銭的コスト』によって、相手が被害者を演じ続ける退路を完全に封鎖したのだ。
死中に活を求める。
あのようなハイリスク・ハイリターンの戦術は、あの不器用な星野千夏が考案したとは思えない。
だが、彼女はそれを実行した。
しかも、俺の想定よりも遥かに鮮やかに。
「……理人?」
隣を歩く少女が俺の視線に気づいたのか、鼻歌を止めて振り返った。
かつてはいつも怯えて泳いでいた瞳が、今は澄み切った水面のように俺の影を映している。
「どうしたの? 私の顔に何かついてる?」
「いいや」
俺は視線を戻し、存在しない眼鏡を押し上げた。
「データの更新を確認していただけだ」
「はぁ? またそんな小難しいこと言って」
星野は頬を膨らませたが、すぐにまた笑みをこぼした。
「そういえば、来週はいよいよ林間学校だね! さっき田中君がグループLINEで『秘密のスパイス』を持っていくとか言ってたけど……」
「嫌な予感がする。あいつは絶対に調理プロセスを崩壊させるぞ」
「あはは、そんなこと言わないの! 理人は火起こし担当なんだからね、『マスター』!」
彼女の一切の陰りのない笑顔を見て。
俺は脳内のログの末尾に、最終結論を打ち込んだ。
【観測対象:星野千夏】
【状態:覚醒確認】
評価:
他人に媚びるために生きていた虚構の『聖女』は、死んだ。
代わりに生まれたのは、相変わらず不器用で、感情的だが、自分の足で立つことを学習した『人間』だ。
それに……。
俺は足元で並んで伸びる二つの影を見た。
彼女本人はまだ自覚していないかもしれない。
だが、彼女が俺の名前を呼び捨てにしたあの瞬間から。この世界において、俺の論理演算に『干渉』を及ぼす変数が……また一つ増えてしまったようだ。
「理人! 早く! あそこの夕日、すごく綺麗だよ!」
彼女は数歩先へ駆け出し、坂の頂上で俺に向かって大きく手を振った。
夜風が彼女のスカートと髪を揺らしている。その背景にある茜色の空の下で、その光景は論理的説明がつかないほど美しかった。
「……やれやれ」
俺は軽くため息をついた。けれど、口角が制御できずに二度ほど上向くのを感じた。
俺は歩調を早め、彼女の方へと歩き出した。
(第四巻『偽物聖女の覚醒』――完)




