新生した『聖女』
朝の『公開謝罪』という名の嵐は、教室に澱んでいた空気を根こそぎ洗い流していった。
みんなの視線にはまだ驚きや探究心が混じっているけれど、あの粘りつくような悪意はもう消え去っていた。
玲奈たちはあれ以来、一日中大人しくしていて、私を避けるようにさえなっている。
そして私、星野千夏は、変わらず元の席に座っている。
けれど私はもう、ただ「いいよ」と頷くだけの便利屋じゃない。
【シーン1:退屈な恋バナについて】
昼休み。
私が英単語帳を開こうとした時、教室のドアからひょこっと顔を出す人物がいた。
隣のC組の篠原さんだ。
以前、彼女のクラスの荷物運びを手伝って以来、彼女に目をつけられ、私は無料の感情のゴミ箱扱いされていた。恋愛トラブルが起きるたびに、私に愚痴りに来るのだ。
「ねーねー、千夏ちゃ~ん」
篠原さんは悩み多き乙女の顔をして私の机に突っ伏した。
「聞いてよぉ、彼氏がマジで最悪なの! 昨日のデート十分も遅刻したくせに、謝りもしないで『ゲームしてて時間忘れた』とか言うんだよ? ありえなくない?」
以前の私なら、心の中では「知らんがな」と思っていても、手を止めて愛想笑いを浮かべていただろう。「えぇ? 本当? ひどーい! 篠原さんがかわいそう……」と。
でも、今は。
私は単語帳を閉じず、顔だけ上げて、凪いだ水面のような瞳で彼女を見た。
「ごめんね、篠原さん」
私は単刀直入に切り出した。
「私、今まで一度も付き合ったことないし、初恋すらまだの『恋愛絶縁体』なの」
「私にそんな愚痴を言うのは、お坊さんに『どこの焼肉屋が一番美味しいですか』って聞くようなものだよ。話の意味もわからないし、何の有益なアドバイスもできない」
「え……?」
篠原さんは固まった。私がこれほどあっけらかんと「彼氏いない歴=年齢」を自爆し、しかも話を聞くのを拒否するとは思っていなかったのだろう。
「だから、そういう高尚な話題は、経験豊富な人に話した方がいいよ」
私は笑顔で彼女のクラスの方角を指差した。
「私に話しても、あなたの喉が疲れるだけだし、私も困惑するだけ。これってお互いにとって時間の無駄だよね?」
「あ……はは、そ、そうだよね」
篠原さんは気まずそうに笑った。今日の千夏はちょっと違う、適当に扱えないと悟ったようだ。
「じゃ……じゃあ由美たちに聞いてくる! 邪魔してごめんね!」
彼女は去っていった。
嫌われたわけでも、気まずい空気になったわけでもない。
たった一言の本音で、私は三十分間の無駄話を節約することに成功した。
――感情のゴミ箱を拒否するのって、こんなに爽快なんだ。
【シーン2:得意分野について】
単語を十個ほど覚えた頃、左隣の松本さんが振り返った。
彼女は普段とても静かで、存在感の薄い女子だ。手には数学のプリントが握りしめられていて、随分迷っていた様子が見て取れる。
「あの……星野さん」
松本さんはおずおずと私を見た。
「こんな時に悪いんだけど……この関数の問題、どうしてもわからなくて。来週小テストがあるから、赤点取りたくないんだけど……」
「もしよかったら……教えてくれないかな?」
彼女の手元を見る。補助線を一本引けば解ける問題だ。
そして松本さんの真剣な表情を見る。
彼女はサボるために答えを写そうとしているんじゃない。本当に理解しようとしている。
「貸して」
私は単語帳を閉じ、計算用紙を取り出した。
「え? いいの?」松本さんはパァッと顔を輝かせた。「今日は機嫌悪くて、誰の相手もしてくれないかと思ってた」
「ううん。教えることは私にもメリットがあるから」
私は図形を描きながら淡々と言った。
「人に教えると、自分の中で解法ロジックが整理されて記憶に定着するの。これはいわゆる『双方向利益』ってやつ」
「それに、本当に勉強したい人に教えるのは、嫌いじゃないから」
「ありがとう! 委員長!」
私は五分間、丁寧に解説した。
松本さんの眉間の皺が消え、「そっか、補助線か! ありがとう星野さん!」と感激するのを見て、私も自然と口角が上がった。
――価値あるリクエストを受け入れるのは、悪い気分じゃない。
【シーン3:放課後の境界線】
そして、帰りのホームルームが終わった直後。
先生が出て行くとすぐに、生活委員の女子が焦った顔で寄ってきた。
「星野さん」
彼女は二本のほうきを持ち、困った顔で私を見た。
「あのさ……今日掃除当番の佐藤君が逃げちゃって。私、これから塾があるから一人じゃどうしても終わらないの……悪いんだけど手伝ってくれない?」
以前なら、これは私の『固定残業』だった。
「いいよ、任せて」――それは私の口癖だった。
でも、今日。
私は帰りの支度をする手を止めなかった。
「ごめん」
私は鞄を背負い、生活委員を見て、穏やかだが一切の妥協を含まない声で言った。
「私にも部活があるの。待ってる人がいるから」
「あ……そっか」
生活委員は少し残念そうだったけれど、それ以上食い下がってはこなかった。ただ頷いただけだ。
「仕方ないね、じゃあ急いで一人でやるよ。バイバイ」
彼女は私が冷たいと文句を言うことも、手伝って当然だと思うこともなかった。
なぜなら、私が「私の時間も貴重なのだ」という概念を確立したからだ。
私が自分の時間を安売りしなくなった時、他人も私の拒絶を尊重するようになる。
……
鞄を持ち直す。
私は机の間の通路に立ち、深く息を吸った。
窓の外の夕日が教室を茜色に染めている。
玲奈たちはカフェの話をし、男子たちはゲーセンの話をしている。
みんな、それぞれの帰る場所がある。
そして私にも、ある。
クラスメイトたちの視線を肌に感じながら、私は以前のようにコソコソと後ろを見ることはしなかった。
堂々と、迷いなく、教室の隅へと歩み寄る。
理人はそこに座っていた。
彼はまるでタイミングを計っていたかのように、私が近づいた瞬間に最後の一冊を鞄にしまい、ファスナーを閉めた。
彼が立ち上がる。
その底知れない瞳が私を見る。
余計な挨拶はいらない。
「終わった?」なんて確認もいらない。
周囲の目なんて気にする必要もない。
「理人、行こう」
私は彼を見て、自然にその名前を呼んだ。
「ああ」
理人は短く応じた。
彼は鞄を持ち、席を離れる。
私たちは並んで教室の出口へと歩き出した。
周囲の話し声が少し小さくなった気がする。
今日はもう十分すぎるほど驚きを提供したはずなのに、「さっき大立ち回りを演じた委員長」と「論理の怪物」が当たり前のように連れ立っている姿に、みんな好奇の目を向けずにはいられないようだ。
「また一緒に帰ってるよ」
「あの二人、どういう関係?」
「なんか今の委員長、オーラすごくない?」
ひそひそ話が耳に届く。
でも私は振り返りもしなかった。
他人の評価?
根拠のない噂?
そんなものはもう、私を縛る鎖にはなり得ない。
私は横を向き、脇目も振らず、今夜の風速について淡々とシミュレーションしている少年の横顔を見た。
夕日に引き伸ばされた彼の影と、私の影が重なるのを見る。
それで十分。
この人の隣を歩いている限り、私は一番リアルな私でいられる。
私たちは言葉を交わしながら、教室を出た。
かつて私の呼吸を奪っていた、この箱庭を、完全に背後へと置き去りにして。




