感情欠落者の憂鬱、あるいは世界一不衛生な説教について
人間という生物は、常に目に見えない「ナニカ」に縛られているようだ。
彼らはそれを、『雰囲気』あるいは『空気』と呼ぶ。
彼らの世界において、空気とは単なる窒素と酸素の混合気体ではない。それは感情の粒子、暗黙の了解、そして嘘で構成された、粘性の高い媒体だ。
彼らは不適切な感情を吸い込まないように、あるいは場違いな本音を吐き出さないように、細心の注意を払って呼吸をしている。
……僕には、理解できない。
僕にとっての空気とは、生命維持に必要なガス交換の材料でしかないからだ。
だから僕は、いつも選択を間違える。
少なくとも、彼らにとっては「間違い」なのだろう。
窓の外では蝉がうるさく鳴き、病室のエアコンが低い羽音を立てている。鼻腔を満たすのは、病院特有の消毒液の匂いだ。
僕は、この匂いが嫌いではない。
汗とチョークの粉、そして「協調性」という名の濁った空気が充満する教室に比べれば、この冷たく、死の気配さえ漂う清潔感は、むしろ安心感を与えてくれる。
教室の空気は、炭酸飲料と果汁と牛乳を混ぜ合わせたような、極彩色のカオスだ。
対してここは、ミネラルウォーターに近い。
――だが。
その透き通った水に今、大量の二酸化炭素が注入されようとしていた。
「……おい! 聞いているのか! 頭の打ち所でも悪かったのか、それとも元からイカれているのか!」
狭い個室に、巨大な怒声が反響する。
ベッドの横に立っているのは、僕のクラスの担任だ。
後退しつつある生え際と、金縁の眼鏡。その中年男は今、極度の興奮状態にあり、濁った眼球には赤い血管が浮き出ていた。
「転校してきて一週間足らずだぞ!? よくもこんな大問題を起こしてくれたな! 相手は上級生だぞ! 親御さんがどれだけ厄介か知っているのか! 教頭から俺がどう言われたか分かるか! 『指導力不足』だぞ! 俺の査定はめちゃくちゃだ!」
彼の声量はあまりに大きく、閉鎖空間で反響した音波が、接合したばかりの僕の鼓膜を不愉快に震わせる。
彼はいじめられていた生徒のことも、僕が折った二本の肋骨のことも気にかけていない。彼の論理では、事件の原因よりも、自分に「面倒」が降りかかったことの方が重要なのだ。
彼は待っているのだろう。僕が恐怖し、あるいは罪悪感に顔を歪めるのを。
だが、僕はただ見ていた。
彼の唇が激しく開閉するたびに、そこから飛沫が飛ぶ様を。
「喋れ! 黙ってないでなんとか言え!」
反応のない僕に業を煮やし、彼のトーンはさらにオクターブ上がった。指先が僕のサイドテーブルを激しく叩く。
「あの時、一体何を考えていたんだ? 自分をスーパーヒーローだとでも思ったか? 喧嘩自慢のつもりか? あぁ!?」
喧嘩自慢もなにもない。
僕は単純に、現在のデシベル数が高すぎて、正常なコミュニケーションに必要な音量を超えていると感じていただけだ。
だから僕は口を開いた。彼が次の怒号をチャージしようとした瞬間を狙って。
「先生」
担任は一瞬怯んだ。ようやく僕が懺悔を始めるとでも思ったのか、荒い息を吐きながら動きを止める。
「……なんだ? 今さら怖くなったか?」
僕は怪我をしていない方の手を持ち上げ、掛け布団の一点を指差した。
「唾が、布団にかかりました」
僕は事実を淡々と述べた。
「非常に不衛生です。もう少し離れて喋っていただけますか?」
空気が、凍りついた。
担任は口を開けたまま、怒りの表情を滑稽な呆け顔へと変え――直後、それはより深い、羞恥を含んだ激怒へと変換された。
生まれて初めて見たのだろう。これほど激昂している相手を前にして、進路や処分のことではなく、数滴の唾液を気にする生徒など。
「きっ……きさ、ま……ッ」
彼の顔は猪のような赤紫色に染まり、指先はわなないていた。何かを言おうとして、あまりの怒りに言語野が機能していないようだ。
「それと」
僕は爆発寸前の彼を無視して補足する。
「もしストレス発散のために叫んでいるのなら、もう少し声を落としてください。僕の聴覚機能に異常はありません。無駄に酸素を消費するだけで、効率が悪いですよ」
担任の手が中空で硬直し、最後には勢いよく振り払われた。
「異常者だ……お前は完全にイカれてる! 話にならん!」
僕のような人間と会話することの無益さを悟ったのか、あるいは異物に対する本能的な忌避感か、彼は後ずさった。
「処分を待ってろ! お前みたいな不祥事の塊、誰も庇わんからな!」
彼は捨て台詞と共に鞄をひっつかみ、逃げるように早足で出口へ向かった。
バンッ!
ドアが乱暴に閉められる。
部屋の中から、高デシベルの騒音源がようやく消失した。
僕はシーツについた微細な水滴を一瞥し、眉をひそめてナースコールを押した。シーツを交換してもらわなければ。汚すぎる。
これが僕だ。
常人の目には、感情を持たない、恩知らずな怪物に映るだろう。だが僕にとって、それは単なる事実の指摘に過ぎない。
なぜ彼らは単純な事象を複雑にしたがるのだろう? 音量を下げれば済む問題に、なぜ無駄な感情を付加したがるのか、僕には理解できない。
これが僕、霜月理人。
いまだに他人の感情を理解できない、半端な人間。
ようやく平穏が戻ったと思った、その時だった。
脳の深部で、鋭い痛みが炸裂した。
まるでラジオが突然通電したかのような、ジジ、というノイズ音。
直後、静寂だったはずの僕の脳内に、見知らぬ、しかし悪意と恐怖に満ちた声が響き渡った。
『……本当に胸糞悪い。なんだあのガキの目は? 死人みたいな目で見やがって……あんな精神異常者、さっさと退学になればいい。俺の査定に響いたらどうしてくれるんだ……』
ナースコールを押し終え、下ろしかけた僕の手が、ふと空中で凍りついた。
僕はドアを見た。
そこには誰もいない。
その声は、間違いなく先ほど出て行った担任のものだった。だが、彼はもう部屋にはいないはずだ。
なんだ、これは。
脳震盪の後遺症で幻聴が聞こえているのか?
それとも――奴が戻ってきたのか?
はじめまして、作者です。
本作を見つけていただき、ありがとうございます!
「空気が読めない」のではなく「あえて読まない」。
感情欠落の主人公が、論理と効率だけで青春を無双(?)する物語です。
**★本日はスタートダッシュとして、このあと【第5話】まで一気に投稿します!**
サクサク読めるので、ぜひお付き合いください。
次は**【14:05】**に更新します!




