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加賀の玉手箱

作者: 久遠 睦
掲載日:2025/11/07

第一部 灰の味


第一章 北からのエコー


青山里美(32)は、目の前のスプレッドシートを睨みつけていた。数字は、百貨店の年次催事である北海道フェアの最終売上データを示している。好調な数字だ。しかし、それは彼女の手柄ではなかった。

里美の世界は、メールの洪水、市場トレンドの分析、そしてメーカーとの緊張感あふれる交渉で成り立っていた 。食品バイヤーになって5年。必死で掴んだ憧れの仕事だったが、当初の情熱はプレッシャーと度重なる小さな失敗によって削り取られていた。彼女は、売れる商品を仕掛ける「仕掛け人」としての勘を失いつつあった 。

百貨店のフロア全体会議で、北海道フェアの成功が称賛された。同期の田中健司が、今回の催事の「目玉」となった新しいチーズ工房を発掘した功績で、部長から褒めちぎられている。里美は無理に笑顔を作ったが、その称賛の言葉は腹の底でナイフのようにねじくれた。昨年、北海道フェアを担当したのは里美だった。しかし、彼女は新しい商品を見つけ出すことができず、結局は手堅いが目新しさのない人気店を並べるに留まった。彼の新鮮な成功と、彼女の使い古された成功のコントラストが、今の彼女の不振の根源だった。

バイヤーの仕事は、単に美味しいものを見つけるだけではない。売上データを分析し、物流を調整し、価格を交渉し、そして何よりも売上目標という冷徹な数字を達成しなければならない 。食への情熱と、商業的な成果を出すことへのプレッシャー。その狭間で、里美はもがいていた。


第二章 閉ざされた九州の扉


自分を証明するため、里美は次の大型催事である九州フェアの準備に没頭した。彼女が目を付けたのは、鹿児島の僻地で家族経営されている、希少な柑橘を使った調味料の小さな生産者だった。

これこそが自分の仕事だと、里美は久しぶりに胸が高鳴るのを感じた。自ら九州へ飛び、柑橘畑を歩き、年老いた店主と真摯な関係を築いた 。彼女は細心の注意を払い、有利な取引条件、マーケティング戦略、そして催事場の一等地を約束する企画書を準備した 。これで挽回できる。そう確信していた。

最終確認のため、店主に電話をかけた。店主は、心から申し訳なさそうな声で、たった今、ライバル百貨店と独占契約を結んだと告げた。向こうの条件が僅かに良かったわけではない、ただ、担当のバイヤーが決断するのが早かったのだ、と。電話が切れ、里美は静寂の中に一人取り残された。

何がいけなかったのだろう?価格?リベート?私が遅すぎた?私じゃなければ、田中さんなら、うまくいったのだろうか?自己不信が渦を巻き、やがて痛みを伴う確信へと変わっていく。自分はこの仕事に向いていない。その夜、彼女は自宅近くの安っぽい居酒屋で一人、東京の夜景が涙で滲むまで酒を飲んだ。


第三章 日本海への不本意な旅路


翌朝、二日酔いと無力感を抱えて出社した里美は、ただ機械のように「通常業務」をこなしていた 。頭の中では、辞表の文面だけがぐるぐると回っていた。

部長が彼女を呼びつけた。北陸担当のベテランバイヤーが体調を崩して入院したらしい。今夜にでも福井と金沢へ飛び、定例の取引先への挨拶と、簡単な市場調査を代わりに行ってほしい、と。それは華やかな仕事ではなく、単なる後始末だった。彼女の憔悴しきった様子を見て、部長は気晴らしにでもなれば、と付け加えた。抗う気力もなく、里美は頷いた。

北陸新幹線での道中は、記憶が曖昧だった。関東の風景が山々を抜け、日本海沿岸の平野へと移り変わるのを、彼女は自分の映る窓ガラス越しにただ眺めていた。金沢駅の壮麗な鼓門も、彼女の目にはただの建造物としてしか映らない。この街が持つと言われる美しさは、彼女の心には届かなかった。


第二部 違う種類の味


第四章 町外れの居酒屋


福井と金沢での退屈な打ち合わせを終えた夜、里美は片町や駅前といった観光客で賑わうエリアから遠く離れた、静かな住宅街に迷い込んだ 。古びた暖簾のかかる、地元の人しか来ないような小さな居酒屋の引き戸に、吸い寄せられるように手をかけた。

店内は出汁と魚を焼く香ばしい匂いに満ち、使い込まれて滑らかになったカウンターが温かい光を放っていた。隅の席に座り、匿名の客になった気分で息をつく。人の良さそうな六十代の女将が、穏やかな笑顔で声をかけてきた。

里美はビールと「おまかせ」を頼んだ。ぽつりぽつりと自分の仕事について語り始めると、女将は黙って耳を傾けてくれた。そして、一通り話し終えた里美に、女将は静かに問いかけた。 「有名なお店は、確かにみんなが食べたがるし、競争も激しいわよね。でも、お客さんが喜ぶのって、それだけかしら?」 その言葉は、静かだが重く響いた。 「有名じゃなくても、素晴らしくて美味しいお店はたくさんある。それをお客さんに伝えてあげるのが、今のあなたにできることじゃないのかしら」

雷に打たれたような衝撃だった。いつの間にか、自分は「ブランド」や「名前」、有名店という手軽な成功に固執していた。お客様に本物の喜びを届けたい、という原点を忘れていた。

そこへ、料理が運ばれてきた。派手さはない。シンプルな「のどぐろ」の塩焼き、そして「加賀れんこん」と「源助だいこん」の煮物 。しかし、その味は格別だった。魚は完璧な火加減で、野菜は土の持つ深い甘みを湛えている。素材の一つ一つが、その出自を物語っているようだった。女将が勧めてくれた地酒――キリリと辛口の「加賀鳶 純米」が、料理の味をさらに引き立てる 。何ヶ月ぶりだろうか、里美は心の底から食事を「味わって」いた。


第五章 古くて新しい家


店を出る際、女将は一枚のメモを里美に手渡した。「甥が料理人なの。最近、お店を開いたばかりでね。きっと、満足すると思うわよ」。ホテルに戻った里美は、興味を惹かれてその店の名前を調べた。口コミも、SNSのアカウントもない。ただ、地図上に小さな点が示されているだけだった。

翌日、仕事を早々に切り上げた彼女は、その住所を訪ねた。そこは、古民家カフェの特集記事で見たような、静かな住宅街の一角にあった 。黒い格子の古い木材と、モダンなガラスや鋼材が見事に融合した、美しく改装された町家だった。看板はシンプルで、ただ「一期いちご」とだけ記されている。

中へ入ると、ミニマルで静謐な空間が広がっていた。カウンター席に腰を下ろす。メニューには「冬野菜の煮物」「地魚の焼き物」といった、あまりに素朴な品名が並んでいた。迷っていると、物静かな三十代後半の店主が彼女の逡巡に気づいた。「もしよろしければ」と彼は言った。「本日のおすすめを、ぜひお試しいただきたいのですが」


第六章 加賀の玉手箱


運ばれてきたのは、美しい輪島塗の蓋付き椀だった。店主はそれを「加賀の玉手箱」と呼んだ。

里美が蓋を持ち上げると、息をのんだ。中には一つの料理ではなく、艶やかなご飯の上に、宝石のように輝く小さな料理たちがモザイクのように並べられていた。炙りの「のどぐろ」、鴨肉を使った加賀の郷土料理「治部煮」、鮮やかな紫色の「金時草」のおひたし、甘く煮付けられた「打木赤皮甘栗かぼちゃ」、そしてもっちりとした「加賀れんこん」の饅頭 。器は絢爛な九谷焼だった 。それは、金沢の歴史と風土が凝縮された、一つの完成された物語だった。

一口食べるごとに、感動が押し寄せる。あまりの衝撃に、里美は店主にすべてを話した。あの居酒屋のこと、自分の仕事、失敗、そして女将の言葉によって得た気づき。亮と名乗った店主は、静かに聞き終えると、微笑んで言った。「僕の店は新しすぎて、まだ名も知られていません。東京の百貨店でお客さんを呼べるようなものでは…」 しかし、里美の確信は揺るがなかった。「この料理と、あなたの想いは、必ずお客さんを幸せにします。私には、わかります」。彼女は、この「玉手箱」を催事で出させてほしいと申し出た。彼女の熱意に心を動かされ、亮は静かに頷いた。


第三部 賭け


第七章 職を賭けて


東京に戻った里美は、二ヶ月後に開催される小さな催事で「一期」のポップアップストアを出す企画書を提出した。部長は、深く眉をひそめた。「金沢の、無名な店?口コミも販売実績もない。青山、今は情熱だけで動く時じゃない。我々が必要なのは、確実に売れる商品だ」

里美は一歩も引かなかった。彼女は「消費者の潜在的なニーズ」や「新しい食体験の提供」といった専門用語を駆使したが、彼女の言葉の核にあったのは感情だった 。彼女が語る「玉手箱」の物語には、鬼気迫るほどの情熱が込められていた。部長が最終的に首を横に振ったとき、彼女は最後通牒を突きつけた。 「もしこれが失敗したら、私はバイヤーを辞めます。やらせてください。これを売れないなら、私はバイヤー失格です」

部長は、彼女の目にこの一年見ることのなかった輝きを見て、渋々ながら同意した。だが、その条件は過酷だった。与えられたのは、メイン通路から遠く離れた人通りの少ないブース。そして、達成不可能なほど高い日々の売上ノルマ 。それは、失敗させるための舞台設定のようだった。


第八章 傑作の誕生


それからの二ヶ月間、里美と亮は絶えず連絡を取り合った。里美は週末ごとに金沢へ通った。

二人は精力的に働いた。輸送や販売に耐えられるよう「玉手箱」のレシピを微調整し、品質を維持する方法を模索した。何十種類もの包装を試し、最終的に元の漆器を思わせる、シンプルで上品な木箱に決めた。試食を繰り返し、味付けを調整し、輸送時の温度管理からブースでの作業動線に至るまで、あらゆる物流の詳細を詰めていった 。互いの仕事への敬意の上に、二人の間には固い信頼関係が築かれていった。


第九章 初日の静寂


催事初日。祝日を含む三連休の始まりだ。里美は、人目につきにくい小さなブースに立ち、美しく陳列された「加賀の玉手箱」を前に、緊張と興奮で胸をいっぱいにしていた。

しかし、時間は無情に過ぎていく。メイン通路は賑わっているが、彼らのブースがある通路にはまばらな人通りしかない。足を止める客も、見慣れない名前と安くはない価格を見て、すぐに立ち去ってしまう。里美は必死で声を張り上げ、試食を勧め、商品の背景にある物語を語った 。数人が買ってくれ、味を絶賛してはくれたが、売上は惨憺たるものだった。

一日が終わり、売上はノルマの半分にも満たなかった。絶望が里美を打ちのめす。賭けの重圧が、彼女の肩にのしかかった。その夜、彼女は亮に電話をかけ、涙で声を詰まらせながら謝った。「私が間違っていました。あなたを巻き込んでしまって、本当にごめんなさい」

電話の向こうで、亮の声は穏やかだった。「青山さん。僕たちは素晴らしいものを作った。僕はそれを信じています。そして、あなたのことも。まだ、二日ありますよ」。彼の信頼が、絶望の海に沈む彼女にとって、唯一の命綱だった。


第四部 群衆の咆哮


第十章 フィードの中の火花


その夜遅く、金沢出身で、食通として知られる有名な女優がインスタグラムを眺めていた。彼女はその日、たまたまその百貨店に立ち寄り、静かな一角で故郷を思い出させるその不思議な弁当箱に惹かれて、気まぐれに一つ買っていたのだ。

そして、その本物の味に深く感動した彼女は、何百万人ものフォロワーに向けて、蓋を開けた「玉手箱」の写真を投稿した。それは広告ではない、心からの賞賛だった。 「東京で、故郷の味を見つけました。これはただの食事じゃない、記憶そのもの。本物の金沢の味がする。今まで食べた中で、最高かもしれない」


第十一章 殺到


翌朝。里美は疲れ果てた体を引きずってブースに到着した。そして、目を疑った。開店前だというのに、そこには行列ができていた。彼女の小さなブースから、はるかメイン通路まで続く、長大な行列が。

開店と同時に、ブースは人々にもみくちゃにされた。誰もがスマートフォンを掲げ、インスタグラムの投稿画面を見せながら叫んでいる。「これが『玉手箱』ですか?」「まだありますか?」。里美と亮は、完全に圧倒された。騒ぎに気づいた百貨店の運営側が、慌てて整理スタッフを派遣する。

二人は、夢中で、そして歓喜に満ちた混乱の中で働いた。「玉手箱」は飛ぶように売れていく。昼過ぎには、用意したすべてが完売した。里美と亮は、喧騒の中で顔を見合わせ、信じられないといった表情で、しかし確かに喜びを分かち合った。


第十二章 最後の勝利


その夜、里美と亮は、百貨店から派遣された応援スタッフと共に、借り切った厨房で徹夜で準備にあたった。そこには、疲労を超えた一体感と、共通の目的意識があった。

催事最終日。開店前から、前日をさらに上回る行列ができていた。販売は順調に進む。里美は客と直接言葉を交わし、彼らの喜びを目の当たりにした。これこそが、彼女がずっと追い求めていた感覚だった。

昼下がり、彼女は最後の一個となった「加賀の玉手箱」を、金沢出身の母親のために買いに来たという若い女性に手渡した。その箱を手放した瞬間、この数ヶ月の感情が堰を切って溢れ出した。安堵と、疲労と、純粋な喜びの涙が、彼女の頬を伝って流れ落ちた。亮が、そっと彼女の肩に手を置いた。やり遂げたのだ。

そこへ、部長が現れた。空になったブースと、名残惜しそうに立ち去る客たちを見て、彼は「私が間違っていた」とは言わなかった。代わりに、こう言った。「青山。契約書の準備を始めろ。今後のすべての催事で『一期』に出店してもらいたい。それから、君の次の『発見』も期待しているぞ」。それは、彼が与えることのできる、最高の賛辞だった。


エピローグ 灯篭の光


半年後。里美は再び金沢にいた。亮の店「一期」は、今や雑誌やテレビで特集される有名店になっていた。しかし彼は店を大きくすることなく、過剰な商業主義の圧力から自らの料理を守るように、小さく、そして彼の信念に忠実なままであり続けた。

里美の目的は、亮に会うことではなかった。彼女は静かな通りを抜け、あの古びた暖簾のかかる小さな居酒屋へと向かった。引き戸を開けると、女将がカウンターの中から顔を上げ、まるで彼女が来るのをわかっていたかのように微笑んだ。

里美は、あの時と同じ席に座った。そして、これまでの出来事をすべて話し、女将に感謝を伝えた。女将はただ頷きながら、あの時と同じ「加賀鳶」を彼女の杯に注いだ。 「あなたは有名なお店を見つけたわけじゃない」と女将は言った。「あなたは、語る価値のある物語を見つけたのよ。それこそが、ずっとあなたの本当の仕事だったんじゃないかしら」

里美は、酒を一口含んだ。その味は、清らかで、澄み渡り、未来の約束に満ちていた。彼女は、素朴な品質と人の繋がりだけで成り立っているその温かい居酒屋を見渡した。本当に大切なものを見つけたのだ。彼女はもはや単なるバイヤーではない。彼女は、物語を紡ぐ者、喜びを届ける者。そして、彼女の物語は、まだ始まったばかりだった。


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