第九十六話 心の在処
第九十六話
side:ネレイア
体が、勝手に膨らんでいく。
黒い。
あたしの透き通った青は、もうどこにもない。
まるで濁流みたいに流れ、悪魔たちをのみ込み、街を溶かすように広がっていく。
……さっき、門が閉じたのが見えた。
みんなは、帰れた。
よかった。
それだけで、あたしは随分と気が楽だった。
でも、気は抜けない。あと一仕事残っている。
あたしの目の前には、黒く染まった体に絡め取られたエリスがいる。
首だけを出して会話できるようにしてあげるなんて、あたしって優しい。
「いくら瘴気を注いでも無駄だよ。諦めなよ」
「……な、ぜ……正気を、失わない……の……!?」
エリスは苦しそうに歯を軋ませる。
その姿はもう、さっきの余裕なんて微塵もなかった。
あたしは笑った。
「あははははっ。だってあたし、スライムだもん」
意味が分かってない顔をしている。かわいい。
「スライムはねぇ、“食べたい”って気持ちだけなんだよ。
食べるって本能が、そのまんま形を持ったような存在」
ゆっくり、言葉を噛みしめるみたいに続ける。
「食欲に、善とか悪とか、心の揺らぎとか……ないでしょ?だから堕ちようがないの」
「ば……か、な……! 体には……影響が、出て、いた……! それに、あなた、は……心が……あるで、しょう……!」
「んー、そう思うよねぇ。普通はそう考えるよね」
あたしはくすくす笑いながら、エリスの体をもっと締め付ける。
骨がきしむ音がした。血が滲む。
スライムにだって、瘴気は間違いなく毒だった。
最初に瘴気を浴びた時は苦しかったし、今も体はいうこと聞かない。
でも――これはあたしの体。集中すれば、どうにか動かせないこともない。
黒い波が、エリスの胸を押しつぶす。呼吸が止まりかける。
あたしは、笑ったまま告げる。
「君が“心”だと思ってるものは、ぜーんぶただの反応なんだよ。人間の感情や仕草を真似るように進化しただけ。
そこに“魂”なんてない」
エリスの瞳が揺らぐ。恐怖と拒絶の色が浮かんでいる。
「う……うそです……!そんな、……ただの、スライムが、そんなこと……!」
あたしはエリスをゆっくり体内に沈めながら言う。
「あたしは妖水のネレイア。七曜魔、水の守護者。
種族は――グランドスライム」
にやぁ、と笑った。
「ただのスライムじゃ、ないんだよ?」
「や、やめ……て……!が、がぼ……っ……!」
エリスの頭まで沈め、音がふっと消える。
体の中で暴れる感触。手足をばたつかせてもがき、瘴気を放っている。無駄なのに。
やがて動かなくなった身体を、念入りに潰して、溶かして、確実に終わらせる。
終わった。
……さて。
あたしの体はもう、どうにもならない。
膨張は止まったみたいだけど、元の大きさに戻るのは不可能だ。それに、末端から腐ってきているのがわかる。スライムが瘴気に侵されるとこうなるんだなぁって、どこか他人事のように考える自分に笑ってしまう。
「本能だけ、か」
静かに笑う。
「心なんてない、って思ってたけど……」
魔王さまに拾われて、七曜魔に選ばれた。それから、同じくらい――いや、あたしよりも強い仲間ができて……話して、歩いて、戦って、笑って。
「……なんだか、食欲以外のものが満たされてた気がするんだよね」
あれがきっと――心。
いつの間にか手が胸へ伸びていた。
透明だった頃と同じところにある、あたしの核。きっと心もここにある。
「魔王さま」
そっと、言う。
「さようなら。勝ってくださいね」
ぎゅ、と握りしめる。
ひびが入る。
音がした。
世界が遠のく。
あたしは食欲の化身で。
心は幻だったのかもしれないけど。
――それでも、楽しかった。
最後に聞こえたのは、核が割れる音。
そこで、意識はふっと闇に溶けた。
読んでくださってありがとうございます。
死ぬ時に名乗るのって、カッコいいですよね。やってみたかったんです。




