第八十六話 光明
第八十六話
作戦室を後にして、僕たちは医務室の奥――研究区画へと足を運んだ。
昼を過ぎたばかりの王都は穏やかな光に包まれているのに、ここだけはひんやりとした静寂が支配していた。
魔法陣が刻まれた石床、封印符が貼られた扉。空気の中に、ほんのわずかに瘴気と聖気が混ざり合って漂っている。
その中心に、彼――エミリオがいた。
白衣の袖をまくり、青い髪を後ろでまとめた青年。
瞳は黄色く、強膜の色は反転している。けれどその瞳の奥には悪魔族特有の冷ややかさではなく、どこか柔らかな慈悲の光があった。
彼が顔を上げた瞬間、僕らを見ると、わずかに目を見開いた。
「……セラフィリア?」
息を呑むような声だった。
「その翼……まさか、白く……?」
セラフィリアは小さく微笑み、軽く羽を広げる。
白銀の羽がふわりと舞い落ち、光を受けて輝いた。
エミリオは思わず手を伸ばし、それを掌に受け止める。
指先で羽をそっとなぞり、長い沈黙のあと、彼は言葉を失ったように呟いた。
「……信じられない。完全な浄化……輪も修復されている。
堕天した天使が、ここまで純粋な聖性を取り戻すなんて……!」
「ええ、リアンさんが……やってくれたのです」
セラフィリアの声は穏やかだった。
その横顔を見ながら、僕は照れくさく目を逸らす。
「女神エステルの導きか、それとも聖剣の星晶の力か……私にもわかりません。
でも確かに、あの瞬間、瘴気は光に焼かれ、消えていきました」
エミリオは静かに頷いた。
そして机の上に置かれた魔法陣の写しを手に取る。
「僕は……ずっと、瘴気の“構造”を変換する魔法を研究してきました。
瘴気に侵された僕自身が、この穢れをどうにかできればと……。
けれど、その最後の一歩が見つけられなかった。
聖気を強くすれば触媒が耐えず、弱めれば瘴気の方が勝る。……あなたのように、完全に上書きできる例は初めてです」
「リアンの浄化には、痛みも衝撃もほとんどありませんでした」
セラフィリアが思い返すように言う。
「あの光が私の中に入ったとき、瘴気の鎖が一つずつほどけていったのを感じたんです」
エミリオの瞳が細められる。
研究者としての熱が、静かにその中に宿った。
「“瘴気をほどく”……?僕とは別のアプローチだ。
瘴気に侵された部分を戻そうとするのではなく、肉体に定着した瘴気そのものを分解している……?」
彼は机の上のノートに何かを書きつけながら、続ける。
「リアンさん、もし可能であれば、あなたの聖剣と魔力の流れを解析させてもらえませんか?
この現象が再現できれば、浄化魔法の完成に繋がるかもしれない」
「構わないよ。僕で役に立つなら」
そう答えると、エミリオは微笑んだ。
どこか安堵したような、優しい笑みだった。
「ありがとうございます。……まさか、あなた方が“理論の証明”そのものを持ってくるとは。きっと、役に立ててみせます」
セラフィリアが少しだけ笑った。
「でも、ようやく……希望が見えてきましたね」
「ええ」
エミリオは深く頷き、手を胸に当てた。
「これでようやく、悪魔族となった同胞たちを――救えるかもしれません」
僕たちは医務室を後にして、王城内の自分たちの部屋へと戻った。
扉を閉め、外の騒がしさがかすかに聞こえるだけの静寂。やっと――少しだけ、肩の力を抜ける時間ができた。
クラリスが窓際の椅子に腰掛け、レオは旅の荷物を片付けつつ、アネッサはベッドにぴょこんと飛び乗る。アイゼンは窓の外を眺めながら腕を組んでいる。
セラフィリアは壁を背にして立つ僕の隣に立った。その瞳は穏やかに光を宿していた。
「……力が戻って、本当に良かった」
僕が静かに口を開くと、セラフィリアが小さく微笑む。
「ええ。あなたの光と聖剣の力のおかげです。もう、あの瘴気の影は私の中にありません」
レオが眉をひそめながら、ふと気づいた。
「……本当は炎魔法が得意って言ってたよね?もしかして、堕天っていうのは属性まで反転してたのかな」
セラフィリアは少し考え、答える。
「……恐らくは。元々不得手な水魔法が得意になるというわけではありませんでしたが、得意なはずの炎魔法が扱えなくなったのは事実です」
その言葉に改めて瘴気の厄介さを思い知る。
一番の得意を封じられるなんて……これからは、他の属性も満遍なく扱うことも視野に入れたほうがよさそうだ。
僕はそっと、でも少しだけ勇気を込めて聞いてみた。
「セラフィリア、本当の力って、どれくらい戻ったんだろう?」
彼女は少し考え、穏やかな声で答える。
「まだ完全ではないかもしれません。でも、熾天使と呼ばれていた頃の炎の魔力――瘴気に侵される前の感覚は、ある程度戻った気がします」
アネッサがベッドの端から首を伸ばし、にこっと笑った。
「それって、もしかして戦闘でも今までよりずっと強いってこと?」
セラフィリアは力強く頷く。
「ええ。これまでよりもお役に立てると思いますよ」
僕は深く息をつき、セラフィリアの肩に軽く手を置いた。
「……これからも、悪魔族との戦いは続く。君の力が戻ってくれて、本当に良かった」
セラフィリアは小さく頷き、柔らかく笑う。
「ええ、でもあなたの光がなければ、私は戻れなかった。だから……あなたには、心から感謝しています」
その瞬間、部屋の空気が少し温かくなったように感じた。
戦いの疲れと絶望の影はまだ消えていないけれど、この静かなひとときが、僕たちに小さな希望を与えてくれていた。
翌朝。朝日がまだ登りきらないうちに、僕達は作戦室に集まった。
朝の作戦室は、いつもより静かだった。
壁の地図にさしてあるピンや、長机の上に広げられた報告書の数々がこれからの重さを物語っている。
ロザリンドが最初に口を開く。声はいつもどおり強く、指揮官としての安定感に満ちている。
「潜入班の働きにより、門を開くための座標を手に入れた。これを利用して、こちらから門を開いて敵地へ攻勢を掛ける。ただし、戦力と補給、そして予備の策が整わなければ無謀だ。よって、まずはこの策へ向けた準備を進めることとなる」
ノワールが冷静に続ける。
「こちらから門を開けるというのは大きなアドバンテージですが、それだけでは勝てません。開いた先は敵地です。情報、戦力、後方支援の網――細部の設計が必要でしょう。多少時間をかけてでも、細部まで詰めたほうがよろしいかと」
ヴァルディスは豪快に腕を組みながら笑う。
「焦る必要はないな。準備が整ってからが俺ら実働隊の出番ってわけだ」
老参謀が顎を撫で、経験からの警句を落とす。
「門を開いてこちらから攻め入る案は有効だが、脆弱点も多い。緊急時における門の封鎖、補給線の確保、そして敵の奇襲や待ち伏せに対応する複数ルートを用意せねばならんだろうな」
ヴァレリアは席に深く腰掛け、傲岸な笑みを抑えたように見せる。だが目は真剣だ。
「四日後のゴルド・レグナとの決戦だが……グレン率いる鬼族の部隊が現地に到着したとの報告があった。現地の兵と協力し、避難民の誘導にあたっている。当日までには無人にできるだろう。魔法部隊が総出でかかり、出口の座標を広場から砂漠へずらす作業も終わった。……あとは余が彼奴を屠るのみ」
その言葉を、そしてヴァレリアの力を疑う者はもういない。しかしロザリンドは作戦参謀として、祈りを込めつつもはっきりとリスクを口にした。
「陛下のお力を疑うわけではありません。ですが――万が一にも陛下が敗北、もしくは瘴気に呑まれることがあればこの大陸はお終いです。……どうか、ご武運を」
カリーナは公国側の実務を報告する。機戦隊の整備状況、動員可能な部隊数、そして必要な機材のリストを淡々と。彼女の言葉は現実的で、無駄がない。
ロザリンドがまとめる。
「よって結論――得られた座標を活用し、攻め入る。だが日程は未定。まずは全方面で人員と魔力、補給を固め、複数案を詰めてから作戦決行。陛下の決戦は、陛下自身とグレン殿の隊を中心に動く。こちらで作戦の仔細を詰めておく。実働隊は訓練と警戒を続けつつ、遠征の準備をしておけ」
部屋には短い静寂が落ちた。誰もがその言葉の重みを噛みしめている。
ロザリンドの視線が僕の顔をさらりと通り過ぎる。そこには明らかな期待があった。
「では、各自持ち場に戻れ。今日はここまでだ」
ロザリンドの一声で会議は終わる。皆が立ち上がり、作戦室を出ていく。
僕は深く息を吸った。
僕達は攻勢に出るためのピースを手に入れた。ただ、それをいつどう使うか――その判断ひとつで、仲間の命、兵の命、そしてこの大陸の命運が左右される。
決断は急げない。だが、時間もまた味方ではない。
外へ出ると、朝の光が冷たく差していた。足取りは重いが、やるべきことは明白だ。準備を、確実に。
読んでくださってありがとうございます。
今日も二話投稿できたらいいなぁ。




