第八十二話 撃退
第八十二話
「クソッ……!」
僕は歯を食いしばり、剣を構える。
倒れてる暇なんてない。
ここで止まれば、本当に全員が呑まれる。
息が、重い。
足が、鉛のように沈む。
まるで空気そのものが瘴気に侵されているようだった。
呼吸をするたび、肺の奥がじりじりと焼ける。
――瘴気。
僕はセラフィリアの言葉を思い出す。
「掠っただけで……体の中を、蝕まれます……気をつけて……!」
その恐ろしさを目の当たりにしていた。
目の前で、ドミニクの巨体がぐらりと揺れた。
「……悪い、少し……くらっときた」
その言葉の直後、斧が地面に落ち、重い音を立てる。
「ドミニク!」
駆け寄ろうとした瞬間、足元に黒い靄が這い寄り、僕は思わず剣で払いのける。
彼の皮膚は灰色にくすみ、息が荒い。
「……無理だ、下がれ!」
アイゼンの怒鳴り声が響く。
レオが彼の横で詠唱を始めたが、声がかすれている。
「くっ……! 魔力が……回らない……」
レオの足元に黒い模様が広がり、その体が膝をつく。
その瞬間、まるで何かが“ぷつん”と切れたような音が、心の中で響いた。
「……レオ……?」
返事はない。目は開いているのに、焦点が合っていない。
僕の喉の奥から、叫びがこみ上げた。
「レオ……しっかりしろ! こんなところで……!」
その声をかき消すように、エリスの笑い声が響いた。
「まぁ……素敵。壊れていく様子って、どうしてこんなに美しいのでしょう」
その声に、カリーナが歯を食いしばって振り向く。
「……黙れ!」
左腕の砲を構え、光弾を撃ち出す――が、瘴気の壁に吸われるように消えた。
「なっ……!?」
次の瞬間、カリーナの肩に瘴気の槍が突き刺さった。
悲鳴が森を裂く。
「カリーナ!」
僕が駆け寄るより早く、アイゼンが腕を掴んで後ろへ引く。
だが彼の腕にも黒い靄が絡みつき、すぐに膝をついた。
「……アイゼン、お前まで……!」
呼吸の音が重なる。
戦場のはずなのに、聞こえるのは仲間の苦しむ声ばかり。
ダッチが残る右腕で弾幕を張りながら叫んだ。
「下がれリアン! オレが時間を――」
その言葉は、瘴気の爆発音にかき消された。
煙の向こう、ダッチの巨体が吹き飛ばされ、動かなくなる。
……もう、戦えるのは僕とセラフィリアだけ。
背後ではクラリスが震える声で詠唱を続けていた。
アネッサの身体を抱きかかえ、涙を滲ませながら。
「お願い……みんな、死なないで……」
その声が、胸を締めつけた。
「……終わりにしましょうか」
エリスがゆっくりと歩み寄ってくる。
まるで舞うように。
その足元からは瘴気が波のように広がり、地面を腐らせていく。
「お前が……!」
怒りが喉を焼く。
僕は足を踏み出そうとした――が、脚が言うことを聞かない。
最初に受けた傷が開いていた。
「くそ……!」
「リアンさん、下がって!」
セラフィリアの声。
彼女の翼が黒と白のまだらに染まっているのが見えた。
それでも、彼女は杖を構える。
「今度は……私が貴方を助けます……!」
「やめろ、セラフィリア、無茶だ!」
その叫びが終わるより早く、エリスの手が振り下ろされた。
瘴気が奔流のように襲いかかる。
時間が、止まったように思えた。
視界が黒く染まる。
音も、光も、すべてが遠ざかっていく。
気づいたとき、僕は力なく倒れる彼女を抱き抱えていた。
「……セラフィリア……!」
彼女の身体が震えている。黒い靄が、皮膚の下を這うように広がっていく。彼女の片目はすでに黒く染まっている。
「なんで……なんで僕なんかを庇った!」
「……だって、あなたは……勇者だから……」
苦しそうに、それでも微笑みながら、彼女は言葉を紡ぐ。
「……私の希望は、あなた……託させて……ください……」
「そんな……!」
彼女の瞳が揺れ、焦点が合わなくなっていく。
「……リアンさん。……この戦いが終わったら……あなたのこと……もっと……」
言葉の最後は、声にならなかった。
腕の中の重みが、ずしりと沈む。
冷たい。
そして、静かだった。
エリスの声が、まるで祈りのように響く。
「庇い合う……なんて美しいのでしょう……」
――美しい?
何が、美しいだと……?
胸の奥で、何かが軋んだ。
心臓の鼓動が痛みに変わる。
怒りが、血の底からせり上がってくる。
「……お前だけは……絶対に、許さない」
その言葉が、唇から零れた瞬間、剣が震えた。
聖剣が、微かに光を放ち始めていた。
その光はどんどん強まっていく。
それは自分のものとは思えないほど、眩しく清らかな光だった。
気づけば、僕の身体を包み込んでいる。
空気が震え、周囲に満ちていた瘴気が、まるで怯えるように後退していった。
目の前のエリスが小さく息を呑む。
「……なんですか……この光……?」
僕は答えなかった。
腕の中には、力なく横たわるセラフィリア。
その白い頬に、黒い痣のような瘴気の跡が広がっていく。
呼吸はある――でも、このままでは彼女も、みんなも……。
胸の奥で、何かがはっきりと形になった。
怒りじゃない。悲しみでもない。
ただ――守りたい。救いたい。
それだけだった。
「……仲間は、僕が守る。」
静かに言葉を吐き出すと、聖剣が光を放った。
それは焔ではなく、祈りのような光。
目を焼くような明るさなのに、不思議と温かい。
後方でクラリスが震える声を上げた。
「リアン……その光……!」
彼女の瞳が揺れる。恐怖が消え、安堵が広がっていくのがわかった。
その光に触れるだけで、瘴気が薄れていくのが見える。
僕はセラフィリアをそっと地面に寝かせ、剣を構えた。
足元の草が淡く輝く。
倒れた仲間たちの身体にも、薄く光が宿り始めていた。まだ、間に合う。
この瘴気さえ――祓いきれれば。
「……行くぞ、エリス。」
「救うために立つ光、ですか……。なんて――愚かで、美しい。」
エリスが微笑む。その笑みには狂気も、哀れみも混じっていた。
周囲の瘴気が再びざわめき、渦を巻く。
だが僕の剣先がそれを向けた瞬間、瘴気が後ずさる。
闇が光に怯えている――そう、確かに感じた。
剣を握る手に力がこもる。
「みんなを取り戻す。そのためなら……僕は何度だって立ち上がる。」
聖剣が鳴いた。
風が吹き荒れ、光と闇がぶつかり合う。
一瞬、世界が白く弾け――戦いが再び始まった。
視界の中で、黒い瘴気と白い輝きが押し合い、弾け、世界を塗り替えていく。
一歩踏み出すたび、地面が光に焼かれて瘴気が霧散した。
エリスの唇がわずかに震える。
「……私の瘴気が、消えていく……?」
驚きと、どこか嬉しそうな響きを混ぜた声だった。
「これが……聖剣の力……?」
僕は答えず、剣を振る。
光の刃が空を裂き、エリスの放った瘴気の塊を粉砕する。
弾けた瘴気は光に触れた途端、音もなく消えていった。
「……効かない、のですね」
エリスが小さく笑った。彼女は短剣を取り出し、一歩ずつ近づいてくる。
その足取りは軽やかで、無防備にさえ見えるのに――
気づけば、もう目の前だ。
金属が鳴る。
エリスの短剣が僕の剣を弾き、火花が散った。
「瘴気が効かないのなら……この身で!」
彼女の身体が一瞬、霞んだ。
速い。瘴気が無くとも彼女は強かった。まるで風のような動きで襲いかかってくる。
「っ――!」
反射的に受け止めた剣が、腕に衝撃を伝える。
重い。体格も筋力も違うはずなのに、ぶつかるたびにこちらの足が地を滑る。
何度目かの打ち合いのあと、僕は後退して呼吸を整えた。
光はエリスの周囲でもまだ広がっているが――完全に瘴気を消すには時間がかかる。
その間に仲間たちは……。
(戦っている場合じゃない。アネッサも、セラフィリアも……時間がない)
「……終わりにしよう、エリス」
「ようやく本気を出すのですか?」
彼女が笑う。けれどその頬には汗が伝っていた。
光が、少しずつ彼女の肌を蝕んでいる。
瘴気に生きる彼女には、この光そのものが毒なのだ。
僕は剣を構え直し、地面を蹴る。
風を裂く一閃。エリスは反応したが、避けきれなかった。
刃が、深く入った。
エリスの胸元に斬り込んだ僕の剣先が返ってくる感触と同時に、湿った音がした。血の匂い──それは、僕が初めて放った“与えた傷”の証だった。
彼女は、その場にひとつ大きく息を吐いた。
赤が、黒い瘴気の中でにじむように滲んでいく。黒い肌に走る傷が、あまりにも生々しく見えた。
「――っ」
エリスは一瞬、微かな苦悶を浮かべた。だが、それはすぐに消え、口元にいつもの笑みが戻る。
「ふふ……やっと、傷つけられたのね」
瘴気が彼女を覆い、その暗い渦がゆっくりと形を変える。傷口から黒い霧が滲み出し、瘴気がそれを包み込んでいく。あの瘴気は、彼女の存在を覆い隠すための薄布のように機能している。
「逃げるつもりか?」
僕は剣を構えたまま問いかける。全身がまだ光に満ちている。
だが、エリスはゆっくりと片手を上げ、血に濡れた指先を僕に向けた。
その眼差しは鋭く、揺るがない。
「あなたのその光……いつか必ず、飲み込んで見せますわ」
声は低く、でも確かな決意を帯びていた。
瘴気が彼女を包みこむ。
ぼんやりと形を崩しながら、黒い霧の衣が一枚、また一枚と重なっていく。やがてその塊は、彼女の輪郭をぼかし、周囲の闇へと溶け込んでいった。
読んでくださってありがとうございます。
年も明けましたね。本年も『勇々戦記』をよろしくお願いします。




