第七十九話 シスター、エリス
第七十九話
真っ暗な門の中を、奥に見える光を頼りに進む。誰もが緊張し、何も喋らない。ただ黙々と歩を進め、やがて視界が白に弾けた。
足元の感覚が一瞬なくなり、次の瞬間、重力が戻る。固い石畳を踏んだ感触と同時に、全員の転移が成功したことを悟る。
風の匂いは、僕たちの大陸と同じだった。
空も青く、太陽も同じ角度から照っている。けれど――それでも、何かが違う。
建物の造り。尖塔の多い屋根、黒石の外壁。街路樹の葉は深紫を帯び、空気の中にかすかな瘴気の気配が漂っている。
「……待って……ここ、街?」
クラリスが小声でつぶやく。
僕も口を開けずにはいられなかった。
――広場だ。
それも、ただの広場じゃない。
見渡すかぎり整然と並ぶ黒石の建築群、中央には巨大な噴水。
周囲には露店や石造りのアーチ……そのどれもが、まるで“首都”のような規模だった。
いや、違う。“首都”そのものだ。
転移の光が消えた瞬間、悪魔族たちのざわめきが広がった。
茶褐色の肌、長い耳、反転した目――見渡す限り、すべてが悪魔族。
そして僕たちは――そのど真ん中に立っていた。
「……マズい」
アイゼンが低く唸った。
次の瞬間、鋭い笛の音が広場に響く。
警備兵たちが四方から殺到し、瞬く間に円陣を組んで僕たちを囲んだ。
槍と盾が一斉に構えられ、空気が張り詰める。
僕たちは動けなかった。動けば即座に斬られる。
どうする――?
この状況で抵抗すれば、間違いなく袋叩きだ。
息を呑んだ瞬間、兵士たちの輪の奥から、女の声が響いた。
「うふふ……哀れな仔羊たちが迷い込んできたみたいですね。まとめて、わたくしが導いてあげましょう」
声とともに、兵たちが道を開ける。
現れたのは一人の女悪魔。
黒い修道服――けれど胸元は大きく開き、布は装飾的に波打つ。
その黒衣の奥、肌は茶色く、瞳は血のように赤い。
笑みを浮かべたまま、彼女はゆっくりと歩を進める。
「黒いシスター服……もしかして……」
思わず漏れた僕の声に、彼女が反応した。
「あら、ご存知?」
唇を弓なりに歪め、嗜虐的に微笑む。
「うふふ、でも改めて自己紹介させてくださいね。わたくしはエリス。シスターをしておりますの」
そう言って、上品に深々と礼をした。
その仕草だけなら淑女のようだった。だが、そこに漂う気配は冷たい毒。
「たしか……五芒星の……」
レオが息をのむように呟いた。
「まぁ、そこまで知られてるなんて」
エリスの笑みが深まる。
「――あの双子でしょうか?やはり子供はいけませんね」
その声は甘く、けれど底冷えするような残酷さを孕んでいた。
兵たちは静かに間合いを詰め、エリスは恍惚とした目で僕たちを見つめる。
「まぁ知られたところで問題はありませんが」
唇に人差し指を当て、くすりと笑う。
「どうせあなた方はこれから、わたくし達に“導かれる”のですから――」
広場の空気が、凍りついた。
沈黙を切り裂くように、カリーナが前に出た。
その声には、戦場を幾度も潜り抜けてきた者特有の鋭さが宿っている。
「導く……? ハッ、改宗でもさせようってわけ?」
挑発的に言い放つカリーナに、エリスは変わらず微笑を崩さない。
その唇の端が、まるで慈愛を装うようにゆるやかに弧を描く。
「ええ、そうですわ。
我らが王であり、神であられる《アビス様》。
そのお方を信仰する喜びを――身体の隅々まで、注いであげます」
その声音は優しい。
けれど、そこに宿る“注ぐ”という言葉だけが、ぞわりと背筋を凍らせた。
セラフィリアが一歩、前へ出る。
その表情は冷たく、声は凛としていた。
「瘴気を注いで堕とすのでしょう。……それを“導く”なんて……ずいぶん傲慢ですね」
その瞬間、エリスの目が細められる。
驚き、そして愉悦が混じったような――獲物を見つけた肉食獣の瞳だった。
「あら? あらあらあら? あなたは確か……最後の天使じゃありませんか?」
ゆっくりと、まるで可愛い玩具を見つけた子供のように首を傾げる。
「まだ堕ちきっていなかったんですねぇ……ふふ」
セラフィリアの肩がぴくりと震える。
唇を噛み、歯軋りの音が小さく響いた。
「でも――翼は黒いし、頭の輪も割れてますね?」
エリスは優美に手を伸ばし、空をなぞる仕草をする。
「もうひと押しといったところでしょうか。いいですよ?
わたくしが最後まで導いてあげます」
その嗜虐的な笑みに、セラフィリアの瞳が怒りで燃える。
僕はとっさに彼女の前に出て、エリスを睨みつけた。
「僕たちがここに出てくると……わかっていたのか?」
問いかけに、エリスはまるで淑女のように片手を胸に当て、丁寧に頷いた。
「ええ。あの大きな裂界門が使えないとなれば、あなた方に抑えられている中では――双子が使った裂開門しか残っていませんもの」
彼女の笑みが深くなる。
「であれば、出口の座標を首都にずらして待ち構えていればいい。単純なお話ですわ」
余裕に満ちた声。
その一言に、僕の奥歯が強く噛み合わさる音がした。
まんまと読まれていた――。
エリスは、まるで舞踏会での招待を告げるように手を広げる。
「さぁ、話はお終い。
導かれる準備は……よろしいですか?」
その合図とともに、警備兵たちの輪が一斉に縮まった。
武具の金属音が周囲を満たし、冷たい風が広場を駆け抜ける。
カリーナが低く呟く。「……戦うしかない、か」
僕は静かに剣の柄へと手を伸ばす。
緊張がはじける――その刹那。
エリスが手を上げかけた瞬間、カリーナの声が飛んだ。
「――っ!」
轟音。
彼女の左腕の装甲が展開し、砲口が閃光を放った。
直後、エリスの足元で石畳が炸裂する。
衝撃波とともに土煙が立ちこめ、視界が一瞬で白茶けた。
悪魔兵たちが混乱の声を上げる。
「なっ――!?」
その間隙を逃さず、ドミニクが動いた。
背中に背負った長い機戦槍が、機械音を鳴らして形を変える。
伸びた刃が重なり、瞬く間に巨大な斧へと変形した。
「道を開く!」
唸りを上げて振り抜かれた一撃が、悪魔兵を弾き飛ばす。
衝撃で割れた石片が宙を舞い、さらに煙が濃く広がった。
続けざまに、ダッチが右腕の装甲を展開する。
掌の部分が開き、内部の機構が唸りを上げた。
「煙幕、展開!」
圧縮された蒸気が一気に放たれ、灰色の霧が視界を覆う。
周囲はたちまち真白な世界に包まれた。
「こっちだ!」
カリーナの指示が響き、全員が彼女の声を頼りに走り出す。
レオが詠唱を短く切る。
足元の魔法陣が一瞬光り、九人の足音が消える。
さらに風を操って煙を渦巻かせ、追跡の目を奪った。
悪魔兵たちが叫び、あちこちで武器が振るわれるが、そこに人影はない。
ただ砂煙と熱気、そして混乱だけが残った。
「……なんですの、これは」
エリスがゆっくりと手を下ろす。
彼女の視界には、もはや敵影はない。
煙の向こうで、空気の揺らぎさえ掴めない。
一瞬だけ、悔しげに目を細め――
だが次の瞬間、唇が再び美しい弧を描く。
「ふふ……ふふふふ……」
その笑いは、怒りではなく歓喜だった。
「面白い……躾がいのありそうな仔羊たちですねぇ」
ゆっくりと広場を見回しながら、恍惚としたように続ける。
「どうせ、この首都からは出られません。
ゆっくり……探して、ひとりずつ“導いて”あげますわ」
その声は、甘く、底知れない残酷さを孕んでいた。
白い煙がゆっくりと晴れていく中、彼女の赤い瞳だけが、不気味に光を放っていた。
読んでくださってありがとうございます。
悪魔×シスターというある意味鉄板のようなキャラ。そこはかとなく癖を詰めてみました。




