第七十六話 小競り合い
第七十六話
リザの指が軽く弾かれた。
「やっちゃえ、レーちゃん」
その声に応じて、ゴルド・レグナは翼を大きく広げる。
空気が裂け、世界が唸る。
次の瞬間、暴風が走った。竜の咆哮そのもののような烈風が、地をえぐり、兵の列をなぎ払わんと迫る。
「全員、構えろ!」
ヴァルディスの怒号が響き、兵たちは盾を構える。僕も風圧に耐えるように足を踏ん張った。
大地が鳴り、石畳が割れる。
──その瞬間だった。
闇が、降りた。
まるで夜そのものが壁となって現れたように、漆黒の幕が暴風を遮り、音をも吸い込む。
風は進む先を失い、ふっと掻き消える。
兵たちがざわめいた。
「な、なんだ……?」
「防いだのか? 誰が……?」
ヴァルディスでさえ、動揺を隠せないようだった。
落ち着いているように見えて、その目は闇の向こうを探している。
けれど僕にはわかった。
こんな芸当ができるのは、一人しかいない。
「……ヴァレリア」
僕が呟いたその瞬間、ゴルド・レグナの視線が王城のテラスへと向かう。
「やはり我の前に立ちはだかるは貴様か……ヴァレリア」
その声には、かすかな怯えと、好敵手を認めた喜びがあった。
テラスの上、黒い衣を風になびかせながら立つ女がいた。
深紅の瞳がこちらを射抜く。
ヴァレリア──闇を統べる魔王。
彼女の存在だけで、戦場の空気が震える。
「ふん、堕ちたものだな、レグナ。かつての我が同胞よ」
低く、冷ややかな声が響いた。
その言葉に、空気が凍る。
「なになに? だれ?」
リザが楽しげに身を乗り出した。
「すっごい強そうじゃない?」
ゴルド・レグナは冷や汗を一筋垂らしながらも不敵に笑う。
「魔王ヴァレリア……恐らくは、この大陸最強の魔神だ」
風が止み、闇が揺れた。
リザが唇を歪めて笑う。
「へぇ……面白いじゃん。魔王様のお出ましってわけ?」
その声と同時に、ゴルド・レグナの体から闘気が迸る。
地面が鳴動し、門の氷片が宙を舞った。
ヴァレリアは動かない。
ただ、彼女の周囲で闇が蠢き、彼女の意のままにその形状を変化させる。
「軽口を叩くな、小娘」
ヴァレリアの声が響くたびに、空気が震えた。
圧が違う。
リザの口元から笑みが消える。
「ねぇレーちゃん。最強の魔神だかなんだか知らないけど、アイツ生意気。蹴散らして」
リザが指を鳴らした瞬間、ゴルド・レグナが咆哮した。
暴風と熱が混じり合い、瓦礫が宙に舞う。
兵たちが悲鳴を上げた。
僕も息を呑み、ヴァルディスが「全員下がれ!」と叫ぶ。
──だが、風も熱も、闇に呑まれて消えた。
黒。
音のない闇が一瞬で戦場を包み込み、僕たちは何が起きているのかすら分からなかった。
ただ、息をするのも苦しいほどの圧。
それがヴァレリアの“力”だった。
やがて闇の中から声が響く。
「……誇り高い黄金竜の末裔がこの有様とはな。苦しいだろう。余が終わらせてやる」
ヴァレリアの声音は低く、静かで、しかし抗えない力を帯びていた。
闇の中で、ゴルド・レグナの呼吸が荒くなる。
その肩が震え、尻尾が動揺してゆらりと揺れる。
「……ヴァレリア……我は……」
「だめだよ、レーちゃん」
リザの声が割り込んだ。
「君はボクのものなんだよ?自分のことなんて考えなくていいの。アイツ倒したら、またご褒美あげるからね」
「う……あ……リザの……もの……?」
ゴルド・レグナは顔を押さえて苦しんでいる。
その光景を見たヴァレリアは一歩、前に出た。
彼女の足元に陣が浮かび上がり、闇が渦を巻く。
空間が歪む。門が震える。
「……よかろう」
闇が二人を包み込む。その闇は次第に腕のような形へと変わり、二人を掴む。
「ちょ、なにこれ!? レーちゃん、これなんとかしてよ!」
リザが抵抗しようとするが、身じろぎすらできない。それはゴルド・レグナも同様だった。
「一週間後に来い、レグナ。──死に場所を、用意しておいてやる」
次の瞬間、轟音とともに闇の腕が二人を門の奥へと押し込んだ。
闇が晴れると、そこにはぽっかりと口を開けた門だけが残っていた。
息を飲む兵たち。
ヴァルディスは拳を握りしめて天を仰ぎ、僕はただ、目の前の光景を信じられずにいた。
ヴァレリアが小さくため息をつく。
「……レグナよ。お前の誇り、これ以上汚させはせん」
そう呟く彼女の横顔は、悪魔族への怒りで燃えていた。
ヴァレリアにとっては“小競り合い”とも言える攻防が終わり、広場にはただ焦げた空気の匂いと、地を抉った爪痕のような跡だけが残っている。
兵たちは皆、呆然と立ち尽くしていた。
誰もが言葉を失い、息をすることすら忘れている。
「……今のが……“魔王”の力……」
誰かが呟いた。声が震えていた。
その震えがまるで伝染するように、周囲の兵の肩が次々と揺れる。
ヴァルディスでさえ、すぐには声を出せなかった。
唇を噛み、視線を門のほうに向けたまま、じっと動かない。
豪快だが冷静な将も、目の前の光景を飲み込みきれていないようだった。
僕はようやく息を吸い込んだ。
肺が痛い。
あれほどの圧の中で呼吸できていたのかと、今さら気づく。
「……あれでも、ヴァレリアは本気じゃないのかな……」
隣のレオが、小さく呟いた。
僕は首を横に振る。
「……違う、と思う。たぶん、あれはほんの一端だ」
目の前の空間には、まだ微かに闇の残滓が揺れていた。
闇は風に乗ってヴァレリアのもとへ戻り、彼女の体に吸収される。
ヴァレリアはテラスに佇んだまま、ゆっくりと視線をこちらへ向ける。
その瞳にはただ静かに、冷たく、何かを見極めるような光があった。
「……警戒を続けろ。ゴルド・レグナの襲撃は無いだろうが、雑兵の侵攻はありうる」
その声が、広場全体に響いた。
兵たちはざわつきながらも整然と配置につきだす。
僕たちも同じように配置に戻る。しかし頭の中には先ほどの光景が焼きついていた。
ヴァレリアはしばらく空を見上げていた。
「一週間……」と、小さく呟く声が聞こえる。
その横顔には、憂いとも諦めともつかない影が差していた。
彼女が去ると同時に、広場に風が戻ってきた。
遠くで旗がはためき、ようやく世界が動き出した気がした。
僕は握りしめた拳を見下ろす。
手のひらは汗で濡れている。
戦ってもいないのに、全身が疲労していた。
「……一週間後、か」
自分に言い聞かせるように呟いた声は、風にすぐかき消された。
side:リザ
扉が閉まる音がやけに響いた。
戻ってきたばかりの王宮――首都ヴァスヘルの空気は、いつもより冷たい気がした。
「なにあれっ!!」
思わず声が裏返った。玉座に座るアビスが目を丸くして、ボクを見た。
「……どうした、リザ?」
「どうした、じゃないよ! もう最悪! レーちゃんにぜーんぶ吹き飛ばしてもらうつもりだったのにさ、まだいたんだよ! バケモノみたいに強いやつが!」
アビスの眉がわずかに動く。
「強いやつ、だと?」
「そう! しかも“大陸最強”だって! 聞いてないよそんなの!」
ボクは髪をかき乱して叫んだ。
隣の参謀ヴェイルが、相変わらず落ち着いた声で言う。
「まずは落ち着け。……更に強い存在というのは、本当なのか?」
「ほんっとうだってば!」
ボクは苛立ちを隠せずに言い返し、隣のレーちゃん――ゴルド・レグナの手をぐいっと引いた。
「もういい! ボクたちの部屋に戻る!」
アビスの声が背中に届いた気がしたけど、もう聞こえないふりをした。
レーちゃんの手は熱くて、でも少し震えてる。
ボクの怒りが伝わってるのか、それとも……あの“ヴァレリア”の名を思い出しているのか。
部屋に戻ると、ボクはベッドに腰を下ろした。
レーちゃんは無言のまま立っている。
少しの沈黙のあと、ボクは掌を彼女に向けた。
彼女はヴァレリアとの会話で正気を取り戻しかけていた。まだ支配が足りない。更に深く堕とすため、瘴気を追加する。
黒い瘴気が静かに流れ出し、彼女の体へと溶け込んでいく。
前みたいに苦しむことはない。
今は、気持ちよさそうに――息を吐いて、瞼を閉じてる。
「ねぇ、レーちゃん」
ボクは声をかけた。
「さっきの“あいつ”、そんなに強いの?」
彼女はしばらく考えてから、低い声で答えた。
「……我の知る限りでは、こと戦闘において奴の右に出る者はおらん。大陸最強の魔神――それがヴァレリアだ」
「ふーん……」
ボクは唇を尖らせてから、少しだけ笑う。
「じゃあさ、レーちゃんなら勝てる?」
レーちゃんの顔が、ほんの少しだけ曇る。
そして苦々しい声で言う。
「……全力を尽くす」
「……そっか」
ボクはその言葉に小さく眉を寄せて、彼女の耳元に顔を近づけた。
「ボクのためなら、なんでもできるよね?」
「もちろんだ」
迷いなく即答。
「たとえ刺し違えてでも、我はそなたを守る」
その言葉に、ボクの唇が自然と吊り上がる。
満足げに、そっと囁いた。
「勝てたら、ご褒美あげる。――この間よりも、たーーっくさん♡」
レーちゃんの目が蕩けて、頬がほんのり赤く染まる。
「……ご褒美……」
「そうそう」
ボクはその頬に指を滑らせ、優しく笑う。
「だから、まずは勝たなきゃ。頑張ってね、レーちゃん」
彼女は頷き、ボクの手を取って跪いた。
その姿を見て、ボクの胸の奥がぞくりと震えた。
――いい子。
ボクの可愛い“お人形”。
湯気が身体を包む。レーちゃんと一緒に浴室に入り、熱い湯で体の汚れを落とす。ボクの背中を流す彼女の手は温かく、筋肉の硬さでリラックスしているのが分かる。レーちゃんは黙っていて、でも時折ボクの肩に触れてきて、安心するときのような短い吐息を漏らす。
体を拭き合い、同じベッドに潜り込む。しばらくボクと話していた彼女は、やがて寝息を立て始めた。大きくて確かな呼吸。ボクはその音を聞きながら目を閉じる。だが、胸の奥はざわついて止まらない。
ヴァレリアのことを思い出す。あのときの闇の壁、空気を押しつぶすほどの圧、そして静かな宣告。思い出すだけで背筋が冷たくなる。――あの強さ、あの威圧感。ボクは初めて、本気で怖かった。
でも、すぐに笑いがこみ上げる。もしあの力が手に入ったら。もし、あのヴァレリアの“強さ”をボクのものにできたら。レーちゃんと並べば、もう誰もボクに逆らえないんじゃない?
布団の中で身体を半分反らせ、レーちゃんの寝顔をちらりと見る。彼女の腕をぎゅっと抱き寄せると、想像がどんどん膨らんだ。あの大陸も、他の大陸も……もしかしたら、世界の全てだってボクの足元に跪かせられるかもしれない。思い描くだけで胸の内が熱くなる。
ヴァレリア……あいつだって、支配してやる。ボクのやり方で、ボクの支配の下に組み込んでやる。まだこっちには向こうの何倍もの数の兵がいる。それに、ボクらは異種族がいる限り無限に兵を増やせる。あいつだって、たった一人じゃ限界があるはず。あいつもボクの虜にさせてやる。そうすれば、レーちゃんももっと可愛がってあげられる。もっとたくさん、ご褒美をあげられる。
想像の中で二人を従えた未来が鮮やかになり、ボクは声にならない笑いを漏らした。寝息の合間に混じるその笑いは、温かさと冷たさが混ざった奇妙な音だった。
最後にもう一度だけ、レーちゃんの耳元で小さく囁いた。――「頑張ってね、レーちゃん。ボクのために。」
満足げな気持ちが胸に広がり、いつの間にか瞼が重くなる。企みを抱えたまま、ボクは眠りに落ちていった。
読んでくださってありがとうございます。
年末年始も変わらず毎日投稿していきたいと思います。




