第六十九話 堕ちた黄金
第六十九話
side:ゴルド・レグナ
空は青く、地は黒かった。
地平線には敵の影が波のように押し寄せる。数を見る必要もない。見渡す限り、黒。黒い海――あれが全て敵だ。
「よい度胸だ。――我に刃向かうとはな」
叫びと共に我は跳んだ。翼は風を引き裂き、金属が金属を叩くような音が世界を震わせる。爪を振れば十、槍を突けば二十。尾を一閃すれば百がよろめく。炎を吐けば、一帯が焼け焦げる。
数を数える必要などない。ふと気づけば足元に積み上がる屍は百を超え、五百を超え、千もゆうに超えた。朽ちた旗、割れた鎧、燃え残る肉片。すべてが我の力に屈した証左だ。
だが、減らぬ。
どれだけ焼き尽くしても、地平線の黒は薄らがない。瘴気が重く、息が鉛になる。肺の奥が締め付けられ、炎が喉を焦がす。傷が疼き、鎧が割れ、槍の柄が裂ける。だが我はまだ、笑っていた。
「ふん……まだ、動ける……!」
その声は、かつてないほどに掠れていた。翼を羽ばたかせれば血しぶきが空を舞う。足を踏み込めば大地が炸裂する。だが、羽ばたく度に体は重くなり、地に戻るたびに力が抜けていく。瘴気は棘のように刺さり、体力を奪う。敵の刃が一つ、また一つと我の皮膚を刻んだ。
――まだ、終わらせぬ。
この門の向こうに、我が守るべき小さき者達がいる。彼らの未来を、この背で切り拓くのだ。己が生存など、もう頭から消えている。倒せば倒すほど、後の者が進みやすくなる。だから我は、ただ刃を振った。
だが、やがて力は限界に近づいた。
体は重く、空へ上がるたびに翼が震える。呼吸は乱れ、視界は滲む。血が口の端から零れ、味は鉄と苦みに満ちている。だがそれでも我は立ち続けた。倒れては起き、また前に出る。倒しても倒しても、道は埋まるほどの敵で満たされていた。
その時、空に一閃の光。
信号弾だ。――凍結処理、完了直前の合図。
胸の奥で、何かが弾けた。
ああ、終わる。終わるのだ。これで──。だが、体が言うことをきかない。筋が動かぬ。両膝が軋み、羽ばたく力はもはや残っていない。槍は半ば砕け、鎧は裂け、瘴気に焼かれた翼は折れていた。
這うようにして立ち上がろうとしたが、膝が折れ、体が傾く。手をつく地面は熱く、血で濡れている。這いずり、手のひらの皮が擦り切れるのを感じながら、我はゆっくりと前へ這い続ける。指先で土を掻き、爪で石を掴む。
「……まだ、動け。頼む、動け、我の体よ……!」
叫びが喉から漏れる。自分の体に命令する。だが答えはない。体は鉛の塊のように重く、瘴気で麻痺した筋肉は悲鳴を上げる。視界が暗くなる。だが心だけは、まだ炎を宿していた。
視界が揺れる。世界が霞み、血の匂いだけがやけに鮮明だ。
指先に力を込めても、動くのはほんのわずか。這い進むたびに地面を染めるのは、我の血か敵の血か、もう分からぬ。
――門は、どこだ。
あと少し。あと、少しで。
その時だった。前方に、二つの影が立ちはだかった。
光でも闇でもない、ぬるりとした存在感。
足元の血溜まりが波紋を広げ、その中心に現れたのは――見覚えのある少女の顔。
「やっぱりすごいねぇ。ほんと、化け物だよ。あの軍勢ですら倒し切るなんてさ」
――リザ。
あの小賢しい悪魔の少女が、無邪気な笑みを浮かべていた。
隣には黒衣のシスター。黒布の下から覗く黒い翼と、紅い瞳。報告にあった名が脳裏を過ぎる――《エリス》。悪魔族の幹部の一人。
「……貴様ら……」
声を出そうとした瞬間、喉から血が滲んだ。
我の姿はもはや惨憺たるものだろう。鎧は砕け、翼は裂け、槍は折れた。呼吸もままならぬ。だが、心だけはまだ燃えていた。
「でもさぁ」
リザは頬に手を当て、まるで出来の悪い作品を眺めるように言った。
「さすがに、一万を超える軍勢はキツかったみたいだね? ほら、ボロボロじゃん。動けないでしょ?」
我は睨みつけた。何も返せぬ。ただ、目だけで拒絶を突き刺す。
「うんうん、まだ生意気な目してる。でも――いいんだ」
リザの声が、甘く、耳障りに響く。
「今回の犠牲はね、全部“君を手に入れるため”なんだよ」
その言葉に、背筋が凍った。
理解が、遅れて、追いつく。
「……まさか……貴様……!」
「そうだよ。ボクのお気に入りの人形を壊してくれたお詫び――君で埋め合わせしてもらうね」
にこりと笑う。あの悪意に満ちた笑顔。
リザの掌がこちらに向けられた瞬間、世界が黒く染まった。
瘴気――それも尋常ではない。大気を押し潰すほどの濃度で、渦を巻き、我の身体へと流れ込んでくる。
「……が、あああああぁぁッ!!」
喉を裂くような叫びが迸る。
全身が灼ける。皮膚が裏返り、骨の芯にまで闇が染み込んでいく。
瘴気は血に溶け、血が心を蝕む。思考が崩れ、我が名も、誇りも、仲間の顔も、全てが遠ざかっていく。
「もっと、もっとだよ。君みたいな生意気な子は、ゆっくり壊さなきゃつまらないんだ」
リザの声が遠くで響く。
エリスは静かに微笑んでいた。まるで祈るように、リザの背に手を添えて。
「……っ、やめ……ろ……我は……」
「ダメだよ? “自分の”ことなんて、もう考えなくていいの」
リザが囁く。
「これからは、“ボクのために”だけ、生きてね」
再び瘴気が押し寄せた。思考が波に飲まれる。
抵抗の声は、もう音にならなかった。
焼け爛れた心が、闇に沈む。何かが壊れる音がした。
――やっと手に入れたよ。ゴルド・レグナ。
その声が最後に届いた。
黒い霧が視界を覆い、息が止まるほどの静寂が訪れた。
瘴気に染まった我を見て、エリスが祈るように言う。
「祝福しましょう……新たな悪魔の誕生を……」
そして、瘴気が晴れたとき。
我は立っていた。だが、もう“我”ではなかった。
心の中には一つの声だけが響いていた。
――仕えろ。守れ。リザのために。
身体が勝手に膝を折る。
もはや黄金とも言えない、黒金に染まった鎧を鳴らして静かに頭を垂れた。
「リザ……この身は、そなたと共に」
その言葉を最後に、我の瞳から光は消えた。
燃えていた炎は、完全に闇に染まり――この身はリザに従うことへの喜びで満ちていた。
読んでくださってありがとうございます。
この展開は以前から決めていました。
敵の手に堕ちた最強の戦士がこれからどうなるか、お楽しみに。




