第六十八話 暗雲
第六十八話
――そして翌朝。
日の光が結界の向こうから差し込み、薄い霧を溶かしていく。今日の昼には増援部隊も到着し、いよいよヴァスヘルへの進軍が始まる。
全員で朝食をとり、進軍の準備を整える。点呼をし、装備の確認をし、各自現在地を頭に叩き込む。万が一の場合、迷わずここまで戻って来れるように入念に。
そうこうしているうちに門の向こうから更に信号弾が届いた。どうやら増援部隊が到着するようだ。
公国の陸戦軍と魔導国の獣人部隊が更に到着。いよいよ進軍を開始する。
隊列を組み、点呼をし、これからヴァスヘルへ向けて出発しようとした、その時だった。
最初に異変に気づいたのは、ゴルド・レグナだった。
彼女が、ほんの一瞬、遠くを見て表情を変える。
「……む?」
その声に、周囲の兵士たちも視線を向ける。僕もつられて前方――ヴァスヘルのある方向を見た。
地平線が――黒い。
黒い何かが動いている。蠢いている。
そして、うねる波のようにこちらへ押し寄せてくる。
「な、なんだ……あれ……」
「おい、見間違いじゃねぇのか……?」
ざわつく兵たちの間を、ゴルド・レグナの低い声が切り裂く。
「――まずいな」
その声は静かだったが、誰も逆らえない重さがあった。
黄金の鎧の竜人が、振り返りざまに一喝する。
「全軍、撤退せよ! 王都まで戻れ! 今すぐだ!」
ヴァルディスが即座に反応し、怒号が飛び交う。
「獣人部隊、先行し状況を伝えろ! 公国軍はその後に続け! 魔法部隊は殿を務め、抜け次第門の凍結処理を開始しろ!」
矢継ぎ早に飛ぶ指示。誰もが一瞬で理解する。――これは、総撤退命令だ。
「ま、まさか……」
僕が呟くと、ゴルド・レグナが険しい表情で言った。
「見えているだろう。あの黒い塊――すべて敵兵だ。数千ではきかん。おそらく、万を超える軍勢をここに向けてきている」
全身が凍りついた。あの地平線の向こうに、そんな数の兵が……?
ヴァルディスが歯を食いしばりながら撤退の指揮をとる。その隣で、僕はゴルド・レグナの背に向かって叫んだ。
「君も撤退を! 一緒に戻ろう!」
黄金の竜人は、ふっと笑った。
「我は門の凍結処理が済むまで、時間を稼ぐ。お前たちは撤退せよ。完了の直前に合図を送れ。――我が戻らぬなら、そのまま凍結しろ」
「そ、そんなこと……できるわけないだろ!」
「できねば、この数が王都に流れ込む。犠牲は更に増えるだろう」
その言葉に、胸が締め付けられる。
彼女は分かっている。凍結処理には時間がかかる。足止めしなければ間に合わない。そして、この数を足止めできるのは自分しかいないと。
「任せたぞ――勇者」
最後にそう言い残し、ゴルド・レグナは巨大な翼を広げた。
黄金の鱗が陽光を反射し、空を裂く。
そしてたった一人、黒い波の中へ――飛び立っていった。
その姿が遠ざかっていくのを、僕たちはただ見送ることしかできなかった。
胸の奥で、何かが弾けるように痛む。
「……必ず戻ってきてくれ」
そう呟いて、僕はヴァルディスの号令に従い、王都への撤退を開始した。
僕達は最後の一団として裂け目に入った。後ろには魔法部隊が整然と続き、僕達は彼らと共に殿を務める。門の向こうに足を踏み入れると、王都の広場が騒然としているのが目に入った。
兵たちの表情は混乱と恐怖が半々だった。何が起きているのか理解していない者も多い。噂が走り、言葉が交差する。僕は剣を握り締め、目に入る顔の一つ一つを確認していく。彼らを慌てさせてはいけない。
そのとき、足音がしてロザリンドが現れた。作戦服を乱さず、しかし瞳はいつになく鋭い。最初に戻ってきた獣人部隊からの報告を受けているようだ。彼女は一瞥もくれず、すぐに問いかけてきた。
「待ち伏せか?」
短い質問に、僕は即座に首を振る。
「いや、待ち伏せというより──進軍……だと思う。僕たちが揃ったのを見計らって、一網打尽にするつもりでこちらへ向かってきている。そんな動きだった」
ロザリンドの顔がぴくりと動いた。更に質問が来る。
「規模は?」
僕は見たものをそのまま伝えた。喉がひりつくように、声が低くなる。
「恐らくは、一万を越している、と思う……。千や二千じゃ済まない。地平線を埋め尽くすほどの数だった」
その言葉で、ロザリンドの瞳が大きく開いた。歯噛みがきしむ音が聞こえるような悔しさが顔に走る。だが続けて、彼女は冷静にもう一つの問いを放った。──ゴルド・レグナはどうした、と。
それを答えるのが一番つらかった。胸の内がうずき、視線を落とす。言い出す前から言葉が重くのしかかる。やっとのことで僕は言った。声が震えた。
「彼女は……向こうに残った。一人で。門の凍結処理が完了するまで時間を稼ぐために」
ロザリンドの拳がぎゅっと固まるのが見えた。怒りと苛立ちが滲む。彼女は短く言いかけた。
「そんなこと──」
だが、そこで言葉を飲み込んだ。顔の表情が硬直し、その額には汗が浮かぶ。門の凍結ができなかった場合の被害の想像が走ったのだろう。言葉を失ったのは僕だけではない。周囲の兵たちも、彼女の沈黙に釘付けになっている。
しばらくの静寂の後、ロザリンドは低く、冷たく言った。
「わかった。魔法部隊、凍結処理を急げ」
彼女は一歩進み、魔法部隊の隊長に短く細かい指示を飛ばす。指示は冷徹であり的確だ。
「凍結を可能な限り急げ。一刻を争う事態だ、悪いが、倒れても叩き起こす。完了前の信号弾を忘れるな。万が一、ゴルド・レグナが帰って来なければ──そのまま、凍結を終えろ」
その最後の言葉に、僕は小さく詰まった。彼女が間に合わなければ、凍結を終わらせる──それはつまり、ゴルド・レグナを見捨てるということだ。
ロザリンドは視線を僕に向け、短く言った。
「そんな顔をするな、リアン。ゴルド・レグナの強さはよく知っているだろう。それよりも、次の突入準備を急げ。敵がゴルド・レグナに釘付けになっている間に、双子が使っていた門から突入する。迅速に、だ」
言い終えると、彼女は深く息を吐き、顔の硬さを保ちながら指揮を執り始めた。
僕は喉を鳴らし、剣の柄に手をかけた。胸の奥で、戻らないかもしれないという不安と、戻ってきてくれるはずだという小さな希望が揉み合っている。
「……わかった」
短く応え、僕は駆け出した。背後でロザリンドが冷徹に指示を出す声が響く。広場のざわめきは、それでも黙りこくることはなかったが、皆が一つの意思にまとまり始めているのを僕は感じた。
読んでくださってありがとうございます。
夜にも投稿するつもりです。




