第六十六話 一歩ずつ前へ
第六十六話
エミリオの話が終わると、ノワールが資料を指でなぞりながら静かに口を開いた。
「次に移りましょう。我々の動きを決めねばなりません。……リアン殿の偵察の結果――門周辺には罠の兆候なし。拠点にできる広場と水場、隠れやすい地形も確認できました。ヴァスヘルまでは一日ほどの行程だと」
皆がそれを受け止める。ロザリンドの表情は変わらないが、瞳の奥で何かが蠢いているのが見て取れる。
「……出来過ぎだな」
彼女は短く吐き捨てるように言った。
「あまりに好条件が揃いすぎている。次に入った時は一面罠だらけ――そんな展開もありうる」
ヴァルディスが肩をすくめて同意する。
「我々が奴らの出口に罠を仕掛けたように、向こうも同じことをするだろうな。偵察部隊は泳がせておいて、本隊を一網打尽――そんな手口を疑うべきだ」
ノワールは静かに首を振った。
「しかし、何も動かなければこのまま膠着するだけです。我々が防御に徹し続ける余裕はございません」
議論は平行線を辿り、作戦室には重苦しい空気だけが残った。僕は地図に手を置いたまま、言葉を失っていた。どちらの選択もリスクを孕んでいる。大軍を送り込めば罠にかかったときが怖い。かといって小隊で突っ込めば、各個撃破に遭う可能性がある。ロザリンドの額に薄い皺が寄る。考え抜いている証拠だ。
そのとき、静かな部屋の端から低い声が響いた。
「何を悩んでいる。簡単な話だろう」
振り向くと、ゴルド・レグナが立ち上がっていた。腕を組んだまま尾をゆっくり振る。彼女の唇が薄く笑んでいる。
「大軍に匹敵する個人を偵察に送り込めばいい。先に安全を確保し、続けて大軍を送り込むのだ」
部屋が一瞬、静まり返る。ロザリンドの瞳が針のように細く光った。
「大軍に匹敵する個人……?まさか――」
ゴルド・レグナはにやりと笑い、肩越しに誇らしげに言う。
「我がその任を務めよう。先に行って安全を確保してやる」
その言葉に、何人かが息を呑んだ。クラリスの掌が僅かに震え、レオはゆっくりと彼女を見やる。アネッサは目を輝かせ、アイゼンは無言のまま。セラフィリアは椅子にもたれて穏やかに眉を上げる――だが、その瞳は訝しげだ。
ロザリンドがゆっくりと立ち上がり、ゴルド・レグナをまっすぐに見据える。
「――あなたは、自分ならばそれができると?」
彼女の声は冷たい。だが、ゴルドの微笑みは揺るがない。
「そうだ。我ならば雑兵がたとえ千人来ようと敵ではない。先陣を切り、地形を固め、安全を確認する。それができれば、続いて大軍を送り込める。罠があれば叩き、妨害があれば潰す」
ヴァルディスが唇を引き結ぶ。
「たしかにお主は一騎当千。だが、それゆえに失うわけにはいかん。相手の“五芒星”の一角や、それこそ王のような存在が出てくればどうする?」
ゴルド・レグナは静かに答える。
「その時はその時だ。だが、動かなければ永遠に手詰まりだ。勝つためには勝てる形を作るしかない」
沈黙の後、ロザリンドの表情が変わった。怒りはそこにあるが、責任と覚悟も見える。彼女は地図に指を滑らせ、僕たちを一瞥した。
「リアン。君の偵察は信用する。エミリオの情報も、裏取りはできた。――これは賭けだ。大きな賭けになる」
僕は短く息を吸った。胸の中で何かが締め付けられる。ゴルド・レグナの申し出は大胆すぎる――だが、理にかなっている。罠を恐れて動けないよりは、動いて可能性を切り開く方が僕は好ましいと思っていた。
「ロザリンドよ、何も我一人でケリをつけようなどと思ってはおらん。我は周辺の安全を確保するだけ。確保次第、こちらから門を通じて合図を送る。その後本隊を送り込めばよい」
ロザリンドの瞳がゆっくりとゴルド・レグナへ戻る。長い沈黙の末、彼女は小さく頷いた。
「……いいだろう。だが、万が一安全が確保できない場合、すぐさま帰還すること。いいな?」
ゴルドは深く息を吐き、不敵に笑う。
「了解した。……いらぬ心配だがな」
その言葉に、部屋の緊張が少し和らいだ。だが、誰もがわかっている――これは始まりに過ぎないということを。ヴァスヘルの影は大きく、そこに潜むものはまだ全貌を現していない。
会議は終わりを告げようとしていた。
ゴルド・レグナの小隊が三日後の早朝に裂け目を渡る。そう決まった時点で、場の空気は安堵と緊張が入り混じっていた。
──けれど、僕はどうしても尋ねたいことがあった。
「……ちょっと待ってくれ」
思わず声が出た。
皆の視線が一斉にこちらを向く。ロザリンドが眉を上げた。
「どうした、リアン」
「解散する前に、知恵を貸してほしいんだ」
僕は隣に座るエミリオに目を向けた。
「例の小瓶を見せてくれ」
エミリオは頷き、小さなガラス瓶を取り出す。
中では、淡い光を放つ粉末がゆらめいていた。
「……これは、“星晶”と呼ばれる物質だ」
僕は机に小瓶を置き、皆の方を見回した。
「これが浄化魔法の鍵になっている。けど、今のものじゃ強度も大きさも何もかも足りない。もっと純度の高い星晶が必要なんだ。──誰か、これに心当たりはないか?」
室内を沈黙が包んだ。
ロザリンドは瓶を手に取り、光を透かして見つめる。
「こんな物質、見たことがないな……」
ノワールも静かに頷く。ヴァルディスも首を振り、皆が同じ反応を示した。
その瞬間だった。
「……もう一度だけ、見せてくれないか?」
アイゼンが口を開いた。どこか記憶をたどるような表情で。
「……思い出せそうなんだ」
彼はエミリオに目をやり、「開けてもいいか?」と訊ねる。
エミリオが頷くと、アイゼンは慎重に小瓶の蓋を開け、粉末を指先で掬った。
指先の上で淡い光が瞬く。
その輝きを見つめたまま、アイゼンの瞳が見開かれた。
「……ああ、そうか! わかったぞ!」
勢いよく立ち上がり、僕を指さす。
「聖剣だ! お前の聖剣を研いだとき、出てきた研ぎ水が──まったく同じ輝きをしていた!」
「……え?」
僕は思わず息を呑み、腰の聖剣を抜いた。
刀身が光を受けて淡く蒼く輝く。その色は、まさしく星晶の輝きだった。
「たしかに……」
クラリスがぽつりと呟く。
「カイリスと戦ったとき、あなたの剣……あの紫のオーラを消してたわよね?」
レオがすぐに続ける。
「あの水晶玉から出ていた紫のオーラ……水晶玉が悪魔族の道具なんだとしたら、あれは悪魔族の瘴気と見ていいと思う。聖剣の光は、それを“浄化”していたんじゃない?」
「じゃあ、もう答え出てるじゃん!」
アネッサが椅子の上で跳ねるようにして笑った。
「聖剣そのものが、星晶でできてるってことでしょ!? 研究、めっちゃ進むじゃん!」
セラフィリアは目を見開いて、期待に溢れた瞳でエミリオの判断を待っている。
エミリオは息を呑み、信じられないというように聖剣を見つめていた。
「……間違いありません。星晶です。しかも、非常に高純度の」
そのやり取りを見ていたロザリンドが、腕を組みながら頷く。
「……なるほど。ならば、神創騎士団長が用いていた“聖盾”や“聖鎧”も同じ材質かもしれんな」
そう言って部下に命じ、すぐに現物を運ばせた。
鎧と盾を慎重に観察したエミリオは、確信をもって言った。
「……これも間違いありません。高純度の星晶で作られています」
ロザリンドの表情に決意が宿る。
「瘴気を浄化する力……これは、大きな武器になる。──エミリオ。お前はこの城で研究を続けろ。その聖盾と聖鎧はお前に預ける。必要な支援は惜しまない」
僕は小さく頷いた。
星晶。
そして聖剣。
この二つが繋がった今、戦いの行方は確実に変わる──そんな確信が胸をよぎった。
会議が終わり、それぞれが退室していった。
三日後の出陣──それまでは、誰もが自分の役割を果たすのみ。
僕たちも部屋を出ようとしたそのとき、ロザリンドの声が背後から飛んだ。
「リアン。共に来てくれ」
振り返ると、彼女は珍しく表情を読ませない顔をしていた。
ノワールも隣に立ち、いつになく沈んだ声で言う。
「一つ、共有しておきたいことがあるのです」
言葉の重さに、僕たちは互いに顔を見合わせた。
そのまま、案内されるがままに城の奥へと進む。
──廊下を進むたびに、ロザリンドの背中から滲む気配が変わっていくのがわかった。
最初は冷静だったのに、目的地が近づくにつれて、肩がわずかに震え始める。
握られた拳が白くなっていく。
……ただならぬ何かが、待っている。
嫌な予感が、胸の奥で警鐘のように鳴った。
やがて辿り着いたのは、城の地下だった。
冷たい石の壁、湿った空気、灯る松明の明かり。
そこは、地下牢だった。
ノワールが小さく息を吸い、僕たちに向き直る。
「あなた方が偵察に出ている間に──先の作戦で捕らえた“黒騎士”の正体が判明しました」
「黒騎士……あの、最後にゴルド・レグナと戦っていた……?」
その言葉に、僕たちの間で緊張が走る。
ロザリンドは無言のまま、牢の扉を開けた。
中には簡素なベッドが一つ。
そこに、黒い鎧の騎士が横たわっていた。
手を胸の上で組み、顔には白布がかけられている。
まるで、亡骸のような扱いだった。
「……まさか」
思わず声が漏れる。
ロザリンドはその場に立ち尽くし、視線を逸らさない。
握った拳がわずかに震えた。
無理に押し殺した感情が、空気を張りつめさせていた。
ノワールが一歩進み出て、静かに白布を取った。
布の下から現れた顔に、僕は息を呑む。
「……っ!」
そこに横たわっていたのは──イザベルだった。
死んだはずの彼女が、そこにいた。
肌は悪魔族のような淡い茶色に染まり、耳はわずかに尖っている。
けれど、その顔は、間違いようのないイザベルのものだった。
「……そんな、嘘だろ……僕たちが……確かに埋葬したのに……!」
喉が乾き、声がかすれる。
ロザリンドが小さく呟いた。
「墓は……掘り返されていた」
その一言に、誰もが息を呑んだ。
「でも、黒騎士……動いてたよね?」
アネッサが戸惑いながら言う。
「ちゃんと戦ってた……!」
ノワールが静かに頷き、説明を続けた。
「ここに連れてきた当初は、瘴気が強く反応していました。しかし、時間が経つにつれてその反応が薄れ……やがて瘴気が完全に消えると同時に、動かなくなったのです」
「そんな……死んだ者が、瘴気で……」
レオが言葉を詰まらせる。
ノワールは視線をエミリオに向けた。
「このような術、あなたはご存じですか?」
エミリオはしばらく沈黙したあと、ゆっくりと首を振った。
「……ありえない。死んだ者に瘴気を注いでも動くはずがありません。
魂がなければ、肉体はただの器……だけどこれは……こんな術、見たことも聞いたこともないです」
ロザリンドがその言葉を聞き、低く、冷たい声で言い放った。
「だが現実に“動いていた”。──敵は、死体すら兵に変えるということだ」
彼女の目には、怒りが宿っていた。
その奥に、かつての右腕を奪われた痛みと、決して許せぬ憎悪が揺れていた。
僕は拳を握りしめた。
イザベルを──彼女の安らかな死を──弄んだ。
敵の残忍さと狡猾さが、あらためて骨の髄まで突き刺さる。
「……絶対に、許さない」
ロザリンドのその言葉は、皆の胸の底で同時に響いていた。
ロザリンドは、長く息を吐いたあと、ゆっくりと背を向けた。
「……すまん、先に戻る」
それだけ言い残し、彼女は部屋を出ていった。
重い扉が閉まる音が、地下牢に鈍く響く。
その音を合図にしたように、張りつめていた空気が少しだけ緩んだ。
けれど、誰もすぐには口を開けなかった。
……何を言えばいい?
何を言っても、あの現実を正しく説明できる言葉なんて、きっとない。
最初に声を出したのはノワールだった。
彼は遺体を見下ろしながら、静かに呟く。
「死者を動かす術……もっとも禁忌とされる術の一つです。
瘴気だけで死体を動かすなど、考えにくいですが……」
「でも、あれは確かに動いてたんだよ?」
アネッサが言う。耳がぴくりと震えていた。
「まるで、生きてるみたいに」
レオが腕を組み、考え込むように言葉を探した。
「もし瘴気そのものが……魂の代わりになるような仕組みを持っていたら?
あるいは単純に、大量の瘴気を糸のように操って、操り人形みたいに肉体を操作していた……なんてこともあるかもしれない」
「そんなことが……」
クラリスがかすれた声で言いかけ、首を振る。
「……でも、ありえないって言い切れないのが怖いわね」
アイゼンは黙ったまま、遺体にかけられた白布をそっと戻した。
その仕草がやけに丁寧で、見ているだけで胸が痛んだ。
クラリスが疑問を投げかける。
「だけど……イザベルは私達の手でしっかりと埋葬したはずよ。白骨化もしてないし、……まるであのあとすぐに掘り出されたみたい。そんなこと、埋葬を見ていなければできないわ」
ノワールがはっと顔を上げた。
「……まさか……貧民街の正体とは、悪魔族の拠点だったのでは……?」
アイゼンは小さく頷く。
「そうかもしれん。ただの治安の悪い地区じゃなく、“悪魔族の許可なしには立ち入れない場所”だった──そう考えると、あの異様な閉鎖性にも説明がつく」
その言葉に、場の全員が息を呑んだ。
背筋に冷たいものが走る。
悪魔族は、そこまで王都に――王国に食らい込んでいたのか。
敵の狡猾さと用意周到さに、怖気が走る。
沈黙を破ったのは、僕自身だった。
「……一筋縄ではいかない、ってことだな」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
クラリスが小さく頷く。
「敵は強大だけど……負けるわけにはいかない」
「そうだな」
僕はイザベルの遺体を一瞥し、静かに言った。
「もう誰も……こんなふうに弄ばれないように」
地下牢の灯が揺れ、長い影が壁に伸びた。
その影の中で、僕たちは互いに顔を見合わせ、改めて──この戦いの重さを胸に刻んだ。
読んでくださってありがとうございます。
PVが少しずつ伸びてきているのを嬉しく思っています。よかったら応援よろしくお願いします。




