第五十八話 肉を切らせて骨を断つ
第五十八話
あれから二日。交代で休みながら警戒を続ける。
まだ日が昇りきらない空は重たく、どこか張りつめたように沈んでいた。
誰もが息をひそめる中――それは突然、訪れた。
「……来た」
レオの低い声に、全員が顔を上げる。
広場の上空、ひび割れがゆっくりと口を開くように動き出した。まるで巨大な鏡が割れるような、不気味な音が響く。
裂け目はみるみる広がり、闇の穴となってぽっかりと空を裂く。そこからぞろぞろと姿を現したのは、角や尾を持つ者、獣の耳や鱗を備えた者――悪魔族の大軍だった。
「前回より……多い」
セラフィリアが青ざめた顔で呟く。広場が黒い波で覆われるように、次々と降り立つ敵の群れ。その数は数千か、それ以上か。
僕の手が自然と剣の柄を握りしめる。喉が乾く。罠を張っていなければ、とても勝ち目はなかっただろう。だが――。
「慌てるな」
ロザリンドの声が、背筋を正すように響いた。彼女は広場を見下ろす高台に立ち、じっと敵の群れを見据えている。
緊張でざわつきかける兵士たちを、ただその存在だけで黙らせるような気迫があった。
悪魔族は広場いっぱいに展開しながら、こちらを探すように周囲を見回している。無人の王都に戸惑いを見せているのか、その動きはどこかぎこちない。
「……今だ」
ロザリンドの小さな声が合図だった。
次の瞬間、魔法部隊の詠唱が一斉に響き渡る。
地面が唸りを上げ、轟音とともに広場が崩れ落ちた。石畳も建物も敵兵もろとも、奈落へと引きずり込むように。
「なっ――!?」
悲鳴を上げる間もなく、数千の悪魔族が一斉に地の底へと落ちていく。
そして、待ち構えていた炎。
赤黒い火柱が吹き上がり、逃げ場を失った敵を飲み込む。穴の中で、無数の影が焼かれ、絶叫が空を震わせた。
僕は息を呑んだ。これほど苛烈な光景を、今まで見たことがなかった。
ロザリンドの作戦は、恐ろしく冷徹で――だが確かに、効果は絶大だった。
彼女はぎゅっと拳を握りしめたまま、燃え盛る地獄のような光景をただ黙って見つめていた。
地鳴りの余韻がまだ空気を震わせている。
その下からは、耳を塞ぎたくなるほどの断末魔が響いていた。
「ぎゃああああああッ!!」
「熱い、熱いぃぃッ!」
「出せ、ここから出せぇぇ――!」
悪魔たちの叫び声が、炎の轟音にかき消されながらも途切れ途切れに響く。穴の中では逃げ場がなく、身を焼かれる悪魔族がのたうち、互いを踏み台にしようと必死にもがいていた。しかし壁は崩れ落ちて滑らかで、誰ひとり登れはしない。
その惨状に、兵士たちの顔は強張っていた。
誰もが勝利を実感するより前に、その地獄のような光景に圧倒されている。
「……これが、戦略……」
クラリスは声を震わせ、僕の隣で顔をこわばらせていた。
「けど……あまりに……」
レオは唇を噛みしめ、言葉を飲み込む。普段冷静な彼の手まで震えていたのを、僕は見逃さなかった。
セラフィリアは神に祈るように胸の前で手を組み、目を閉じていた。
「容赦ねぇな……」
アイゼンがぽつりと呟いた。だがその声は非難ではなかった。ただ、自分の目の前に広がる現実を受け止めきれずにいる響きだった。
僕自身も、心臓を鷲掴みにされたみたいに鼓動が速くなる。勝った――いや、まだ勝ってはない。でも、ここにいる敵は間違いなく壊滅的な打撃を受けた。
それでも、胸の奥にずしりと重く沈むものがある。
そんな中で、ロザリンドだけが微動だにせず、炎に包まれる広場を見下ろしていた。
その瞳には勝利の色はなかった。
ただ、静かに、深く、憎しみにも似た覚悟の炎が宿っていた。
「これで……奴らに思い知らせられるはずだ。王国を攻めても、人は得られぬ。そして、王国はもはや自分たちの知る庭ではないと」
彼女の声はかすかに震えていた。
「これで……民の命は、守れたのだろうか……」
その言葉に、誰も返すことができなかった。
僕の胸の奥で、彼女が背負ってきたものの重さがずしりと伝わってきて――ただ拳を握りしめるしかなかった。
裂け目は広場だけではなかった。
王都の外れや街道沿いの建物の影にも、幾筋もの黒い亀裂が開いていた。そこからぞろぞろと現れる悪魔族の部隊――だが、彼らの動きはおそろしく鈍かった。
「……罠を警戒してやがるな」
アイゼンが槍を構えながら低く呟く。
実際、悪魔族は地面を叩き、壁を探り、まるで足元を疑うように一歩ずつ進んでくる。その慎重さは、逆に隙だらけだった。恐らくは広場に降り立った大軍が本隊だったのだろう。その本隊が罠にかかったことによって小隊の彼らも疑心暗鬼に陥っているのだ。
「いまだ、押し返せ!」
ヴァルディスの号令とともに、兵士たちが雪崩れ込む。
あっという間だった。裂け目の奥から出てくるのは百にも満たない小隊規模。だがこちらは罠を仕掛けた側で、万全の布陣。槍が突き立ち、剣が振り下ろされ、魔法が轟き――悪魔族は出現するそばから蹴散らされていった。
僕たちも加わり、数度の小競り合いを制したころには、裂け目の前はすでに血と灰の残滓しかなかった。
そして――。
唐突に、あの声が響いた。
「調子はどうかな〜?」
軽い調子で、まるで舞台に現れる道化のように。
広場上空の裂け目の奥から、紫の瞳を持つ少女――リザがひょいと顔を出す。
だが、彼女の表情は次の瞬間で凍りついた。
「……あれ?」
眼下に広がるのは完全な沈黙。
数千の悪魔族の大軍は、罠に呑まれて灰燼と化し、他の部隊も出現と同時に殲滅され――残っている者など一人もいない。
「は、はぁぁぁあ!? ありえない!街一つ囮にするなんて、そんなの馬鹿げてる!!」
リザの悲鳴が木霊した。
怒りと動揺で顔を真っ赤に染め、髪をかき乱すように掻きむしる。
「……その顔が見たかったのだ」
ロザリンドの声は勝ち誇った冷笑を帯びていた。
「罠にかかり、兵を失い、いま貴様は敗北の真っ只中。――どんな気持ちだ?」
「……っ!」
リザの瞳がギラリと光る。
「ふざけないでよ! こんなので勝ったつもり!?」
怒声とともに裂け目から身を乗り出すように一歩踏み出した。
その隙を、彼女は見逃さなかった。
「おぉぉぉッ!」
轟音とともに、ゴルド・レグナの巨大な槍が閃いた。
渾身の力を込めた一撃は、裂け目を守る透明な防御壁を粉砕し、破片が四散する。
「は!? 嘘でしょ!?」
リザの身体を守っていたはずの防壁が砕け散り、その姿が完全に無防備にさらされる。
彼女の瞳が大きく見開かれ、恐怖と焦りがその表情を支配した。
「がっ……!」
リザの細い首を、ゴルド・レグナの逞しい腕が掴み上げた。
片手で軽々と持ち上げられた彼女は、必死に足をばたつかせ、爪を立ててもがくが――まるで万力のように締め上げる竜の握力から逃れられるはずもない。
「殺しはせん。情報はまだ必要だからな」
低く、冷え切った声。
リザは苦しげに喉を鳴らし、目を見開きながら声なき悲鳴を上げる。
やがて意識が遠のきかけ――その瞬間。
空気が震えた。
ただならぬ気配が、裂け目の奥から一気に押し寄せる。
次の瞬間、黒い影が飛び出し、一直線にゴルド・レグナへ斬りかかった。
「ちッ!」
忌々しげな舌打ちとともに、彼女はリザを放し、槍を横薙ぎに構える。
火花が散り、金属音が響いた。
鍔迫り合い。
現れたのは、漆黒の甲冑を纏い、瘴気をまとった騎士。顔は兜に覆われ、ただただ冷たい殺意だけが漂う。
「いい度胸だ……何者だ」
ゴルド・レグナが低く問いかける。
だが黒い騎士は答えない。
無言で剣を振り払い、彼女の体を押し返す。
その横で、解放されたリザは裂け目の縁に倒れ込み、咳き込みながら必死に呼吸を整えていた。
「……念の為、連れてきてよかった……。ボクのお人形」
黒い騎士はすぐさまリザの前に立ち塞がり、彼女を守るように剣を構える。
「今日は帰るよ……今回はボクらの敗北だ」
リザがしぼり出すように告げると、騎士は静かに頷いた。
黒い騎士の背後でリザは裂け目の奥に消えていく。リザが撤退しきったのを確認すると、黒い騎士は一歩下がり、空間の裂け目を閉じようとする。
だが、黄金の竜人がそれを許さない。
「させるかッ!」
ゴルド・レグナの咆哮が戦場を震わせた。
背中の巨大な翼が広がり、巻き起こる暴風が黒い騎士を怯ませる。
その隙に、彼女の怪腕が裂け目に突っ込む。
「……ッ!?」
黒い騎士の身体を鷲掴みにし、力任せに引きずり出す。
掴まれた甲冑が彼女の手の形に変形するほどの握力。
「貴様が代わりの情報源だ……!」
吐き捨てるように言い放つと、ゴルド・レグナは容赦なく黒い影を建物に投げ飛ばす。
続けざまに、巨大な尻尾が唸りを上げて叩きつけられた。
大地が震え、瓦礫が舞い上がる。
瘴気を纏った黒い騎士は、もはや身動き一つできずに沈黙した。
裂け目は閉じぬまま、ただ不気味に空を裂いている。
「ヴァルディス!」
上空からゴルド・レグナが叫ぶ。
「魔法部隊を呼べ! 凍結ののちに、調査をさせる!」
「了解!」
ヴァルディスが即座に応じ、駆け出す。
こうして、この侵攻は――。
王都そのものを罠にするというロザリンドの策と、ゴルド・レグナの猛撃、そして兵士達の奮戦によって、被害は一切なし。
それどころか、敵の移動手段を抑え、貴重な情報源までも確保するという大戦果で幕を閉じたのだった。
読んでくださってありがとうございます。
いよいよ王都にクレーターが開きました。大規模な破壊を書くのは楽しいですが難しいです。




