第四話 公国の大公、エルドリヒ
第四話
side:リアン
僕たちはレオの実家をあとにした。
石畳の道を歩くと、陽の光を反射した窓ガラスや、磨かれた看板がきらめく。街の空気はどこか落ち着いていて、王都の喧噪とは違う穏やかさを感じさせた。
「いい街だねぇ!」
アネッサが大きく伸びをして、きょろきょろと左右を見渡す。
露店で焼かれたパンの香ばしい匂いや、香辛料の刺激的な香りに誘われて、彼女の足取りはどこか軽やかだ。
「この国は技術の国。武具や兵器だけでなく、工芸品なども有名なんですよ」
ノワールが淡々とした口調で説明する。
「鍛冶、細工、建築……どれも水準が高く、王国にも技術者を派遣していると聞きます」
それは知らなかったが、たしかに王国でも似た雰囲気の彫刻や装飾を見たことがある。そう考えると、その言葉も納得だ。
やがて、城へと続く大通りに差しかかる。
遠くに見えてきた大公の城は、山の岩盤を利用して築かれていて、堂々とした威容を誇っていた。高い城壁には塔が並び、その上からは旗がはためいている。
「おお……すごい迫力……!」
アネッサが感嘆の声をあげる。
僕も思わず息を呑んだ。王国の城とは違う、力強く実用的な造り。飾り気よりも堅牢さを優先しているのがよくわかる。
「さすが山岳要塞国家の象徴だな」
「ええ。この国が大陸の盾と呼ばれる理由は、あの城を見れば理解できるでしょう」
ノワールが静かに言った。
大通りの両脇では、市民たちが行き交い、行商人が声を張り上げている。そんな賑わいを抜けながら、僕たちはまっすぐに城門を目指した。
やがて近づくにつれ、門前の兵士たちの姿がはっきりと見える。槍を携え、鋭い視線で往来を監視していた。
僕は自然と背筋を伸ばし、腰の剣に手を添える。
――さて、大公に謁見するための試練は、ここからだ。
side:クラリス
「父さん、母さん……あのさ、道中でさ」
レオが食卓で身振りを交えながら、楽しそうに旅の話をしている。
魔獣に襲われたこと、魔導国の楽しさとその裏に潜む強さ、仲間たちのやり取り――。
「ふふ、ほんとに楽しそうだな。レオがこうして話してくれると、まるで自分も一緒に旅をしているみたいだよ」
お父様が目を細めると、レオは少し照れたように笑った。
「……でもさ、やっぱり家は落ち着くな」
ぽつりと零れた言葉に、お父様とお母様が嬉しそうに頷く。
その横顔を見ていると、胸の奥がくすぐったくなる。
――こんな表情、私には向けられたことがないのに。
「クラリス様も、本当にありがとうございます。レオを支えてくれて」
お母様の優しい言葉に、私は肩を竦めて笑ってみせた。
「いえいえ、私も助けてもらってばかりですから」
そう言いながらも、心の奥に小さな棘が刺さる。
――支えているなんて、口にしていいのかな。
本当は……。
「クラリス、母さんの料理、食べてよ!前に来た時とはまた違うメニューなんだ。きっと気にいるよ」
レオが無邪気に皿を差し出してくる。
「……ありがとう」
自然と笑みがこぼれた。あまりに普通の一場面で、逆に少し怖くなる。
温かな団欒の中にいる自分が、どこか場違いに思えてならない。
side:リアン
大公の居城は、公国の堅牢さを象徴するかのように聳え立っていた。
山肌を切り拓いて築かれた城壁は黒々とそびえ、鋼鉄の門はまるで巨人の胸板のように分厚い。
その前に立った僕たちに、槍を構えた兵士が声をかけてきた。
「止まれ。身分と目的を述べよ」
槍を構えた兵士の声に、僕は一歩前へ出た。
「僕はリアン。王国より来た勇者だ。大公閣下に謁見を願いたい」
兵士の眉がひくりと動く。
腰に佩いた聖剣を軽く叩くと、刃は淡い光を放ち、周囲に神聖な気配を漂わせた。
「……勇者殿。たしかに、その聖剣は間違いない」
「しかし――」
兵士の視線が、僕の背後へと向けられる。
そこには、燕尾服に身を包んだ魔人の女性が静かに佇んでいた。
黒髪に白い筋が走り、頭にはねじれた二本の角。
姿勢は端正で、執事のように片手を胸に添えている。
「……魔人を、伴っているのか……?」
緊張が空気を縛る。
だが彼女――ノワールは、落ち着いた声音で口を開いた。
「私の名はノワール。魔導国より派遣された使者にございます。勇者リアン殿は、その使命を果たすために私を伴っております。どうかご安心ください。敵意は毛程もございません」
流れるような言葉に、兵士たちは一瞬言葉を失った。
その声音は冷ややかだが、同時に揺るぎない礼節を帯びている。
「し、しかし……勇者殿が魔人と……」
「これはただ事では……」
兵たちはざわめき、互いに顔を見合わせた。
僕は静かに補足する。
「僕たちの目的は一つ。魔王からの言葉を、大公閣下にお伝えすること。それだけだ」
兵士の喉がごくりと鳴り、先頭の者が城門奥へ駆け込んでいった。
残る兵たちは槍を構えたまま、恐れと困惑を押し殺しながら僕たちを取り囲む。
ノワールは一歩も動かず、淡々とした表情を崩さなかった。
燕尾服の裾が風に揺れるたび、彼女の存在感は逆に際立っていく。
重い扉が軋みを立てて開かれた。
衛兵が戻り、無言のまま僕たちを中へと導く。
石造りの回廊は高く、頭上に吊られた燭台が暖かな光を放っていた。
足音が響くたび、緊張が胸を締めつける。
「……随分と立派な城だね」
アネッサが肩をすくめ、目を細める。
豪奢な絨毯や壁に並ぶ甲冑をちらりと見やりながら、小声で続けた。
「けど、歓迎ムードってわけにはいかないみたい」
「当然です」
ノワールが燕尾服の袖を整えながら淡々と応じる。
「王国の勇者と、その仮想敵国である魔人の私。本来なら並び立つことなどありえませんから」
「魔王様、敵意はないって言ってたのになぁ」
アネッサは残念そうに笑うが、その指先は無意識に剣の柄へと触れていた。
僕は二人の間に割って入るように声を落とす。
「ここでは余計なことを言うのはやめよう。大公に会うまでは、静かにしたほうがいい」
「……承知しました」
ノワールは軽く会釈する。
幾重もの扉を抜け、やがて広間の前に立った。
高くそびえる扉には王家の紋章が彫り込まれている。
衛兵が槍を鳴らすと、内側からゆっくりと扉が押し開かれた。
眼前に広がるのは、陽光が差し込む大広間。
磨かれた大理石の床に、赤い絨毯が玉座へと真っ直ぐ伸びている。
左右には整然と並ぶ騎士と廷臣たち。
彼らの視線が、一斉に僕たち三人へ突き刺さった。
「……あたしたち、注目の的だね」
アネッサが口の端を歪める。
ノワールは何も言わず、静かに歩を進めていた。
その背筋は寸分の乱れもなく、礼儀作法の鏡のようだ。
玉座には、威厳ある姿が腰を下ろしていた。
銀糸を織り込んだ衣を纏い、鋭い眼差しでこちらを見据える男――公国を治める大公だ。
「貴様が勇者リアンか。……なるほど、神気を感じる剣を帯びておるな。嘘ではないようだ」
大公の声は朗々と広間に響く。
「だが……魔導国の魔人を伴って来るとは、いかなる企みか」
廷臣たちがざわめき、騎士の指先が柄にかかる。
空気は一瞬にして張り詰めた。
僕は深く一礼し、声を張った。
「僕はリアン、王国の勇者です。此度は魔導国の使者を伴い、大公閣下にお伝えしたきことがあり参上いたしました」
ノワールが一歩前に出て、胸に手を当てる。
「ノワールと申します。魔導国より、陛下の御言葉を携えて参りました。……まずはこの場に立つことを許されたことに、深き感謝を」
彼女の冷静な声が広間を満たす。
だが玉座の上の大公は目を細め、言葉を継いだ。
「勇者が魔人を伴って来た。――その意味、余の耳で確かめさせてもらおう」
広間に重苦しい沈黙が落ちる。
謁見は、いよいよ始まった。
side:クラリス
レオの実家の居間は、不思議と落ち着く温かさに包まれていた。
暖炉火がぱちぱちと音を立て、外の冷たい空気さえ忘れさせてくれる。
「この子は小さい頃から魔法が大好きでね」
お母様が懐かしそうに微笑む。
「近所の子どもたちが木剣を振るって遊んでいても、レオはひとりで風の玉を飛ばして遊んでいたのよ」
「そうそう。あまりに夢中でな、気づけば日が暮れてしまうこともあった」
お父さまが苦笑を交えて続ける。
「そのせいで友達は少なかったが……本人は全く気にしていなかったんだ」
私は思わずレオを見つめた。
彼は照れたように笑いながら、指先で髪をかき上げる。
「だって……楽しかったから。
魔法を使ってる時だけは、なんだか自分が自分でいられる気がしたんだ。
だから、寂しいなんて思ったことはなかったよ」
静かな声だったけれど、その奥に宿る確かな強さが伝わってきた。
家族の愛情があったからこそ、孤独でも傷つかなかった――そんな幼い日の彼を想像すると、胸が少し熱くなる。
「……あなたらしいわね」
私は小さく笑った。
「不器用だけど、ちゃんと大切なものを見つけていたのね」
彼は一瞬驚いた顔をしたあと、少しだけ目を伏せて「……そうかもしれないね」と呟いた。
その声音はどこか柔らかく、居間の温もりと重なって、私の心を優しく包み込んでいった。
side:リアン
「……王国の勇者が、魔人を連れてきたか」
大公の低く響く声が、広間の空気をさらに張りつめさせた。
「不敬を承知で申し上げます」
ノワールが一歩前へ出て、冷静な声音で告げる。
「我が主、ノクティリア魔導国の魔王より、大公閣下へ言葉を託されました。
決して敵意を持っての来訪ではなく、むしろ……無益な争いを避ける意志を示すためのものです」
廷臣たちが顔を見合わせ、低い囁きが広がった。
「魔王の使者だと……?」「勇者がなぜ……」――疑念と驚きがないまぜになった声が渦巻く。
僕は一歩進み出て、そのざわめきを正面から受け止めるように言葉を重ねる。
「僕が王国の勇者であることは、この聖剣で証明できます。
そのうえで――魔導国からの使者を伴ったのは、公国と王国、そして魔導国の未来に関わる重大な言葉を伝えるためです」
大公はしばし沈黙したまま僕たちを見下ろしていた。
広間には、重苦しい緊張と、次の言葉を待つ静寂が広がっていた。
大公の鋭い眼差しが、僕たちひとりひとりを射抜くように巡った。
ノワールの角に、一瞬だけ強い視線が止まったのを僕は見逃さなかった。
「……よかろう」
やがて、大公は深く息を吐き出し、重い声で言葉を落とした。
「ここでそなたらを斬り捨てることは容易い。だが勇者リアン――王国が選んだ者を、軽々しく扱うのもまた愚かであろう」
廷臣たちがざわめく。
「陛下……」と声を漏らす者もいたが、大公は片手を挙げてそれを制した。
「言い分を聞こう。魔導国が、そして王国の勇者が我が公国に何を求めるのか。
その真意を知るまでは、軽々しく断じることもできまい」
静まり返った広間の空気に、少しだけ重苦しさが和らいだ。
大公は玉座に深く腰を下ろし直し、冷ややかな威圧をそのままに僕を見据える。
「勇者リアン。……語れ」
背筋に緊張が走る。けれど、僕は胸の奥に確かな決意を抱き、言葉を紡ぐ準備を整えた。
僕は一歩前に出て、大公に向き直った。
広間に満ちる緊張の空気を胸に受け止め、言葉を選ぶ。
「……本日は――魔導国の魔王からの正式な言葉を伝えるため、この場に参りました」
廷臣たちの間にざわめきが走る。
「魔王の言葉だと……?」
「馬鹿な、そんなものを……!」
反発と動揺が渦巻く中、大公の視線だけは揺らがない。
「聞こう」
短く告げられたその声に、場が凍りつくように静まった。
僕はうなずき、視線を逸らさず続けた。
「魔導国の魔王は――無益な争いを望んでいません。
魔導国という国を守るため、そして、いらぬ血を流さぬために、対話の道を選ぼうとしています」
言い終えると同時に、広間は再びざわついた。
「信じられるものか……」
「魔人が平和を望むなど……」
侮蔑と疑念の声が混じる。
だが、その渦中でノワールが一歩前に出た。
燕尾服の裾を揺らし、冷静に言葉を添える。
「――それは事実です。私は魔導国の魔王に仕える使者。
勇者リアン殿に伴われ、この場に参ったのもその証。
魔王陛下は敵意を抱いておりません。むしろ、国交を開きたいとさえ仰られている」
低く澄んだ声が広間に響き、反発の声を押さえ込む。
僕は小さく息をつき、ノワールの言葉に力を借りながら、大公の反応を待った。
大公はしばし沈黙した。
その静けさが広間の空気を重く締めつけ、僕は自然と背筋を正す。
やがて、大公は重々しい声で口を開いた。
「――勇者リアンよ。言葉だけで平和を語られても、我らとしては信じ難い。
魔導国はこれまで国を閉ざし、外の世界と交わることを避けてきた。
我らが知るのは、魔法技術で発展した国家らしい――という噂程度のことのみ」
彼は玉座から広間を見渡すように視線を巡らせた。
「故に、公国は魔導国を仮想敵国として扱ってきた。
万一に備えるのは当然のこと。ましてや魔法という得体の知れぬ力を過度に頼る国であれば尚更だ」
言葉に同調するように廷臣たちの間にうなずきが広がる。
槍を携えた近衛兵たちも、無言で身構えるように姿勢を正していた。
「……我ら公国は武と技術をもって国を築いてきた。
魔法に頼ることを是とせぬ。我らの価値観において、魔法は不安定で危うき力。
ゆえに、魔導国がいかに『平和』を口にしようと、その真意を疑わぬわけにはいかぬ」
大公は僕にまっすぐ視線を向けた。
その目には怒りではなく、用心と覚悟の光が宿っている。
「勇者よ。もし汝が本当に魔王の言葉を伝えるのであれば――その証を示せ。
それがなければ、この場での話はただの虚言に等しい」
広間に沈黙が落ちた。
僕は息を呑み、隣で静かに佇むノワールに目をやる。
彼女は冷静な瞳で頷き、一歩進み出た。
「――証なら、ございます」
ノワールが低く落ち着いた声で口を開いた。
燕尾服の裾を揺らし、一歩前へ。彼女の仕草は無駄がなく、凛とした気配が広間の空気を引き締める。
掌をかざすと、空間が水面のように揺らぎ、そこから黒檀の筒が静かに姿を現した。
広間の者たちから思わずざわめきが漏れる。
「魔王ヴァレリア様の直筆と王印が刻まれた公式の書簡です」
ノワールは恭しく両手でそれを掲げ、大公の御前に進み出た。
廷臣の一人が受け取り、大公のもとへ運ぶ。
大公は厳しい目でそれを受け取り、封蝋に目を落とした。
漆黒の蝋に刻まれた印章は、確かにただならぬ威を示している。
だが彼はしばし沈黙したのち、冷ややかに吐き捨てるように言葉を紡ぐ。
「……確かに他国の様式とは異なるものだな。
だが魔法でいかようにも作れる代物、我らにとっては怪しげな術の産物に過ぎぬ」
大公の声には微かな嫌悪が滲んでいた。
臣下たちも同じ思いなのか、幾人かが顔をしかめ、頷く。
「そもそも、魔導国は長らく門を閉ざし、我らに背を向けてきた。
その国が今になって使者を寄越す……信じろというほうが無理であろう」
大公は鋭い視線を僕へと向けた。
「勇者リアンよ。王国とは最小限ながらも国交がある。王国は、信仰には真摯な国だ。よって、貴殿の証言をすべて虚言と断ずることはできん。貴殿が見聞きしたものを、ここで述べよ」
広間の視線が一斉に僕に集まる。
逃げ場のない静寂の中で、僕は息を整えた。
「僕が魔導国で実際に目にしたものは――閉ざされた国というより、単に外交をしていないだけで決して異端だとは言えない、自らの魔法技術を極めてきた国でした。
そこに虚飾はなく、確かに魔法によって築かれた発展の姿がありました」
声を張り上げるのではなく、静かに、けれど一語一語を刻むように言葉を紡ぐ。
「魔王ヴァレリアは非常に強大ですが、少なくとも僕の目に映ったのは、無闇に侵略を望む支配者ではありませんでした」
廷臣たちがざわめき、大公はしばらく僕を射抜くように見つめていた。
やがて、低く命じる。
「……よかろう。ではその書簡、開封せよ」
廷臣が黒檀の筒を持ち上げ、封蝋を割る。
乾いた音が広間に響き、重苦しい空気がさらに濃くなる。
現れた羊皮紙には漆黒の筆致で記された、魔王ヴァレリアの言葉が整然と美しく並んでいた。
廷臣が声を張って読み上げる。
⸻
『山岳の要害に座す大公よ。
我はノクティリア魔導国を治める者、ヴァレリア。
まず告げよう。われらが剣を他国に向ける意志はなく、血を流すことを是とはせぬ。
だが我が民と領土を侵すならば、そのときは容赦なく、夜の如き魔の力をもって抗う。
貴公らが築いた技術と誇りを、我は敬う。
されど我らもまた、魔法という叡智を礎に立つ一国である。
それを盲信する者は愚かだが、拒絶するのみの者もまた、己を狭めるに過ぎぬ。
ゆえに我はここに示す――ノクティリアは、世界の一角を担う国として、
互いを敵と見做さぬ道を望む。
光を掲げる王国に続き、鉄と石の誇りを抱く公国よ。
されば我らは、対話により均衡を築くことを選ぼう。
――魔王ヴァレリア』
⸻
読み終えた廷臣が言葉を切ると、広間は静まり返った。
威圧と知性が同居した文面は、まぎれもなく一国の王の声明。
大公は背もたれに深く身を預け、長い沈黙ののち、重々しく口を開いた。
「……なるほど。確かに覇気ある言葉だ。
脅威を隠さぬその物言い、そして他国を認める度量――これこそ、一国を治める支配者の姿であろう」
重厚な声が広間に響き渡る。廷臣たちは互いに視線を交わし、ざわめきを呑み込むようにして静まった。
「我ら公国は、いかなる国にも容易に心を許さぬ。
魔法の力を誇るというその国柄、我らの警戒を招くは必定だ。
だが――この文面に宿る気迫と理を、軽んじることもまた愚かであろう」
大公は玉座に片肘をつき、視線をノワールへ向ける。
「ノクティリア魔導国、魔王ヴァレリア……その名、確かに我が耳に刻んだ。
公国は魔導国を仮想敵国とする立場を崩さぬ。
だが同時に、軽々に敵と断ずることもせぬ。
――鉄と石の国として、我らは静かに見極めよう」
その声音は厳格でありながらも、認めざるを得ない敬意がにじんでいた。
大公の口が静かに閉じられ、広間の張り詰めた空気が少し緩む。
「これにて本日の謁見は終了とする。書簡は留め置く。勇者リアンよ、同行者も心得よ」
僕は深く一礼した。
「ありがとうございました、大公様」
ノワールは一歩下がり、背筋を伸ばしたまま静かに礼をする。冷静で揺るがぬ姿勢は、広間の空気の中でもひときわ際立っていた。
アネッサは広間にいる間、ずっと緊張の面持ちで黙っていた。肩をこわばらせ、目線を下げて僕たちの後ろをついてくるだけだった。
僕たちはゆっくりと広間の出口に向かい、石畳を踏みしめる。門の光が少しずつ差し込み、外の空気が柔らかく感じられる。
広間を出るや否や、アネッサは肩の力を抜き、思わず深く息を吐いた。
「ふぅ……あんな広間の中、あたし、全然しゃべれなかったよ。緊張しすぎて……」
僕は微笑み、軽く頷く。
「そうだね、僕も少し緊張してた」
ノワールは冷静なまま歩を進めるが、ちらりとアネッサに目を向け、微かに柔らかい光が瞳に宿ったように見えた。
「でも、外に出るとちょっとホッとするね」
アネッサは元気に笑い、少し跳ねるように歩く。天真爛漫な声と仕草が、広間での緊張感を一気に和らげる。
僕たちは城門をくぐり、公国内の街道へと足を進める。
「さて……レオの実家に戻ろうか」
僕の言葉に、アネッサは明るく頷き、ノワールも静かに同意する。
外に出た瞬間、広間での緊張が嘘のように消え、僕たちは再び穏やかな旅路を歩き始めた。
公国内の街道を歩く僕達の影は長く伸び、景色はオレンジ色に染まりつつあった。
アネッサは後ろをちらちらと見ながら、笑顔を浮かべている。ノワールは相変わらず冷静に、静かに歩調を合わせる。
「よし、レオの実家に戻ろうか」
僕がそう言った瞬間だった。
突然、空気が張り詰め、鋭い金属音が辺りに鳴り響いた。風が切り裂かれるような衝撃が、僕たちを包む。
「――っ!」
僕は咄嗟に剣を構えるが、身体に力が入らない。魔法の力も、いつもなら自在に操れるはずの剣の属性魔法も、微かに重く鈍い。
ノワールが横で構えた瞬間、強烈な衝撃が彼女を襲い、すぐに拘束される。敵は技術の産物――対魔兵器を操っていたらしい。
「リアン殿……!」
僕も抵抗を試みるが、思うように力が発揮できず、身体が重く、剣を振るうことすらままならない。
「アネッサ……君だけでも逃げろ!」
僕は必死に叫ぶ。すると、アネッサは驚いた表情のままも、すぐに理解して駆け出した。
「わ、わかった!必ず助けるからね、二人とも!」
風を切るように走り去る彼女の後ろ姿を、僕はただ見送るしかなかった。ノワールも僕も、無力なまま敵の手に捕らえられる――そんな絶望の中で、唯一の希望はアネッサだけだった。