第三十二話 王国の分水嶺
政治パートも書いてみると意外と面白いものですね。
第三十二話
side:カイリス
王国騎士団に出撃を命じてから、随分と時間が経った。
だが……未だに報告が来ない。勝利の知らせも、敗北の報せも、戦況の経過すら何もだ。
「……全滅か」
自然と口から零れた。驚きはなかった。むしろ、半ば予想していた結末だ。
あの女――今の騎士団長には、やはり前任には遠く及ばぬ。能力も、胆力も、何もかも。そう思った瞬間、僕の頭の中から“王国騎士団”という存在は消えていた。
念のため、部下に様子を確かめに行かせはしたが、結果などわかりきっている。僕が考えるべきは次の手だ。兵力をどう補い、戦局をどう立て直すか。視線は自然と机上の地図へと落ち、駒を指先で弄びながら思考を切り替える。
そこに、足音が響いた。
「殿下、伝令にございます!」
ずいぶん早い。騎士団の確認にしては、戻るのがあまりに早すぎる。眉を寄せながら顔を上げると、伝令は肩で息をしながら報告を口にした。
「王国領外縁の村々が……! 敵の亜人部隊によって、空から襲撃を受けております! 田畑が焼かれ、穀物の倉庫も次々と……!」
「……なに?」
思わず声が硬くなる。
田畑。穀物。
それは、王国の根幹だ。大陸随一の人口を誇るこの国が、その数を武器にできるのは、潤沢な食糧があってこそだ。
兵が飢えれば戦は成り立たない。数を誇るどころか、民の不満が先に爆ぜかねない。
「すぐに魔法隊を向かわせよ。空からの攻撃に対処させろ。急げ!」
声が鋭く響き、伝令は慌ただしく駆け出した。
僕は歯噛みする。
王国騎士団の全滅に加え、領内の農村部への襲撃……悪いことが重なりすぎている。もはや偶然ではない。敵は明確に、戦い方を変えてきている。
「……気を引き締めねばならないな」
自らへの戒めを小さく呟く。王子として、王国の未来を担う者として。
この連鎖を断ち切らねば、王国は必ず傾く。
そう思った矢先、更に悪い知らせが舞い込んだ。
王国領内の主要な街道、輸送路、補給路……そこかしこに罠が仕掛けられ、馬車が進めずにいるという。解除には膨大な時間がかかる、と伝令は頭を垂れた。
「……やられたか」
思わず奥歯を噛みしめる。忌々しい。おそらく夜目が利く類の亜人どもだろう。こちらは夜に動く際、必ず明かりを必要とする。そこを突かれたのだ。あまりに狡猾で、あまりに姑息。
「卑怯な劣等人種め……!」
吐き捨てるように声が漏れた。胸の奥に黒い怒りが渦を巻く。
そこへまた新たな伝令が駆け込んできた。息を荒くしながら告げられた報告は――王国北方の禁踏の森が騒がしい、というもの。
「くだらん……魔獣どもの縄張り争いにすぎん」
苛立ちを抑えきれず、一蹴した。今はそんなことに構っている余裕はない。目の前で失われているのは、兵を養う糧であり、国の血脈そのものだ。
敵は確かに変わった。先の戦いでは力任せに突撃してくるだけだった亜人どもが、今は戦い方を選び、罠を仕掛け、的確に急所を突いてきている。狡猾さを備えた敵を前に、なおも強者の余裕を見せられるほど、僕は愚かではない。
「……次の一手を打つしかない」
悪い報せに飲まれている場合ではない。王国を護るため、僕は次なる策を練る。
「敵の狙いは明白だ。補給を絶ち、兵を飢えさせ、士気を削ぐ……」
僕は拳を握りしめ、机上の地図に目を走らせた。あの卑劣な亜人どもに、王国の大軍を正面から打ち破る力などない。だからこそ、糧道を断ち、背後から王国を腐らせようとしている。
ならば、やるべきことは一つ。
「まずは補給路の確保だ。王国騎士団はもう当てにできん。街道の罠は――魔法隊の一部と土木部隊を投入。徹夜してでも必ず開通させろ」
だが、それだけでは不十分だ。奴らは空からも攻めてきた。ならば対空の布陣を強化しなければならない。
「魔法隊は更に二手に分ける。一部は対空防衛に回し、もう一部は街道の警護だ。夜間の監視には……万が一のために公国から取り寄せていた暗視を補う道具があったろう、魔法隊にはあれを装着させ、空に動きがあれば躊躇うことなく撃ち落とさせろ。それから地上では火も絶やすな。警備があるとわかれば亜人らも罠を仕掛けにくくなる」
指先で地図を叩きながら、さらに思考を巡らせる。
「それと――攪乱に対しては、逆にこちらからも攪乱を仕掛けてやるべきだな」
正規兵だけでは間に合わぬ。だが、王国は広大で人も多い。徴兵、あるいは民兵を使ってでも、偽の補給路や囮部隊を作ることはできる。敵の狡猾さに対抗するには、こちらもまた狡猾さを身につけるしかない。
「……ふん、奴らごときに後れを取るものか」
地図を折り畳み、深く息を吐いた。王国は強大だ。僕の手で必ず守り抜く。
翌日、次々と報告が舞い込んできた。
「殿下! 鳥人と竜人を複数撃墜したとの報告です!」
魔法隊が効果を発揮したか。胸の奥でわずかに安堵する。だが、安堵も一瞬だけだ。
続く報告は芳しくない。
「補給路の罠の除去は難航しております。交代で休みなく作業を続けておりますが……完全な開通まではなお時間がかかるかと」
僕は机を叩いた。
「全部を一度に開ける必要はない。作業箇所を絞れ。まず一本、最優先の路だけでも開通させろ!」
部下が深く頭を下げる。だがその表情には疲労がにじんでいた。魔法だけでは済まぬ細工もあるのだろう。罠の狡猾さに、改めて舌打ちしたくなる。
さらに別の報告が届いた。宰相の言葉を伝える使者だ。
「民兵を募る案につきましては、国民を不安にさせかねないため慎重に、との宰相のお考えでございます」
「……ふん」
僕はしばし考え、答えを返した。
「兵は足りていると伝えろ。欲しているのは領内の支援だ。前線には出ず、土木作業や補給の輸送を任務とせよ。もちろん恩賞も出す。だが、囮であることは伏せておけ」
命令を下しながらも、心の底では苛立ちが燻っていた。補給は依然として滞り、破壊された田畑や家畜は戻らない。食糧の絶対量が足りない――このままでは王国の兵すら飢えに沈む。
「……仕方あるまい」
僕は独断で決断した。
公国への食糧輸出を削る。それは友好の切れ目を意味する。だが、奴らは魔導国の進軍を黙認し、自らの領である山脈を通して通行を許している。
「魔導国への加担……すなわち王国への裏切りだ」
僕は書状をしたため、使者に届けさせた。
『これは制裁である。食糧の供給は削減する』
国を護るために必要な一手だ。たとえ友好国を敵に回すことになろうとも。
side:エルドリヒ
公国北の山脈で二度目の衝突があってから、すでに数日が経った。
あの戦いは、結局公国の首都近辺で火の手を上げさせぬために魔導国に通行を認めた判断の正しさを、余に改めて思わせた。公国の民を戦乱に巻き込まずに済んだのだ。だが同時に、王国との緊張は日に日に高まっていることも肌で感じておる。
そんな折、王国からの使者が謹んで差し出した書状を、余は手に取った。
「……ふん、制裁、か」
低く吐き捨てる。
王国は、公国が魔導国に山脈の通行を許したことを裏切りと断じ、食糧の輸出を削ると宣告してきたのだ。
余は眉をひそめる。
確かに余は魔導国に通行を許した。だが、それは戦闘を公国領内で行わせないための魔導国側の配慮であり、国民を守るための公国の英断であったはずだ。
「ふざけおる……」
書状を卓に叩きつける。
王国が焦っているのは知っている。農地が襲われ、補給が滞り、いまやその強大な兵力も維持が難しくなっていることも情報として余に届いておる。だが、ただの通行許可を理由にこちらを脅し、制裁を宣告するなど許しがたい傲慢だ。
それに――王国はすでに無許可で山脈に兵を進めている。
「国を揺るがしかねぬ事態を、勝手に宣告とは……まったく、厚かましい」
怒りが胸を焦がす。
食糧輸出が減ることは公国にとって大きな痛手だ。幸い、備蓄を増やす政策を急がせていたおかげで急場は凌げようとも、長期的に見れば国そのものを揺るがしかねぬ問題。だが、王国の無法を受け入れることは断じてできぬ。
余は深く息を吐き、冷静さを取り戻す。感情のままに動けば、余自身が国を危うくする。
「宰相を呼べ。王国への返答を練るのだ。感情だけで返す手は使わぬ」
怒りは胸の奥に沈めたまま、余は次なる一手を考え始めた。王国の横暴を許すつもりはない。だが誤れば、公国もまた巻き込まれる。慎重に、確実に――それが余の務めだ。
程なくして宰相が執務室に現れた。齢五十を越える老臣、余が即位して以来、常に側にあって政務を支えてきた男だ。
「閣下、王国よりの書状を拝見いたしました」
宰相は深々と頭を垂れ、卓上の書状に目を落とした。
「王国は食糧輸出の削減を宣告しております。すなわち、彼らはもはや公国を同盟者とは見ておらぬ」
「……あやつら、魔導国を通した我らを裏切り者と断じおった。まるで余が愚かにも、国を犠牲にして魔導国に膝を屈したかのように」
声が自然と荒ぶ。
宰相は静かに答えた。
「王国の焦りは明白。彼らの農地が襲われた報せも入っておりますゆえ。もはや糧道を繋ぎ止めるために、目の前の現実を都合よく歪めているのでございましょう」
「だからといって、この余に罪をなすりつけ、制裁をもって迫るとは……」
拳を握りしめる。だが宰相は視線を落としたまま、冷静に続けた。
「食糧輸出の削減は、確かに我らにとって痛手。しかし、長期的に見れば王国にこそ深刻な影響を与えましょう。彼らは大陸一の人口を抱えているが、その分食を失えば最も早く揺らぐのは王国の方。いずれ立場は逆転いたします」
「……つまり、こちらから慌てる必要はないと?」
「左様にございます。ただし沈黙は不利益。王国に対し、閣下の意思を明確に示さねばなりませぬ。無許可で山脈に兵を進めたこと、それこそ同盟を踏みにじった背信行為。強く非難し、しかも冷徹に」
余は深く息を吸った。怒りを鎮め、冷たき理に従うように。
「ふむ……余の怒りをそのままぶつけても国益にはならぬな。ならば、書状を整えよ。王国の横暴を糾弾しつつ、余の立場が揺らがぬように」
「はっ。すでに文案を準備しております」
宰相は懐から巻紙を取り出し、卓へと置いた。
「ふむ……」
余は宰相の差し出した文案に再び目を落とした。簡潔にして、しかし公国としての立場を明確に示す内容。余の意図を正確に汲み取り、王国へと釘を刺すには十分である。
「無用の争いを避けるために通行を認めただけであり、国民を守るための判断だった。王国こそ、例の山脈は公国の領地であるが通行許可を王国に出した覚えはない。これは領土侵犯ではないか。……か。王国に己の身勝手がいかに信義を損なうかを教えてやらねばな」
書状を畳み、余はゆっくりと宰相を見やった。
「よかろう。この文案、そのまま通す。公国の怒りを伝えるには、飾り立てる必要もない」
宰相は深々と一礼した。
「ははっ、直ちに封蝋をし、使者を立てます」
「うむ。ただし、念を押しておけ。我らはあくまで秩序と均衡を望む。だが、もしそれを踏み躙るならば、余とて黙してはおらぬとな」
宰相が「畏まりました」と静かに答え、足早に退室していく。
残された余は、窓の外に広がる峻険な山脈を見据えた。
あの峰を越えて王国は軍を動かした。
余が育んだ公国の秩序を軽んじ、己が欲のままに。
「焦りか……それとも驕りか」
誰に聞かせるでもなく呟いた声は、広間に冷たく反響した。
side:カイリス
幾日かの時が過ぎ、王都の空気は重く淀んでいた。
書状を託した使者が帰還してさらに数日――今度は逆に、公国自らの使者が王国を訪れたとの報せが城へと届いた。
応接間でその到着を待ちながら、カイリスは忌々しげに机上の報告書を睨みつける。
「罠の除去がようやくほぼ完了……か。ずいぶんかかったな」
吐き捨てるように言葉を零す。
王国領内の街道は再び通れるようになったものの、すでに流通の停滞は深刻な爪痕を残していた。鳥人や竜人による襲撃はここ数日で激減している。それ自体は朗報であるはずだ。だが、糧食を狙われた被害は甚大で、蓄えは削られ、補給計画も根本から練り直さねばならない状況だ。
「忌々しい……亜人どもが、これほどまでに執拗で狡猾だとは」
白い拳を固く握り、歯噛みする。王国が誇る規律ある軍勢が、陰湿な策に翻弄されている現状が許せなかった。
そこへ、公国の使者が応接間へ通された。使者は威儀を正して歩み出ると、封蝋の押された書状を恭しく差し出す。
カイリスはそれを受け取り、封を切る。
視線が文面を追うにつれ、その眉間には深い皺が刻まれていった。
「……我が領内での戦闘行為を禁じていたにもかかわらず、無断で軍を進めた王国の身勝手……か」
その文面には、公国の怒りが赤裸々に滲んでいた。
無断で山脈を越えた王国軍の行為を断じ、さらに食糧輸出を減じるという僕の通告を「身勝手」「横暴」とまで言い切っている。
だが――それがどうした。
「こちらは農地を焼かれ、補給も滞り、兵糧すら欠けている。余裕などあるはずがない」
声に苛立ちが混じる。
食糧の絶対量が不足している以上、まずは王国の兵達を優先せざるを得ない。
公国がどうなろうと知ったことではない。
「それに……魔導国に通行を許しておきながら、よくも抗議などできたものだ」
僕は机を拳で叩いた。
魔導国が動く限り、公国はその腹を貸しているにすぎない。
王国にとっては、すでに裏切り者と変わらぬ。
「抗議に屈して輸出を戻せば、王国の威信は地に落ちる。……ならば、突っぱねるしかあるまい」
そう言い切りながらも、胸の奥に重苦しい不安が渦を巻く。
この目まぐるしく変わりゆく状況の中で、王国をどう守るのか。
「……宰相を呼べ。策を練る」
僕は短く命じ、瞳に冷たい光を宿した。
宰相は書状を読み終えると、眉をひそめるでもなく、静かに頷いた。
「殿下のお考えのとおりに進めるべきでしょうな」
その落ち着いた声を聞いた瞬間、僕は胸の奥で安堵した。やはり宰相も同じ判断か。
「公国の抗議に屈する必要はない。こちらは食糧が足りないのだ。まず守るべきは王都と軍、それ以外は後回しだ」
「まったく同感です」宰相はうなずいた。
「民の不満は出ましょうが、戦の最中だから耐えてもらうしかない。むしろ『公国が非協力的だから苦しいのだ』と広めれば、王国の断固たる姿勢を示すこともできます」
なるほど、宣伝に利用するか。
確かにそれなら民衆の不満も別の方向にそらせる。悪くない。
「よし、それでいこう。輸出制限は継続する。倉庫の管理も徹底させろ。補給の優先は軍と王都だ。地方の徴発は……まあ、多少強引でも仕方あるまい」
「仰せのままに」宰相は恭しく頭を下げた。
こうして決まりはした。
公国の抗議など無視し、王国の威信を貫く。
これが正しい判断だ。いや、正しいに決まっている。
僕は椅子に深くもたれ、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「……王国は決して屈せぬ」
そう呟きながらも、心のどこかで小さな不安が芽生えているのを感じた。だが、それを認めるつもりはなかった。
読んでくださってありがとうございます。
色んなキャラが出て色んな視点になるので頭がパンクしそうですよね。
群像劇の難しさを実感しています。




