第三十一話 森を抜けて
筆が乗ってしまいました。
第三十一話
森を抜けると、目の前に広がった光景に息を呑んだ。
かつてロザリンドが治めていたはずの領地は、もはや廃墟と呼ぶほかないほど荒れ果てていた。
地面は踏み荒らされ、木々は焼け焦げ、魔獣が跋扈した跡が生々しく残っている。
血肉の匂いが立ち込め、人影はどこにもない。
予想はしていたはずだった。
だが、改めてこの光景を目にすると、胸に暗い重みが沈む。
それでも、僕たちにはやるべきことがある。
ここを拠点とするためには、この領地に巣食う魔獣を一掃しなければならない。
気持ちを切り替え、眼前に広がる夥しい数の魔獣たち――その数の多さに圧倒されながらも、僕は仲間たちと共に、戦いへの覚悟を固めた。
そこはすでに魔獣たちの巣窟となっていて、森の魔獣と違い餌の少ない環境に飢えた魔獣達は、久々の肉だと言わんばかりに涎を垂らし、退く様子は一切ない。ゴルド・レグナが先ほどと同じように重圧を放っても、怯んではいるが、牙を剥いたままで後ずさることはなかった。
「……退屈だな」
彼女は心底どうでもよさそうに呟くと、迫り来る魔獣を尻尾で薙ぎ払い、翼で地面に叩きつける。大地が震え、魔獣が潰れる音が響く。
その姿は圧倒的に強い。けれど、さっきの人智を超えた戦いと比べると、彼女自身に気迫はなく、まるで暇潰しに虫を払っているようだった。
僕たちは僕たちで戦わなければならなかった。魔獣の群れはあまりにも多い。
「アネッサ、前に!」
「任せて!」
アネッサが飛び出し、しなやかな身のこなしで魔獣を翻弄する。俊敏に駆け回り、爪と蹴りで相手の注意を引き、そこに生まれる一瞬の隙を僕が突く。
剣に魔力を纏わせ、一体、また一体と切り伏せた。
背後から迫る気配に振り返るまでもない。
「どけぇっ!」
アイゼンの槍が地を滑るように突き出され、魔獣を弾き飛ばす。彼の防御の網が、後衛に近づく敵を許さない。
「風よ、荒れ狂え!」
レオの詠唱と共に、轟音と共に暴風が巻き起こった。小石と落ち葉が渦を描き、魔獣たちの目を潰す。視界を失った魔獣の群れがたたらを踏む。
「皆、力を!」
クラリスの澄んだ声が響く。光の加護が僕たちの身体を包み、剣が軽く、動きが鋭くなる。
「今だっ!」
アネッサが横から蹴りを放ち、アイゼンが突きを浴びせ、レオの風がさらに群れを切り裂く。
そして最後に、僕が剣を振り下ろした。炎を纏った刃が閃き、手強い魔獣の巨体を一刀両断する。
僕らの連携は淀みなく、戦場を鮮やかに塗り替えていった。
ゴルド・レグナの圧倒的な“孤高の力”と、僕たち五人で繋いだ“連携の力”。
二つの力が並び立つ光景に、戦場は瞬く間に制圧されていくのだった。
僕たちの連携は乱れることなく続き、やがて迫り来る魔獣の群れは数を減らし、ついに姿を消した。
森の方角からはもう新たな気配はない。あの重圧と共に放たれたゴルド・レグナの声が、森の魔獣たちを追い払ったのだろう。
――これで、この領地は平定された。
「これで我の任は完了だ。我は報告に戻る。何もなければ、明日には歩兵が着くはずだ」
そう言い残すと、ゴルド・レグナは目にも止まらぬ速さで来た道を駆け戻っていった。まさに暴風のような勢いで、あっという間にその姿は遠ざかる。
進軍路を確保し、領地を平定した今、ここを拠点として整える必要がある。
歩兵隊が到着するのは明日……あまりにも早いと思ったが、それも当然だ。
――我であれば短期間での制圧は確実だと見越して、ヴァレリアは前もって兵を動かしておくだろう。あの女はそういうやつだ、とゴルド・レグナから聞いていた。
僕たちは歩兵を待つ間、周囲を警戒しながら討ち漏らしがないかを確認し、倒した魔獣の死骸を森の端へ運んだ。こうしておけば、森の魔獣たちが自然に処理してくれるはずだ。
全てを終えると、その日は領地で野営することにした。火を囲み、見慣れぬ夜空を仰ぎながら、それぞれが静かに疲れを癒す。
そして翌日――ゴルド・レグナの言葉通りに歩兵隊が到着した。
彼らと協力して陣を張り、ついに王国での活動拠点が整えられていく。
ここからが本当の戦いの始まりだと、僕は胸の奥で改めて感じていた。
side:ルナ
私は再びこの平野――もはや荒地と呼ぶのが相応しいが――に立っていた。
北の山脈を背に広がる大地は、つい先の戦で血に染まり、勝利を目前にして無惨にも奪われた場所。巨人の最後の一撃で多くの兵を失い、そして――団長を失った。
あの時の光景は今も脳裏に焼き付いている。けれど今日こそは違う。この地で、王子殿下の御名の下に、必ずや勝利を掴み取ってみせる。
「副団長! 兵、全て配置につきました!」
報告に頷き、私は視線を平野の先へとやる。
前回、騎士団に大打撃を与えたのはなにも巨人だけではない。遮蔽物もないこの場所で鬼の力押しを受け、甚大な被害を被った。だが今度は違う。山脈へと進軍し、地形を利用しながら戦えば、たとえ前回のような怪物が現れようとも対応できる。敗北を教訓とした勝利――それが王国の流儀だ。
兵の士気は高い。誰もがリベンジに燃え、刃を鳴らし、瞳に炎を宿している。
私もまた確信していた。
――これなら、勝てる。
「会敵しました!」
前方より報告が届く。
「よし――討て! 一人も残すな、蹴散らしてしまえ!」
すぐさま命令を下し、先頭の剣隊と盾隊が突撃する。重厚な盾が並び、刃が太陽の光を受けて煌めく。その勢いは迷いもなく、兵達の心は一点に集約されていた。
だが――その時だった。
背筋を冷たいものが這い上がる。
……なんだか胸騒ぎがする。
上手くいきすぎている。罠に嵌められているのではないか――そんな嫌な予感が脳裏をよぎった。
唇を噛み、私は一瞬だけ思考を巡らせる。だが次の瞬間、その考えを振り払った。
前回の敗北があまりにも強烈だったがゆえに、私自身が臆病になっているだけだ。
悪い想像をしているにすぎない。
「進め!」
私は声を張り上げ、胸中の迷いをかき消した。
勝利は必ず我らの手にある――そう信じるように。
「討て! 一人も逃すな!」
私の号令に応え、剣隊と盾隊が疾駆する。兵たちは勝利の確信に燃え、逃げ惑う敵兵を追い詰めていく。
だが――何かがおかしい。
「……待て。止まれ!」
胸を締め付ける嫌な予感に、私は慌てて叫んだ。
しかし、遅かった。
先頭を行く敵兵の姿が、ほどけるように崩れ落ちた。そこにあったのは亜人ではない。鎧を纏った“木の人形”――。
「退け! 戻れ!」
喉が裂けるほど声を張り上げる。だが、すでに遅い。
人形に見えたそれらは木の枝と根を伸ばし、前列の騎士たちを絡め取っていた。まるで山そのものが動き出し、私の兵を貪るかのように。
「なぜ……木が……!」
理解が追いつくより早く、根が鋭い槍のように形を変え、騎士の胸を貫いた。
悲鳴と鮮血が一斉に上がる。誇り高き盾隊、勇猛な剣隊――その半数が、一瞬にして屍と化した。
「……っ!」
視界が揺れる。
何が起きている――? 必死に思考を繰り返すが、答えは出ない。
その時、頭上から澄んだ、あまりにも優美な声が降ってきた。
「こんにちは、可愛らしいお嬢さん」
はっと見上げる。
枝葉の間から現れたのは、緑の肌をした女――樹の精霊を思わせる存在。慈愛を帯びた微笑みをこちらへ向けている。
「何者だ!」
隣にいた槍隊の兵が叫び、槍先を突きつけた。
だがその存在は、まるで意に介さぬように枝からふわりと舞い降りる。
軽やかに地へ足をつけると、上品な仕草で礼を取った。
「私は七曜魔、悠木のアルボレア。よろしくね、お嬢さん」
――七曜魔。
その言葉を耳にした瞬間、歯がきしむ音が自分でも聞こえた。
脳裏をよぎるのはあの鬼、あの巨人。あの屈辱と絶望。
「……七曜魔……!」
血の味を覚えるほど強く唇を噛み、私は睨み据える。
「こいつがこの罠の主だ! 討ち取れ!」
声を張り上げる。怯えや迷いなど一切許されぬ。
あの悪夢を繰り返させはしない。
「斬れ!」
私は声を絞り出す。槍隊と、周囲に残していた剣隊がアルボレアへ斬りかかった。だが彼女は冷ややかに微笑み、木の根をうねらせて自分の周囲をぐるりと覆い、防御の壁を作り上げる。刃は根に弾かれ、傷一つ負わせることができない。
アルボレアは余裕げにわざとらしく眉を上げて言った。
「いいの、私ばっかり見てて?あなたの兵はあなたの周りにいる子だけじゃないでしょう?」
――その言葉に、私は息が止まった。
直感が胸を突き、顔を上げると、私の視界の奥で地獄が広がっていた。前方のはるか彼方で敵歩兵隊が群れになって押し寄せ、先頭にいた剣隊と盾隊の生き残りを次々に蹂躙している。
敵の歩兵は獣人が主体だ。俊敏で腕も脚も人間離れしている。たとえ同数でも人間同士の戦とは訳が違う。ましてや半ばに減った我が剣隊・盾隊では歯が立たない。兵たちが必死にもがき、叫び、足元が血と泥で赤く染まっていく。私の胸を刃物で抉られるような痛みが走る。
(前回の勝利は、数と陣形の力だったはずだ。私はそれを忘れていたのか)
自分の認識の甘さを叱責する思考が一瞬にして襲うが、敵は待ってはくれない。思考は即座に切り替わる。残る味方を守る──それだけが今できることだ。
「槍隊、速やかに後退! 後方に下がれ、後衛を守れ!」
私は声を張り上げ、周囲にいる槍隊に撤退を命じた。最後に残った防壁だけでも守らせねば、ここは総崩れになる。
しかし、空気が一変した。地面がぬっと持ち上がる——アルボレアが木の根を操り、槍隊を一斉に捕らえたのだ。槍先を突き出したまま、兵たちの足元が根に絡め取られ、体が仰け反る。必死にもがく声が悲鳴へと変わる。
アルボレアは冷ややかに首をかしげ、見上げながら冷たく言った。
「せめて苦しまずに逝きなさい」
その言葉とほとんど同時に、根が槍隊の胸を貫き、仲間たちが音もなく崩れ落ちていく。目の前で友が、我が部下が静かに散る。その無力さに、私の爪先から血の気が引いた。
だが震える手で私は立ち上がり、最後の気力を振り絞る。まだ、私の後方に騎士たちがいる。せめて――せめて彼らだけでも。踵を返して、喉を裂くほどの声で叫んだ。
「撤退だ! 急げ! 全軍、退け!」
そう叫んだ――はずだった。
けれど次の瞬間、地上に立っているはずの自分が、まるで深い水底に引きずり込まれたかのような感覚に陥る。肺を満たすのは空気ではない。口内から喉へと、何かがねっとりと流れ込み、息を奪った。
「っ……!」
声は掠れ、外へと届かない。わたしの叫びは、空気を震わせる前に濁った膜に呑み込まれていった。
後方にいるはずの騎士たちが、私を助けようと必死に進軍してくるのが視界に映る。
(来るな……! 駄目だ、戻れ!)
心の中で何度も叫ぶ。けれど彼らの耳には届かない。無防備に駆け寄ってきた騎士たちは、瞬く間に大地から伸びた木の根に絡め取られ、ずたずたに貫かれていった。
「う、わあああああっ!」
「助け……っ!」
騎士たちの悲鳴は、私には鮮明に届く。なのに、私の声だけは届かない。
剣が折れる音、盾が砕ける音。鋼の甲冑ごと肉を貫かれる鈍い衝撃。
血が飛び散り、次の瞬間には断末魔も途切れる。
たった数瞬のうちに、後方にいた仲間は根に絡め取られ、地に転がる無惨な屍と化していた。
(やめろ……やめろ!)
涙すら出ない。全身を凍りつかせるのは、己が何もできなかったという圧倒的な無力感。
そして――残されたのは私だけだった。
アルボレアが優雅に振り返る。
「私たちは帰るけど……早めに食べて戻ってくるのよ、ネレイアちゃん?」
その言葉で、ようやく私を拘束するものの正体を理解した。
背後に絡みついていたのは――人の形を模したスライム。半透明の体がぴたりと密着し、口を覆っている。
「はいは〜い、わかってるって〜」
間延びした声とともに、その人形のスライムが手を振る。アルボレアと歩兵たちを見送り、その姿が木々の向こうに消えていったところで、ようやく私の口は解放された。だが身体はなおも粘質に絡め取られ、指先ひとつ動かせない。
「こんにちは。私はネレイア。一応、七曜魔の一人だよ」
明るい声音で告げながら、その顔に浮かぶのは楽しげで、そして嗜虐的な笑み。
「君、とっても意志が強くて――美味しそうだね……」
舌なめずりしながら、ネレイアが至近距離で見つめてくる。そして私の体はネレイアに少しずつ呑み込まれていく。
息ができない。
いや、できているはずなのに、肺の奥まで粘ついた冷たいものが流れ込んでくる。
「やだ……いやだ……」
声にならない。喉の奥で空気が震えても、ネレイアの体の中に吸い込まれていくだけだ。
私は必死に体を捩じらせる。腕を振ろうとしても、まるで柔らかな泥に埋められたように動かない。足も腰も、もう半分以上があの半透明の塊に呑み込まれている。
(抜けない……!動けない……!)
仲間たちが木に貫かれて死んでいった光景が頭に焼きついている。血を吐き、目を見開いたまま絶命した顔が、瞼の裏に幾度も閃く。
今度は私の番だ。
私だけが残されて、こんな化け物に……。
「ふふ、暴れないで。ねぇ、君、ほんと綺麗な瞳してる」
耳のすぐそばで、ネレイアの声が甘く囁く。ぞわりと背筋に寒気が走る。
「その必死さ、すっごくいい……。食べちゃうのが惜しいくらい」
肩まで沈められ、両腕もがんじがらめに絡め取られた。
胸の奥に冷たい重みが広がって、心臓の鼓動が逆にやけに大きく響く。
(いやだ……!死にたくない……!)
必死に叫んでも、もう口の端まで透明な液体が満ちている。
舌に触れたそれは、ぬるく、そして鉄のように苦い味がした。
「ほら、もうすぐ全部、溶けちゃうよ?」
ネレイアが楽しげに笑い、私の顎を優しく撫でた。
暗闇に引きずり込まれるように、私は首まで呑み込まれていく。
(冷たい……苦しい……)
それだけじゃない。
胸の奥に、何かがじわじわと入り込んでくる。私の思考に、感情に、溶け出した泥のようなものが滲み込んで……自分の輪郭が曖昧になっていく。
「ほら、感じるでしょ?私の中に、君が混ざっていくの」
ネレイアの声が頭の中で響く。耳からじゃない、直接心を撫でられているように。
(やめろ……私は、私で……!)
必死に拒絶を叫ぶ。だがその意志さえも、ゆるやかに侵されていく。
頭の片隅で「もう楽になってもいい」と囁く声が聞こえる。私のものではないのに、確かに私の声。
「そう、それでいいの。抗わなくていい。君はもう、私の一部になるんだから」
首から下がすべて沈み、体の感覚がなくなる。
私の血肉も、魂も、この女の中に溶け込んでいく……。
仲間たちの顔が浮かぶ。必死に戦った彼ら。散っていった彼ら。
守るはずだったのに、何もできなかった。
(ごめん……みんな……)
首が沈む。最後に見えたのは、この山に不釣り合いな半透明の体。
そして口が、鼻が、目が、粘液に覆われていく。
「美味しいよ、君……」
暗闇が広がる。
鼓動が遠ざかる。
私という意志が、溶けて――消えた。
読んでくださってありがとうございます。
ここで性癖をひとつまみ加えることによって、R-15描写に説得力を持たせるわけですね。




