第二十一話 ノワールの報告、ロザリンドの覚悟
子を思う母親の気持ちっていうのはいいですよね。
第二十一話
翌朝、朝食をとってから身支度を整える。宿を出て、ノワールの案内で魔王城へと向かった。城は街を見下ろす高台にそびえ、近づくだけで肌に電流が走るような圧力を感じる。石造りの外壁には魔法陣が彫り込まれ、ただの装飾ではなく防衛の一部になっているのが一目で分かる。
僕、クラリス、レオ、アネッサ――前に一度、ここで魔王と相対した四人は、自然と歩調が遅くなっていた。あの時の息苦しさ、背骨が凍るような視線。思い出すだけで喉が渇く。
「……」
隣でクラリスが硬く口を結び、レオは拳を握っている。アネッサは冗談一つ言わず、真っ直ぐ前を見ているが、その肩の強張り方は隠しきれなかった。僕自身、心臓が喉元までせり上がるようで、声を出す余裕もなかった。
そんな僕たちの様子を横目に、アイゼンが小さくゴクリと唾を飲む音が聞こえた。彼にとっても初めての謁見だ。緊張は隠せないのだろう。
一方でドルガやバルド、ナーガラは表情を引き締めながらも、周囲の意匠に目をやる余裕があった。壁を飾る黒鉄の装飾や、魔力を帯びて光を放つ燭台。それぞれが息を呑みながらも観察している。
ロザリンドはというと――腕の中で眠るリュミアを時折覗き込みながら、先だけを見据えていた。赤子の安らかな寝顔が、彼女の心を支えているのだろう。隣でサリアも小声で「よく眠ってますね」と囁き、気遣うように目を細めていた。
やがてノワールが立ち止まった。そこは巨大な扉の前。魔力を帯びた紋様が青白く揺らめき、触れるだけで焼けるような威圧感がある。
ノワールが一歩前に出て、扉へ向かって声をかける。
「魔王陛下。ノワール、任務を終え帰国しました。勇者一行も一緒です。目通りを願います」
間を置かずに――
「入れ」
その一言が扉越しに響いた。短く、だが絶対に抗えない覇気を孕んだ声。僕は背筋を貫かれるような衝撃に思わず息を呑んだ。
ギィ……と重厚な扉がゆっくりと開いていく。
魔王の待つ謁見の間へ――僕たちは足を踏み入れた。
そこに座していたのは――魔王ヴァレリア。
玉座にもたれかかるその姿だけで、胸の奥が震えた。赤黒い双角は鋭く天へ突き出し、血のように紅い瞳がこちらを射抜く。漆黒のドレスは細やかな金糸で縁取られ、肌に刻まれた魔導痕が禍々しい光を帯びて浮かび上がっている。肩に掛けられた黒羽のマントは、闇そのものを纏っているようで、彼女をより一層大きく見せていた。
美しい――だが、その美しさに酔うよりも先に、膝が折れそうなほどの覇気が押し寄せる。目を逸らせば即座に首を刎ねられるような、鋭い眼差し。声を発さずとも支配者の風格が空気を支配していた。
「……」
僕は息を詰め、隣に立つ仲間たちも同じように硬直していた。クラリスの肩が小さく震えているのを視界の端で捉え、レオもアネッサも視線を床に落としている。
その一方で、ノワールは膝をつき、冷静に頭を垂れた。
「魔王陛下。ノワール、帰還いたしました。任務を終え、公国と王国に書簡を届け、その反応を持ち帰りました」
言葉が広間に響いた瞬間、ヴァレリアの紅い瞳が細められる。
視線が僕たち一人ひとりをなぞるように流れ、ただそれだけで心臓が跳ね上がる。
玉座に座るその姿は――まさに絶対の王。
「……よく戻った、ノワール。さすがは我が右腕よ」
ヴァレリアが口を開いた瞬間、空気が震えた。低く澄んだ声なのに、覇気を帯びて壁に反響する。だがその言葉には、鋭さと同時に確かな温かさが含まれていた。
ノワールは深く頭を垂れる。
「勿体なきお言葉にございます、陛下」
玉座から紅い瞳が僕たちへと移る。刺し貫かれたように心臓が跳ねる。だが、次に放たれた言葉は意外なものだった。
「――勇者リアン、そして聖女クラリス。再び余の前に姿を見せたか」
ヴァレリアの声音は、思い出す素振りもなく、ごく自然に僕とクラリスの名を呼ぶ。
その響きに、胸の奥が熱くなる。
僕は深く礼をし、クラリスもまた静かに頭を垂れた。
ヴァレリアの視線が次にレオとアネッサへ移る。
二人は以前、魔王の前に立っただけで完全に萎縮していた。
けれど今回は――膝を震わせながらも、なんとか立っている。
ヴァレリアは小さく鼻を鳴らす。
「……ふむ。前よりは幾分マシになったようだな」
それはほとんど褒め言葉には聞こえなかったが、二人にとっては最大級の評価に違いない。
さらに視線は他の面々へと流れ、順に見定めていく。
緊張で顔色を変えながらも、誰一人膝を折らないのを見て、ヴァレリアは口の端をかすかに吊り上げた。
「面白いやつらよ。いずれも腰が引けておらぬ」
そして、その中でも――ロザリンドに視線が止まった。
彼女は気丈に、真っ直ぐヴァレリアを見返していた。
恐れを隠すのではなく、それを抱えたまま逸らさぬ眼差し。
ヴァレリアの瞳が愉快そうに細められる。
「……活きがいいのも混じっておるな」
その一言に、ロザリンドの肩がわずかに震えた。だが視線は逸らさなかった。
やがてヴァレリアは玉座に身を預け、全員へと労いを与える。
「勇敢なる者たちよ、よくぞ余の国まで辿り着いた。労をねぎらおう」
重厚な声が謁見の間に響き渡り、僕たちは深々と礼を取った。
そしてヴァレリアは再びノワールに視線を向ける。
「――さて、ノワール。報告の続きを聞かせよ」
ノワールは一歩進み出て、深く礼を取った。
「まず、公国でございます。魔導国を敵視することなく、隣国として手を取り合いたいとの意向を示しました。互いの益となる交流を望み、使節団を派遣したく、陛下の許しを請いたい――その旨、書状を預かってまいりました」
恭しく差し出された封筒を、侍従が受け取りヴァレリアへと捧げる。
ヴァレリアはそれを一瞥し、静かに口を開いた。
「……賢明な判断よ。公国には余からすぐに返答をしたため、使者を送るとしよう」
その声音に、場の空気がわずかに和らいだ気がした。
けれど次にノワールの口から紡がれた言葉は、重苦しいものだった。
「続いて、王国でございます。陛下の言葉を伝えただけで激怒し、書簡を差し出すとさらに激昂。国交どころか、とりつく島もございませんでした」
謁見の間に冷たい沈黙が落ちる。
だがヴァレリアは眉一つ動かさず、その報告を受け止めた。
「……やはり、な」
低く響く声に、僕の背筋がぞくりとした。
ヴァレリアはゆるりと背を玉座に預け、瞳を細める。
「差別意識など、そう簡単に消えるものではない。これからも根気強く働きかけていくしかあるまい」
その言葉は、自らの信念を貫く者の揺るぎなさを感じさせた。
だが、ノワールがためらいがちに一歩進み出る。
「陛下……恐れながら、それは難しいかと」
一瞬、空気が張り詰めた。
けれどヴァレリアは眉を寄せることもなく、むしろ静かに問い返した。
「理由を申してみよ」
ノワールは深く息を吐き、そして告げる。
「王国で我々は、『亜人大粛清』と銘打った、王家による亜人の大虐殺に巻き込まれました」
その言葉が響いた瞬間、僕の心臓が大きく跳ねた。
ノワールの声は、普段の冷静さを保ちながらもどこか震えていた。
「……その『亜人大粛清』は、王国の王子が主導しておりました。王都だけでなく、王国領内のあらゆる亜人を根こそぎ捕らえ、次々と処刑していったのです」
場の空気が重く沈む。
「我らも巻き込まれました。特に、アネッサ殿とこの身は命を狙われ……」
ちらりと隣に立つアネッサに視線をやり、ノワールは言葉を継ぐ。
「ここにいるドルガ、バルド、ナーガラ、サリアも、辛うじて難を逃れたに過ぎません。しかし……王国内に暮らす数多の亜人は――」
一拍置き、ノワールは唇を強く噛み締める。
「……幼き子供であろうと容赦なく。次々と殺されていきました。街は血に染まり、泣き叫ぶ声が途絶えることはなく……まさしく地獄絵図でございました」
ノワールの報告が終わると、謁見の間は一瞬の静寂に包まれた。
ヴァレリアの瞳が細くなり、低い声が響く。
「……愚か者どもが」
その瞬間、空気が震えた。
見えない圧力が全身を覆い尽くし、肺に入る空気すら重くなる。
僕は喉を鳴らすことすらできなかった。
クラリスは膝が震え、必死にスカートを握りしめている。アネッサは牙を食いしばり、額に汗を浮かべている。レオに至っては、もはや立っていられないほどに膝が震え、アイゼンに支えられている。そのアイゼンも青白い顔をしている。
ドルガやバルドでさえ、背中を丸めるようにして耐え、ナーガラとサリアは目を逸らして息を殺していた。ロザリンドはリュミアを抱きしめ、赤子を守るように一歩踏み出す。その姿は、逆にヴァレリアの視線を正面から受け止めるようにも見えた。
「――不快だ。実に……実に耳障りな報告よ」
その一言が落ちた瞬間、さらに覇気が強まった。
僕の足は地に縫い付けられたかのように動かず、ただただ必死に立ち続けるしかなかった。
「……お鎮まりください、陛下」
ノワールの声はいつもと変わらず冷静に響いた。だが僕の位置からは、彼女のこめかみを伝う汗の雫が、きらりと光って落ちていくのがはっきり見えた。
ヴァレリアはその言葉に、唇をわずかに歪めて目を細める。
「……ふん、ノワール。余に口を挟むか」
刹那、謁見の間の重圧がさらに増すかと思われたが――ヴァレリアは顎を引き、吐息と共に力を抑えた。
緊張に押し潰されかけていた僕らは、一斉に肺に空気を吸い込んだ。
ノワールは深く一礼し、落ち着いた声で告げる。
「陛下。ここにいる亜人達、そして――人間である彼女ロザリンドに、この国に住む許可を賜りたく存じます」
その瞬間、ロザリンドが静かに一歩、前へ。
彼女はリュミアを胸に抱きながらも、背筋を真っ直ぐに伸ばし、まるでこの覇気を真正面から飲み込むかのように凛とした佇まいを崩さなかった。
「魔王陛下」
その声は澄んでいて、震えはない。
「我々の故郷は――もはや、我々が我々として生きていける場所ではありません。ですが、この小さな命を……私は、未来へと繋がなければなりません」
リュミアを抱き直し、瞳をまっすぐにヴァレリアへ向ける。
「どうか、この国で生きることをお許しください」
その場にいた誰もが、ロザリンドの気丈な姿に息を呑んだ。
ヴァレリアの紅の瞳が細められ、氷のような視線がロザリンドに突き刺さる。
「……貴様、王国の――それも貴族階級の人間だな」
吐き捨てるような声音。ロザリンドが答える間もなく、畳みかける。
「差別主義者が何故、我が国に移住を望む? ここでは生まれや種族に貴賎はない。行いでのみ、その価値を量る。――答えろ、何故その腕に亜人の子を抱いている?」
空気が再び凍りついた。
ヴァレリアは一歩も動かぬまま、まるで空間そのものを圧縮するように圧を強める。
「余は今、すこぶる機嫌が悪い」
低く、重い声。
「返答次第ではその首から上が闇に消えると思え。……貴様は何者だ?」
ロザリンドの肩が小さく震えた。だが足は一歩も退かず、視線も逸らさない。
「……私は、ただのロザリンド。もう王国の民ではありません」
その言葉と同時に、過去の傷を押し開くように吐き出した。
「先の亜人大粛清……私は亜人たちを率い、抵抗しました。しかし力及ばず……多くの仲間の命を散らし、領民すら守れませんでした」
声が詰まり、視線が床に落ちる。
「――ッ」ぎり、と歯を食いしばる音が聞こえるほどに。
しかし次の瞬間、彼女は腕の中のリュミアを見下ろした。安らかに眠る小さな寝顔。
その顔を確かめるように見つめたあと、ロザリンドは深く息を吐き、顔を上げた。
「この子は、私に残った最後の希望の光です」
ヴァレリアに向ける瞳は、もう揺らいでいなかった。
「人間も亜人も、王国も魔導国も関係ありません。私は――リュミアの母として、この子のために最善を尽くすのみ」
ロザリンドの顔からは、先ほどまであった緊張や恐れが消えていた。
「……魔王ヴァレリア。例えあなたが相手であったとしても、退くわけにはいかない。あなたが真に偉大な王であるのならば……この若く小さな命のために、首を縦に振ってみせろ!」
僕は目の前の光景に息を飲んだ。ヴァレリアが一瞬目を見開き、次の瞬間、広間に高く響く笑い声を放ったのだ。
ひとしきり笑ったあと、ヴァレリアはロザリンドを見ながら呟く。
「ふふふ……面白い。余を相手にここまで啖呵を切るとはな」
その瞳は鋭く、口元だけに微かに微笑みを浮かべている。僕は思わず身をこわばらせた。
「真に偉大な王であるのならば……か。頭の回るやつだ。そんな言い方をされて断れる王などいるものか」
ヴァレリアはにぃっと歯を見せ、明らかに楽しんでいる。
「よい、よいぞロザリンド! 余はそなたが気に入った! そなたとそこの亜人ら、我が国への永住を許可しよう!」
ヴァレリアはふと視線をロザリンドに向け、鋭く、しかしどこか楽しげに口を開いた。
「ロザリンドよ、そなたは魔王城で働け。領地を治めていたのだろう? その力、余の麾下で存分に発揮するがよい」
僕は一瞬、息を飲んだ。ロザリンドは言葉を失い、ただ目を丸くしている。
だが、すぐにハッと我に返ったように深く頭を下げた。
「あ、ありがとうございます、魔王陛下。ご無礼をお許しください」
その口調にヴァレリアはやや顔をしかめ、しかし声色は柔らかくロザリンドに声をかける。
「ロザリンドよ、そうかしこまるな。余が許す。楽に話せ」
その声に、ロザリンドは肩の力を抜き、ふっと笑った。
「……陛下、その寛大な心に感謝を」
僕の胸には、少し奇妙な感覚が芽生えていた。――ここまで強く、堂々とした彼女の姿を見ると、何か胸の奥が熱くなる。尊敬と、そして…守りたいという感情が、入り混じっていた。
僕はそっと視線を下げ、ロザリンドの横顔を見た。彼女は微かに笑っていて、僕の視線には気づかないままだった。それでもその笑顔は、確かに亜人達の希望になり得るものだと、僕は感じた。
ヴァレリアは次に視線を僕に向けた。その瞳には好奇心と興味が入り混じっている。
「リアンよ、そなたたちはこれからどうするのだ」
ヴァレリアの問いに、僕は即答する。これは以前から僕の中では決まっていた答えだ。
「……旅を続けます。この世界は広い。この大陸だけじゃない、他の大陸にも行って、この目で世界の広さを確かめたいと、そして……自身の正義を見つける旅をしたいと、そう思っています」
僕の答えにヴァレリアはゆっくり目を閉じ、頷く。
「そうか。よいだろう。そなたらはノワールの客人だ。いつでもこの国に帰ってくるがよい」
その言葉に、僕の胸は温かくなる。厳しさと慈悲を兼ね備えた、その態度――そういえば初めて謁見する前に、アネッサが言っていたっけ。「厳しくも慈悲深いお方」――なるほど、今ならその意味がよくわかる。
僕は深く一礼し、静かに言った。
「ありがとうございます、魔王陛下」
その礼を終え、僕たちは謁見の間を後にした。
通路を歩きながら、僕は心の中で小さく誓った。――どこへ行こうとも、ここまでの旅での出来事を忘れず、成長し続けよう、と。
読んでくださってありがとうございます。
夜にも投稿しようと思っています。




