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勇々戦記 ー勇者リアン、迷いと覚悟の旅路ー  作者: ヨルイチ
第三章 エステリア神聖王国編
20/49

第二十話 安らぎの時

区切りよくいきたかったので少し長めです。

第二十話


 門をくぐった僕らは、ようやく街の中へと足を踏み入れた。夕刻の喧騒に包まれた石畳の大通りは、王都とは違う活気があった。行き交う人々の中にはドワーフの姿もある。亜人も少なからず住んでいるのが公国だ。

 だけど、僕ら一行はどうしたって目立つ。ロザリンドの気品も、亜人の仲間たちの存在も、どこからどう見ても只者じゃない。だからこそ、まずは身を隠すように宿へと入ることになった。


「今日はもう動かないほうがいいな。目立ちすぎるし、皆も疲れている」

 ロザリンドのその言葉に、全員が異論なく頷いた。


 宿に着くと、やっと一息つける。硬い地面ではなく柔らかなベッド。張り詰めていた心と体が一気に緩み、僕も仲間たちもそれぞれの部屋で休息をとった。


 翌朝。

 まだ早い時間に目を覚ました僕らは、食卓を囲んで今日の段取りを確認する。

 「大公への謁見は、僕とアイゼン、ノワールの三人で行こう」

 「残りの者は……消耗品の買い出しだな」

 「ええ。謁見と補給が済み次第、すぐに出発しましょう。長居は危険よ」


 互いに顔を見合わせ、静かに頷く。

 休むべき時に休んだ今、次に進む準備はできていた。


 

 翌日、僕はアイゼン、ノワールと共に大公への謁見に臨む。荘厳な広間に通された僕ら三人は、赤い絨毯の先で玉座に腰掛ける大公と対面した。全てを見抜くかのような青い瞳でこちらを見るその佇まいは、ただそこに座しているだけで圧倒される威厳を放っている。


「……よく来た。勇者リアン、アイゼン、それに魔導国の使者、ノワールであったな」


 深く低い声が広間に響く。


「報告に来たのであろう。アイゼン、貴様に託した任はどうであった」

 アイゼンは進み出て、膝をついた。


 「はっ、大公閣下。託されていた書簡は、確かに王へ届けました。しかし……王は激昂し、国交の件を一顧だにされませんでした」


 大公の視線がわずかに細まる。

 僕とノワールが前に進み出て、同じように膝をついた。


 「……僕も、こちらにいるノワールも、その場に立ち会いました。アイゼンの言葉に偽りはありません」

 「ええ、むしろ王は耳を塞ぎ、怒りに任せて……その、書簡を……火に…」

 ノワールが言いにくそうに口ごもる。


 しばしの沈黙。広間に重苦しい空気が漂う。だが、大公は静かに目を閉じると、深く頷いた。


「……やはりな。王国の気質を考えれば予見できぬことではなかった。彼の国とは国交があるゆえ、先を予見して改めてくれるかと期待もしたが……やはりダメだったか。……まぁよい、余の使者としてよく務めてくれた、アイゼン」


 そう言って立ち上がった大公は、玉座から一歩前へ歩み出る。

「そなたは執行猶予期間中だったな。余の任務、よく果たした。これより、王国への使者の任を解く。代わりに――勇者リアンの旅に同行し、その力を振るえ。余がそなたに課す新たな任だ」

 

大公は鋭い視線でアイゼンを見て言う。

「これは減刑などではないぞ。その任を放棄したら、即座にそなたは無償労働の刑だ。よいな、アイゼンよ」

 

 アイゼンの瞳が驚愕に見開かれる。だがすぐにその表情を引き締め、胸に手を当てて深く頭を垂れた。

 「……御心のままに。必ずや勇者殿の力となりましょう」


 「うむ。それでよい。……他に報告はないな?ないなら以上だ。下がるがよい」


 大公の声が謁見の終わりを告げる。

 僕ら三人は同時に頭を下げ、重々しい扉を後にした。


  重い扉を抜け、公邸を出た僕とノワール、アイゼンは、まっすぐ宿へ戻った。

 扉を開けると、皆が待っていたかのように顔を上げる。


「おかえりなさい」

 真っ先に声をかけてきたのはクラリスだった。謁見の帰りに襲われた前回のことを思い出したのか、安堵の色を浮かべている。


 「……どうだった?」と、レオが慎重に問う。


 僕は小さく息をつき、言葉を選んだ。

 「大公は王の態度を予想されていた。アイゼンが渡した書簡は王に拒絶され、魔導国との国交を拒否したことも伝えてきたよ。大公はすべて見抜いていたみたいだったけど」


 部屋の空気がわずかに重くなる。

 だが、次の僕の言葉で全員の表情が動いた。


 「そして……アイゼンはこれからも旅に同行してくれることになったよ。大公がそう命じたんだ」


  アイゼンは背筋を伸ばし、皆の前に立った。


 「驚いたが、これが大公閣下の御意志だ。今後もリアンや皆の力となることを誓おう」


 彼の真剣な声音に、一同が静かに頷いた。

 「心強いわ」とクラリスが微笑む。

 アネッサもニコッと笑って「ここでお別れは寂しいもんね!」と嬉しそうに言った。


 僕は皆の顔を見回しながら、胸の奥で少しずつ緊張がほぐれていくのを感じた。

 ――これで、公国での用事は果たした。

 次は……いよいよ魔導国へ。


  出発の準備を整え、いざ宿を出ようとしたが――やはり僕は一つだけ心残りがあった。

「……すまない。あと一ヶ所だけ寄りたいところがあるんだ」


 振り返ったロザリンドが、怪訝そうに眉をひそめる。

 「どこだ?」


 代わりにクラリスが口を開いた。

 「レオのご実家です」


 皆の視線が一斉にレオへと向かう。彼は少し気まずそうに肩をすくめた。

 僕はそこで説明した。

 「レオの両親には、この国に来るたび世話になっている。恩人なんだ。……長居はできないけど、顔だけでも見ておきたい」


 短い沈黙のあと、アネッサが「たしかに!あたしも!」とあっさり言い、ノワールも「あのお方々にはお世話になっています」と頷く。アイゼンも「親に会えるうちは会っておかねえと」と賛成してくれた。


 レオが微笑みながら僕らを案内する。



 レオの実家は質素ながら手入れの行き届いた家だった。扉を開けた瞬間、両親が少し驚いた顔を見せる。だが、すぐに笑顔に変わった。

「まぁ、レオ!」

 「よく帰ってきたな!」


 温かな空気が部屋いっぱいに広がる。

 僕らの新たな仲間の顔ぶれを見ると、さらに目を丸くして「こんなに……!」と驚きつつも、にこやかに迎えてくれた。


 レオはすぐに頭を下げる。

 「すぐに出発しなきゃいけないんだ。けど……顔だけは見ておきたくて」


 その言葉に、両親は少し残念そうな表情を浮かべる。だがすぐに笑みを取り戻し、

 「いつでも帰っておいで」

 「お前の居場所は、ここだ」

 と優しく告げた。


 出発のために玄関を出ようとしたそのとき、背後から「レオ」と声がかかる。振り向いた瞬間、両親が駆け寄り、息子をしっかりと抱きしめた。

 「いい男になったな」父親が力強く言う。

 「体には気をつけるのよ」母親が目を潤ませながら囁く。


 レオは少し照れくさそうに、しかし真剣な顔で頷いた。

 僕らはその様子を自然と微笑ましく眺めていた。

 ロザリンドが静かに言葉を添える。

「よい両親だ。……大切にするのだぞ」


 そうして僕らは、名残惜しさを胸に抱きつつも歩き出す。

 ――いよいよ、公国を後にするのだ。


  公国を発ち、石畳の整った街道を外れてしばらく進むと、風景は一変した。

 村も集落もなく、人影も見えない。あるのは山肌を削ったような険しい岩道や、崖に沿って細く続く獣道めいた街道ばかりだった。足を取られる度に荷物が揺れ、息が重くなる。


 それでも僕達は歩みを止めない。

 昼は容赦なく照りつける太陽に汗を流し、夜は冷え込みに身を寄せて眠る。焚き火の炎だけが、闇の中で頼れる光だった。


 八日目の昼過ぎ。

 峠を越え、岩だらけの斜面を下り切った先に――ようやく視界が開けた。そこに広がるのは、荒れた大地の向こうにぽつりと築かれた大都市。高い城壁に囲まれ、その奥には魔導国の象徴ともいえる黒々とした城がそびえている。


「……見えたな」

 アイゼンの低い声に、誰もが思わず足を止める。


 魔導国には砦も関所も存在しない。領土と呼べるのは、この城下町の内側だけ。だからこそ、城門がそのまま関所の役割を担っている。

 門を抜ければ、ようやく目的の地に入れる――そう思うと、胸の奥で張りつめていたものが少しだけ緩むのを感じた。


 入国審査の列に並びながら僕は改めて周囲を見渡した。魔導国に来るのはこれが二度目だけど、それでも目の前に広がる光景には驚かされる。獣人、魔人、魚人に竜人……さまざまな種族の者たちが入り混じり、まるで生き物のようにうごめいていた。


「噂には聞いていたが…すごいな」

 ロザリンドも目を丸くして呟く。獣人たち――ナーガラ、ドルガ、バルド、サリア――は目を輝かせ、ここなら自分たちも安心して生きていけるのだと感動しているようだった。


 列は思ったより早く進み、入国審査の番が来る。

 するとノワールが一歩前に出て、静かに、しかし確固たる声で言った。

「ノワールです。この者たちは私の客人。通ります」


 僕は目を丸くしたまま、仲間たちの驚いた顔を見た。審査官は一瞥するだけで、手続きを終え、僕たちはすんなりと城下町の中へ入ることができた。それもそうだ。ノワールはこの国では魔王の右腕と呼ばれる秘書。この国の支配者層だ。――改めて、ノワールの存在感を実感した。


 

  城門を抜けた瞬間、目の前に広がる光景にロザリンドが息を呑んだ。

「……これほどとは」


 街路の両脇には魔道具を扱う店が並び、光や炎、水の術式が看板のように灯っている。運搬用のゴーレムが荷車を押し、空には小型の飛行具がひらひらと舞う。驚くべきは、これほど多種多様な種族――獣人や魔人、竜人、果ては精霊までもが肩を並べているのに、小競り合いひとつ起きていないことだった。


 ドルガが低く唸るように感心の声を漏らす。

「……見事なもんだな」

 サリアは夢見るように瞳を輝かせた。

「まるで……夢みたい」


 バルドとナーガラも、言葉こそなかったが目に浮かんだ表情だけで十分に伝わってきた。この国に、すでに心を惹かれているのだと。


「ふふん、そうでしょ?」

 アネッサが胸を張って言う。

「ここは大陸一、亜人に優しい国なんだから!」


 その様子を見てノワールが柔らかく微笑み、恭しく一礼する。

「では私は宿を確保して参ります」

 そう告げて人混みに消えていった。


 レオは久しぶりに見る魔道具に目を輝かせ、子どものように視線をあちこちへ飛ばしている。アイゼンはといえば、初めて見る光景に落ち着かないのか、視線を泳がせながらも無理に平静を装っていた。


 僕とクラリスはそんな仲間たちを眺めながら、自然と微笑み合った。

――やっと辿り着いたんだ。魔導国に。


 しばらく街の喧騒を眺めていると、ノワールが足取り軽く戻ってきた。

「皆さま、お待たせいたしました」

 口元に小さな笑みを浮かべ、胸に手を当てて恭しく頭を下げる。

「宿を確保して参りました。こちらへどうぞ」


 僕たちは導かれるままに石畳の通りを歩き、やがて目の前に現れた建物を見て思わず息を呑んだ。


 広い庭に噴水があり、玄関口には水晶灯が幾重にも灯っている。今まで旅の途中で立ち寄ったどの宿よりも立派で、もはや貴族の邸宅といっても差し支えないほどの造りだった。


「……すごい」

 クラリスが目を見開き、その隣でレオが声を失っている。


 僕も思わず言葉を失った。これほど豪奢な宿に泊まることになるなんて、思ってもみなかった。


 ノワールはそんな僕たちの反応を楽しむように、ゆるやかに笑った。

「この国では、私はこのくらいのことができるのですよ」


 アネッサは「さすがノワール様!」とノワールを讃え、サリア呆然と口を開けたまま立ち尽くしている。ロザリンドは腕に抱いた赤子をそっと揺らしながら、「今日は安心して休めそうだな」と安堵の声を漏らした。


 その様子を見て、僕は心から思った。

――ようやく、本当に休める場所に辿り着けたのだ、と。


 

 ノワールに案内されて辿り着いたのは、五階建ての宿の最上階だった。

厚い扉が開かれると、そこに広がったのは一フロアすべてを贅沢に使った広間。


調度品はどれも上質で、壁には魔導国らしい水晶灯が柔らかい光を投げかけている。

真っ白な寝具が整えられた大きなベッドはふかふかそうで、窓の向こうには賑やかな城下町が一望できた。


「わあっ!」

真っ先に駆け出したのはアネッサだった。目を輝かせながらベッドに飛び込み、その感触を確かめるように全身で跳ね回る。

「すっごいふかふか! こんなの初めて!」

彼女の弾んだ声に、場の空気が一気に和らぐ。


ロザリンドは落ち着いた様子でソファに腰を下ろし、腕に抱いていた赤子の顔をそっと覗き込んだ。

「よく眠っているな……いい子だ。部屋もなかなかいい」

小さく微笑むその表情は、普段の厳しさを忘れさせるほど穏やかだ。

その隣でサリアが覗き込み、「かわいい……」と、柔らかく相槌を打つ。


一方、ドルガとバルドは荷物を放り出すように置いてから、どっかりとベッドに腰掛けた。

「おお、これは……」

「ははっ、こりゃたまらん!」

ふたりの大きな身体が揺れるたびにベッドが沈み込み、楽しげな笑い声が響く。


少し離れたところでは、レオとクラリスが用意されたシングルベッドを前に立ち尽くしていた。

配置の関係か、ふたりのベッドは他よりもずいぶん近く、ほんの一歩で届くほどの距離だ。

「……」

「……」

どちらからともなく視線を逸らし、気まずそうに頬を染める姿が微笑ましい。


アイゼンはといえば、部屋の隅にある大きなクローゼットを開け放っていた。

「ほう、これは……」

服を掛けるための仕切りに混じって、武器を収納できる専用の金具まで備え付けられている。

「槍まで掛けられるとはな……細やかな造りだ」

感心したように指で触れながら、口元に小さな笑みを浮かべる。


ナーガラのための寝台は特別に長く作られており、彼女は感触を確かめるように尾を滑らせて横たわった。

「……ここまで気を配ってくれるなんて」

その声音には、普段の冷静さに混じってどこか感慨深げな響きがある。


僕はと言えば、みんなが思い思いにくつろぐ様子を眺めながら、自分もベッドに腰掛けてみた。

たしかに柔らかく、疲れが一気に抜けていくようだ。

ふと視線をノワールに向けて口を開く。

「ノワール、本当にありがとう。こんなにいい宿をとってくれるなんて」


彼女はいつもの冷静な表情を崩さないまま、軽く肩をすくめてみせた。

「当然のことです。皆さんは私が招いた客人なのですから」

言葉は飄々としているのに、その口調にはどこか誇らしげな響きが混じっていた。


 アネッサがベッドの上でまだ跳ねているのを見て、ドルガが腕を組みながら笑った。

「おいおい、ベッドが壊れるぞ」

「だ、大丈夫だって! ほら、全然沈まないし!」

「沈んでるぞ」

「えっ!? ……あ、ほんとだ!」

慌てて飛び退くアネッサに、みんなの笑い声が広がる。


バルドはそのやりとりを眺めて腹を揺らして笑い、

「ははは! 壊したら、アネッサが働いて弁償だな!いくらになるかわかんねぇな!」

「やめてよぉ!」

と必死に手を振るアネッサの顔は赤くなっている。


一方でレオとクラリスは、相変わらず近い距離に並んだベッドをちらちら見ては視線を逸らすばかりだった。

その様子にアイゼンが口元を押さえて笑いをこらえる。

「……妙に、配置が近いな」

「ち、ちがっ……! 偶然よ!」

クラリスの慌てた声にレオまで耳を赤くし、余計に笑いを誘った。


ナーガラは尾をぱたぱたと動かしながら、どこか楽しそうに皆を見回している。

「にぎやかね……いい雰囲気」

その落ち着いた口調すら、今はひとつの笑い種になる。


そんな和やかなひとときの最中――

ふいに、ロザリンドの腕の中から小さな声が漏れた。


「……ん、ぅ……」


赤子がもぞもぞと動き、瞼を開く。

ロザリンドは慌てて声を潜めた。

「……済まぬ、うるさかったか?」

目を細めて覗き込みながら、「泣くか……?」と緊張の色を浮かべる。


だが赤子は、彼女の顔を見つめると――

「きゃっ、きゃっ」

と楽しそうに笑い出した。


一瞬、部屋の空気が止まる。

ロザリンドの目が大きく見開かれ、やがて潤みを帯びる。

「……私の顔を見て……笑ったぞ……!なぁ、サリア!」

その小さな笑顔に応えるように、彼女の唇も震える。


サリアはそっとその光景を見つめ、優しく口を開いた。

「お母さんだと……認めてくれたのかもしれませんね」

 そのまま優しい口調で続ける。

「ねぇ、この子に……名前をつけてあげませんか?」


「……あぁ、そうだな」

ロザリンドは静かにうなずき、皆の方を見渡す。

「せっかくだ。皆で考えよう」


広い部屋の中、仲間たちの視線が自然と赤子へと集まった。

 ナーガラが腕を組んで少し考え込んだあと、口を開いた。

「セレスなんてどうです?大空をイメージしてみたんだけど……鳥人のその子にはぴったりじゃありません?」


その響きに皆が頷く。確かに、この子に似合いそうな気がする。


続いて、レオが静かに手を上げた。

「じゃあ僕は……アウリスってのはどうだろう。風の音を連想する響きで、空を翔ける鳥人には相応しいと思うんだけど……」

彼が風魔法を得意とするだけに、その提案はどこか説得力があった。


クラリスは少し頬を赤らめ、恥ずかしそうに声を上げる。

「あの……フィリアなんてどうかしら。愛とか、絆を意味する言葉なの。きっと、この子にとって大事なものになると思うわ」


皆の視線が集まり、彼女は小さく俯いたけれど、その案も温かみを帯びていた。


「私はね」

サリアがそっと笑みを浮かべながら言った。

「カナリアっていうのはどうでしょう? 鳥人に名付ける伝統的な名前なんです。親しみやすくて、響きも可愛いと思います」


どれも魅力的な案ばかりで、ロザリンドはなかなか決めかねていた。

その空気に、僕は無意識に口を開いていた。


「……リュミア、ってのはどうかな。光を意味する言葉なんだけど……この子は間違いなく、ロザリンドの希望の光になったから」


一瞬、部屋の空気が止まった。

皆の視線が一斉に僕に集まる。

「えっ……な、なにかおかしなこと言った?」

急に注目されて、思わず動揺する。


だが、ロザリンドはしばし僕を見つめてから、ゆっくりと微笑んだ。

「いや……素晴らしい名前だ、リアン」

そう言って、腕に抱いた赤子を高く掲げる。


「お前の名は、今日からリュミアだ。よろしくな、リュミア」


赤子は楽しそうに声をあげて笑った。

その澄んだ笑い声が、広い部屋いっぱいに響き渡った。


 赤子――いや、リュミアの笑い声が収まったあとも、部屋の空気は温かな余韻に包まれていた。

みんなが自然と笑顔を浮かべ、言葉少なにその小さな命を見守っている。


そのとき。

「コン、コン」

と、控えめにドアを叩く音が響いた。


僕たちがそちらを振り向くと、ノワールが立ち上がり、落ち着いた声で言う。

「どうぞ」


扉が静かに開き、そこに現れたのは――小柄で可愛らしい兎の獣人の女性だった。

ふわふわの耳がぴんと立ち、慣れた所作で一礼する。

「失礼いたします。本日は当ホテルをご利用頂きありがとうございます。お部屋のアメニティについてご案内に参りました」


彼女の説明は驚くほど丁寧で、しかも内容は想像以上に行き届いていた。

人間用の基本的なものだけでなく、種族ごとの専門的な備品まで整えられている。


毛の長い熊や犬の獣人用の毛並みを整えるブラシに専用のトリートメント。

猫の獣人には爪研ぎ。

魔人には角を磨くための研磨具。

鳥人用には翼の羽根を整えるための粗めの櫛。

赤子用には魔導国産の素材で作られたゆりかごや、乳飲み子に適したミルクまで。


ナーガラに向けられた説明はさらに細やかだった。

「蛇人族のお客様には、鱗の隙間に残る汚れを落とすためのきめ細かなブラシをご用意しております」

ナーガラは一瞬言葉を失い、やがて小さな声で「……そこまで」と呟いていた。


極めつけは、各人の武器を手入れするための道具まで揃えられていることだ。

アイゼンが自分の槍を見やり、思わず口笛を吹く。

「至れり尽くせりだな……」


僕も頷かざるを得なかった。

ここまで細かい気配りをしてくれる宿に泊まるなんて、旅を始めてから初めてのことだ。


「それと、皆さまのご夕食についてお伺いします」

兎の獣人が小さな手帳を開き、柔らかい声で続ける。

「お召し上がりになれない食材や、アレルギーなどはございますか? また、こちらのお部屋でお食事をお出しすることも可能ですが、宿内のレストランをご利用いただくこともできます」


一瞬、皆が顔を見合わせる。

僕は窓から見える城下町の灯りを見て、ふと口を開いた。

「せっかくだから……レストランで食べよう。こんなにいい宿なんだし、料理も楽しみたいしね。みんな、食べられないものはない?」


 皆に確認したが特になさそうだったので、ありませんと従業員に答える。


「かしこまりました」

兎の従業員は小さく頷くと、最後に案内を加えた。

「それから……大浴場は夜十二の鐘までご利用いただけます。どうぞごゆっくりおくつろぎくださいませ」


深々と一礼し、静かに退室していく。


扉が閉まったあと、しばし誰も言葉を発さなかった。

ここまでの行き届いた心配りに、ただ感心するばかりだったのだ。


 僕は皆に、「食事の前にまずはお風呂に入らない?」と提案した。

 ロザリンドが同意する。

「ああ、旅の汚れも落としたいし、汚いままでは他の客にも迷惑だからな」


 そして僕たちはお風呂に入ることとなった。


 部屋を出て廊下を進むと、最上階に設えられた大浴場に辿り着いた。

男女で入口が分かれていて、その奥にはさらに混浴用の扉も見える。

広々とした空間に香る湯気は、どこか草木のように清々しい匂いを含んでいて、旅の疲れを癒すことを約束してくれるようだった。


「じゃ、俺たちはこっちだな」

ドルガが豪快に笑って男湯の暖簾をくぐる。

僕もレオやアイゼン、バルドと共に後に続いた。


――――――

 

男湯


――――――


脱衣場は広々としていて、磨かれた木の床が心地よい。

僕が服を畳んでいると、横からアイゼンの低い声が聞こえてきた。

「……なあ、レオ。混浴じゃなくて良かったのか?」


「っ……!?」

レオはシャツを脱ぎかけた手を止め、顔を真っ赤にした。

「な、なに言ってるの!?僕とクラリスは、そんな関係じゃ……!」

必死に否定する声が脱衣場に響き、僕は思わず吹き出す。ドルガは「誰もクラリスとは言ってないだろうに」と肩を揺らし、バルドが「なんだお前ら、『そう』なのか?」とからかう。


「も、もう……からかわないでよ……!」

レオは耳まで赤くしながら、タオルで顔を覆って隠してしまった。

その姿があまりに分かりやすくて、僕は更に笑ってしまった。


湯に浸かれば、大きな石造りの浴槽の湯が心地よく体を包み込み、広い窓の向こうには魔導国の夜景と星空が広がっていた。

「ふぅ……」

誰からともなく漏れたため息が重なり、男たちの浴場は穏やかな空気に満たされていった。


女湯


一方その頃――女湯のほうは湯気と笑い声に包まれていた。

アネッサが湯に浸かる前に、ちらりとクラリスを見て目を丸くする。

「……ねえ、クラリスって……意外に大きいんだね……」


「~~っ!? な、なに見てるの!?」

クラリスの顔が一瞬で真っ赤になり、慌てて胸元を腕で隠す。

「ち、違うの! 別に悪気はなくて……その……ほら、思ったより……!」

「言わなくていいわよ!」

アネッサの正直すぎる感想に、湯気以上にクラリスの頬が熱を帯び、サリアが「ふふっ」と楽しそうに笑った。


ロザリンドは赤子のリュミアを専用の小さな湯船に浮かべて、そっと支えてやりながら、柔らかな目を向けている。

「よし……温かいか?」

リュミアは湯に足をばたつかせながら声を上げ、「きゃっきゃっ」と楽しそうに笑った。


ノワールはいつも通り涼しい顔で湯に浸かっていたが、窓から見える星を仰ぎながら小さく息を吐く。

「……悪くないですね」

その淡々とした言葉に、ナーガラが尾をゆるやかに湯に漂わせながら「ええ、まったく」と応じる。


湯煙の中、女性たちの笑い声と赤子の明るい声が響き合い、こちらもまた穏やかで温かな時間が流れていった。


 湯上がりで身体が軽くなった僕らは部屋着へと着替え、それぞれの髪もすっかり乾かしてレストランへ向かった。

同じフロアの最奥にあるその場所は、宿泊客専用の食事処らしく、広々としていながらも落ち着いた雰囲気だった。天井には水晶灯が柔らかな光を投げかけ、香ばしい匂いが食欲をさらに刺激してくる。


「うわぁ……いっぱいある!」

メニュー表を開いたアネッサが目を輝かせて声を上げる。焼き魚、肉のステーキ、香辛料の効いたシチュー、魔導国伝統の麺料理まで、実に多彩だ。


「俺は肉にする。風呂上がりにがっつり肉は最高だろ」

ドルガが迷わず骨付き肉のステーキを指差し、バルドは静かに頷きながら同じものを頼む。


「僕は……魚にしようかな」

レオは少し悩んでから白身魚のソテーを選び、アイゼンはパンとスープの軽めのものを選んでいた。


女性陣もそれぞれ好きな料理を頼んでいく。クラリスとナーガラは少し控えめに鶏肉の煮込みを、アネッサは豪快に大皿のパスタを、ノワールは野菜を中心にしたプレートを。ロザリンドとサリアは赤子のリュミアの様子を見ながら、柔らかい料理をシェアできるよう注文していた。


やがて料理が運ばれてくると、湯上がりの身体に染み渡る香りと味わいに、思わず全員の表情が緩んだ。

「ん~……美味しい!」とアネッサが笑顔を見せると、自然に笑い声が広がる。


僕もフォークを口に運びながら、こうして皆で食卓を囲んでいることが、なんだか信じられないくらい幸せに思えた。ほんの数か月前まで、僕はこんな仲間に囲まれることになるなんて考えてもいなかった。


食後にはハーブティーや甘いデザートまで出され、談笑は尽きることがなかった。やがて、それぞれがゆっくりと席を立ち、部屋へと戻ることにした。


部屋に戻ると、窓の外には魔導国の夜景が広がっていた。大小さまざまな水晶灯が星のように瞬き、遠くの塔の上では光の柱が夜空を照らしている。


「さて……」

皆が腰を落ち着けると、ロザリンドが改めて姿勢を正す。

「明日以降、どう動くかを考えねばならんな」


その一言に、談笑の空気は少しだけ引き締まる。けれども、先ほどまでの温かさはそのままで――まるで焚き火を囲むように、僕らは言葉を交わし合った。

食後の余韻がまだ残る部屋の中で、僕たちは円になって腰を下ろしていた。外の窓には魔導国の夜景が映り込み、光が床に柔らかく揺れている。


「明日は……魔王陛下に報告をしなければなりません」

ノワールが口を開いた。背筋を伸ばし、真剣な眼差しで僕たちを見渡す。

「特に公国、そして王国への書簡をお渡しした反応については重要です。それに、公国からは書状も託されています。これを正しくお伝えする必要があります」


僕は頷いた。

「じゃあ、僕も一緒に行くよ。魔王陛下に報告するのはノワールだけど、僕が隣にいれば、ちゃんと旅の仲間が見聞きしたこととして保証できるはずだ」


「うむ、それがよかろう」

ロザリンドが静かに言葉を継いだ。だがすぐに真剣な顔つきで言う。

「だが、どうせなら全員で行こうではないか。特に我ら――私、サリア、ドルガ、バルド、ナーガラ、そしてリュミアは魔導国へ亡命してきた身だ。陛下には必ず挨拶せねばなるまい」


「そうだな」ドルガが腕を組みながら低い声で応じる。「逃げてきただけじゃなく、ここで新しい居場所を得たいからな。筋は通さねぇと」

ナーガラも真剣に頷き、サリアは静かに赤子を抱き直した。リュミアは気づかずに眠っていて、その寝息が妙に心を落ち着かせてくれる。


一方で――クラリス、レオ、アネッサの三人の表情は曇っていた。

「……正直、魔王様と顔を合わせるのは怖いんだけど……」アネッサが小さく呟き、頬をかく。

レオも目を逸らして息を吐く。「僕も……けど……旅の報告は必要だね。だったら、行くしかないよ」

クラリスは小さな声で、「私も、皆と一緒に……」と続けた。彼女の拳が膝の上でぎゅっと握られているのを、僕は横目で見た。


「ふむ」アイゼンが低く言う。「公国からここに至るまでの旅は、俺も共にしてきた。ならば、俺も同席するべきだろうな」


ノワールは一同の意見を聞き終えてから、ゆっくりと頷いた。

「謁見は、私の報告に続いて行います。皆さんもどうぞ、一緒に」


決定は静かに、けれど揺るぎなく固まった。

明日――朝から魔王との謁見。僕の胸は早くも重たく鼓動を打っていた。


その後は早めに床へつくことになった。灯りが落とされ、静けさが部屋を包む。

けれど瞼を閉じても、魔王の姿が頭に浮かんで、なかなか眠れなかった。緊張と、期待と、不安と……いくつもの感情が絡み合って、胸の奥をざわつかせる。


――それでも。

横で眠る仲間たちの安らかな寝息を聞いているうちに、少しずつ心は落ち着き、やがて僕も夢へと沈んでいった。

読んでくださってありがとうございます。

日常回みたいなのを入れてみたくて、少しでも温かい空気感が出せたでしょうか。

王国編はもう少しだけ続きます。

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