第二話 魔導国、その真実
今回まで長め。次からは短く区切っていこうと思います。
魔導国の城門の前に立つ。石造りの巨大な門には魔法の光が縁取られ、淡く青白い符文が刻まれている。門前には様々な種族が列を作り、魔人の役人が手際よく手続きを進めていた。竜人が翼を畳んで列に並び、鳥人が軽やかに空を舞い、魚人や精霊が互いに調整を取りながら動く。
クラリスは肩越しにその光景を覗き込む。眉をわずかに寄せ、唇を引き結ぶ。その目には嫌悪が浮かぶ。王国で教え込まれた「人間以外は人間の紛い物に過ぎず、扱いは物や家畜と同等」という価値観が、自然に反応しているのだ。嫌悪感を抑えようとするが、微かに表情に出てしまう。
「……醜悪な……」
クラリスは小さく息を吐き、すぐに目線を前に戻す。言葉は控えめだが、内心の苛立ちは隠せていない。
一方、レオは肩を少し丸め、緊張した面持ちで周囲を見渡す。魔人の役人が符文で書類を確認し、魔法で瞬時に情報を処理する手際に目を奪われつつも、今日は表情を抑えている。
僕は深呼吸をして、クラリスの微妙な嫌悪感を意識しながらも、三人で歩みを進める。手続きを終えて門をくぐると、空気が一層冷たく、整然とした理知的な秩序が漂う。魔導国はただ異種族が共存しているのではなく、魔法による役割分担で秩序を築き、種族間の優劣や差別意識が見えにくく整えられていた。
クラリスは唇を噛み、わずかに背を丸める。嫌悪感を押さえ込もうと必死だが、無意識のうちに目線は亜人種を睨んでいる。僕には、その目に王国思想の影響が色濃く残っているのがわかった。
少し進んで街並みが見えた瞬間、レオの目がぱっと輝く。石畳の上に浮かぶ魔法陣、壁に刻まれた符文、空を飛ぶ小型魔導具――どれもが彼の心を躍らせ、子供のように目を輝かせていた。
「すごい……!」
小さな声でレオが呟き、思わず手を伸ばす。彼の目には興奮と好奇心が混ざり、まるで魔法そのものに吸い寄せられるようだ。
一方でクラリスは、眉をきゅっと寄せ、唇を引き結んだまま黙り込む。目に浮かぶのは微かな嫌悪感と警戒心。王国で教え込まれた「人間以外の種族はわれわれ人間の紛い物に過ぎない」という思想が無意識に反応し、喜びで弾むレオの様子と対照的に、彼女の視線は冷たく硬い。
僕は少し離れて、二人の表情を見守る。レオが興奮気味に周囲の魔法技術を指さし、クラリスが眉を寄せつつも視線を逸らし、微かに首を振る。そのギャップは大きく、同じ場所にいてもまるで別の国にいるようだった。
道行く人々も、魔人を中心に整然と動き、種族ごとの役割に従っている。レオは符文や魔導具に目を輝かせ、歩きながら何度も小さく息を吐く。クラリスは無言で目を細め、周囲の秩序を冷静に見つめている。
僕は、二人の間にある対照的な反応を感じながら、静かに笑みを漏らす。今日から始まる魔導国での旅路は、この二人の性格や価値観の差も交えながら進むのだと、改めて思い知らされる。
魔導国の街並みは、浮遊する荷車や空中に揺れる水晶灯、通りを行き交う様々な種族の人々で賑わっていた。魔法の力で整備され、生活の隅々まで行き渡っている。
レオは小さな魔導具を手に取り、目を輝かせながら操作してみる。
「……すごい……公国にいたらこんなの見られなかった…!風の制御も完璧だし、安定してる……」
少年らしい熱意と、控えめで落ち着いた声が混じる。興奮はしているが、抑制された礼儀正しさも感じられる。
クラリスは横で視線をそらさず、眉をひそめてため息をついた。
「……ふぅん……。こんな下賤な連中が、よくもまあ、これだけのことを……」
魔導国そのものへの軽蔑と嫌悪感が滲む。「奴隷が作った下賤な国」と思っているようだ。
だが、その視線をレオに向けると、わずかに表情が和らぐ。
「……でも、あの子のあんな表情が見られるのは、悪くないわね」
声には微かな温かみが混じる。旅路で彼に助けられた恩と、少しずつ芽生えた信頼がにじんでいた。
僕は二人の様子を静かに観察する。
(……クラリスは魔導国そのものには嫌悪感を抱いているけど、レオには好意と信頼がある。レオがいればクラリスの気持ちも少しは抑えられるかもしれないな。なんとか調査は続行できそうだ)
通りを進むと、魔法で浮かぶ看板や自動で荷物を運ぶ浮遊台車、魔導具を扱う職人たちの姿が目に入る。レオは夢中になりながら幾つかの魔導具に触れ、操作方法を確認するように掌を動かす。
通りを歩きながら、僕は自然と眉をひそめた。
王から聞かされていた魔導国の話――「魔人が統治し、禁忌の魔法で発展した得体の知れない野蛮な国」――と、目の前の光景はまるで違った。
街の大半は異種族で占められている。羽を広げて空を舞う鳥人、筋骨逞しい獣人、顔に角を持つ魔人、透き通る肌の精霊……彼らは魔法を自在に操り、商店や工房で生き生きと働いている。人間もいるが、圧倒的に少数だ。それでも異種族と協力し合い、生き生きと働いている。
浮遊する荷車、空中に揺れる水晶灯、運河を滑る魔導具。街全体が魔法で整えられ、秩序と活気が両立していた。
レオは大きく重い魔導具に手を伸ばし、控えめに操作してみる。風の魔法で軽く浮かせると、目を輝かせて微笑んだ。
「……すごい……少しの風魔法なのに、こんな簡単に浮くなんて……どういう構造なんだろう……効果を増幅させる術式が…?」
少年らしい熱意で興奮したように魔道具を見つめている。
クラリスは眉をひそめ、通りを行き交う異種族を冷ややかな目で見ていた。
「……まったく……あんな連中が街を闊歩するなんて……」
彼女は変わらず軽蔑と嫌悪感を隠しきれていない。
僕は二人の様子を眺めながら、胸の奥で戸惑いが膨らむのを感じた。王が伝えた魔導国のイメージと、実際の光景には大きな隔たりがある。異種族の姿が圧倒的に多くても、街は混乱しておらず、人々は平穏に、時には活気に満ちて生活している。
肩の力を抜いて歩く僕の視界には、日常に魔法が浸透した街の様子と、控えめに魔法を楽しむレオ、そして異種族を冷ややかに観察するクラリスの姿が映った。
僕達は通り沿いの小さな広場に腰を下ろし、昼食を取ることにした。街角の屋台で買った軽食を広げる。レオは熱心に手元の魔導具を観察している。
軽食を口に運びながら、街の様子に目を向ける。浮遊する荷車が小さな品物を運び、鳥人が屋根の上を飛び回る。獣人は筋骨を活かして重い荷物を軽々と運び、魔人や精霊たちは店先で魔法を使った精緻な作業に没頭していた。人間の姿は少なく、異種族が社会の大半を占めていることがはっきりとわかる。
クラリスは眉をひそめ、侮蔑の表情を浮かべる。
「……ほんと、あの下賤な連中が……。王国ならこんな連中、絶対に許さないのに」
彼女の軽蔑と嫌悪は根強いようだ。だが、僕の横で、サッと視線を外すあたりにも、彼女なりの気遣いと抑制が感じられた。
一方のレオは、手元の魔導具に小さな風の魔法をかけ、わずかに宙に浮かべる。その度に少年らしい控えめな微笑みを浮かべ、目を輝かせる。
(……王が言っていた“得体の知れない野蛮な国”とは、全く違う……)
昼食を取りながらも、僕は街の秩序や異種族の生活を目で追った。生活に魔法が自然に溶け込み、街全体が効率的かつ整然と機能している。これが、禁忌の魔法で発展した国の実態なのか。言葉にはしづらいが、目の前の光景が、僕の頭の中にある恐怖や不安を少しずつ溶かしていくようだった。
クラリスはまだ眉をひそめたまま異種族の動きを観察しているが、レオが魔導具に夢中になっている間、僕の視線にふと目を合わせ、わずかに小さな溜息をついた。きっと彼女も、異種族の活気や魔法の技術を認めたくない自分と、その魔法技術に喜ぶレオに対する素直な感情との間で揺れているのだろう。
僕はその様子をそっと眺めつつ、残りの昼食を口に運んだ。街は見れば見るほど興味深く、調査としても目を離せない光景で満ちていた。
夕暮れが街をオレンジ色に染め始めるころ、僕たちは通りを歩きながら、今夜の宿を探していた。
「そろそろ、一泊して休んだほうがいいね」
僕がそう言うと、クラリスは小さく眉をひそめながらも頷いた。
「……仕方ないわね。疲れもあるし、ここで休むしかないかしら」
言葉には少し嫌そうな響きがあったけれど、ため息交じりに我慢している様子が伝わってくる。
レオも、いつもの控えめな微笑みを浮かべながら小さく頷いた。ここで一息つけることを喜んでいるのだろう。
街の中心を歩き、宿に荷物を置くと、僕たちは夕飯前に少しだけ街の様子を見て回ることにした。
昼間の活気とは違い、夜の街は柔らかい灯に包まれ、人々や異種族たちの姿も穏やかに映る。浮遊する荷車や空中に漂う小さな灯り、夜の魔法によって彩られた街の景色が、旅の疲れを少し癒してくれる気がした。
通り沿いの小さな広場に出ると、暖かい光が漏れる酒場の看板が目に入る。自然と足がそちらに向いていた。
「じゃあ、夕飯はここで済ませようか」
僕が提案すると、クラリスは少し顔をしかめたものの、すぐに小さくため息をついて同意した。
「……仕方ないわね。こんな国ではどこに行っても同じだもの」
こうして、クラリスの微妙な嫌悪を感じながらも、僕たちは夜の街の灯りに誘われるように酒場の中へと入っていった。
酒場の扉を押して中に入ると、暖かい灯りと人々のざわめきが僕たちを包んだ。旅の疲れを忘れさせるような、居心地のいい空気だ。
僕たちは空いているテーブルに腰を下ろし、簡単な食事を注文した。クラリスは相変わらず顔をしかめながらも、僕とレオの様子を観察しつつ席につく。
すると、入り口近くで軽やかな足音が響いた。浅黒い肌の小柄な少女がにこやかにこちらを見つめている。しなやかな身のこなしで、まるで黒猫が跳ねるようだ。
「やっほー!あなたたち、新しい顔ね!」
その明るい声に、思わず僕は振り向いた。
クラリスは眉をひそめ、少しだけ体を引き気味にする。嫌そうな表情を隠そうとしているのがわかる。でも完全には隠せていなくて、無意識に僕の方をチラリと見る仕草があった。
少女はためらうことなく僕たちのテーブルに歩み寄った。
「あたしはアネッサ。黒猫族よ。あなたたち、街の外から来たの?」
目の前に来たのは黒い髪に猫耳を生やした浅黒い肌の少女だ。鋭い爪と柔らかそうな肉球のついた手袋をはめ、快活そうな笑顔が印象的だ。黒いトップスと茶色の服をまとい、首には小さなペンダントが揺れている。黄金の瞳に遊び心と好奇心があふれていて、正直な性格そのままがにじみ出ている。
レオは控えめに小さく手を挙げ、目を合わせて微笑むだけだ。いつも通りの彼らしい控えめな反応だが、その表情からは興味と少しの緊張が読み取れる。
アネッサは僕たちの反応を楽しむようににこっと笑った。
「ふふ、面白そうな人たちだね。いっぱい知りたいな!」
その言葉に僕も自然と笑みがこぼれる。
クラリスはしばらく眉をひそめたまま無言で僕たちを見ていたが、やがて小さく息を吐き、仕方なさそうに視線をそらす。
アネッサはテーブルにつくと、すぐに身を乗り出してきた。
「ねえねえ、君たちってどこから来たの?どんな魔法を使うの?」
僕が簡単に自己紹介すると、クラリスは小さく鼻を鳴らし、眉をひそめる。目には明らかな嫌悪感が浮かんでいたが、声を荒げることはせず、場を乱さないように我慢している様子だ。
レオは僕の隣で体を少し丸め、控えめに答える。声は小さいけれど、目だけはアネッサの問いに真剣で、興味津々に輝いている。
「僕……風の魔法が得意で、あとは……いろいろ試すのが好きです」
アネッサの瞳がパッと明るくなる。
「わぁ、風か!すごい!あたし、風の動きって大好きなんだ。どんなことができるの?」
レオは少し恥ずかしそうに笑い、手で軽くジェスチャーを交えて魔法の説明を始める。僕はその様子を微笑ましく見守る。
一方クラリスは、相変わらず表情を引き結んでアネッサを見ていた。その視線は明確に侮蔑と嫌悪を帯び、しかし声を出さずに我慢している。アネッサもその空気を感じ取り、微かに笑みを引き締めながら、それでも無邪気にレオに話しかけ続けていた。
僕は二人の間の微妙な空気を見つめ、いつ爆発するかハラハラしていた。
酒場の明かりが薄暗く揺れる中、僕たちはそろそろ宿へ戻ることにした。
「さて、今日はここまでかな」僕が声をかけると、アネッサは少し残念そうに肩をすくめた。
「ふーん、もう帰っちゃうんだ。あたし、君たちともっと話したかったな」
にこやかに笑うアネッサに、クラリスは小さく眉をひそめ、目を細める。嫌悪を滲ませつつも、場を乱さないように黙って従う。
「じゃあ、ここでお別れだね。またね」
僕が手を振ると、アネッサは軽く会釈をし、大きな声で挨拶する。
「またのお越しをー!」
ずっと僕達のテーブルにいた気がするけど、店員だったらしい。怒られないんだろうかと、変な心配をしてしまった。
街の路地を抜け、宿へと向かう道すがら、レオは先ほどのアネッサとの会話を思い返すように口をつぐんでいた。僕はその背中を見守りながら、静かな夜の街の空気を吸い込む。クラリスもまた無言で歩き続ける。
宿に着くと、レオとクラリスはそれぞれ自分の部屋に分かれ、僕は自分の寝床で一日の疲れをゆっくりと癒した。外では街の夜が静かに更けていく。
翌朝、朝の光が街を包む頃、僕たちは宿を出た。
「今日は軍事関係の視察をしましょう。きっと王国の役に立つはずよ」クラリスが言葉を発すると、僕たちは自然と足を進める。
街を抜ける途中、レオは控えめに地面や建物を観察し、目を輝かせながらも静かに魔導国の軍事拠点へと向かう。クラリスは相変わらず無言で、視察に必要な情報だけを見極める冷静さを見せていた。
街を抜け、城壁沿いに進むと、訓練場や魔法装置の並ぶ区域が見えてくる。僕たちはそこで、王国に役立つ情報を収集するため、目を凝らすのだった。
城壁を抜けると、広大な訓練場が目に入った。地面は整然と整備され、獣人を主とした兵士たちが規律正しく歩き、魔法装置や飛行魔道具が所狭しと並ぶ。空には鳥人が飛び交い、地上にはそれに檄をとばす指揮官らしき存在がいる。
「……やっぱり、ちゃんとしてるな……」僕は思わず息を漏らす。王からは“野蛮な国”と聞かされていたのに、目の前の光景はまるで秩序立った国家そのものだった。
レオは僕の隣で静かに目を輝かせていた。特別な言葉は発さず、指先で小さな風の魔法を軽く試しながら、兵器や訓練の動きを注意深く観察している。その落ち着いた様子からは、まだ幼さが残る十五歳の少年だとわかるが、魔法への純粋な興味が伝わってくる。
クラリスは相変わらず表情を硬くして、兵士や異種族の働きぶりを冷ややかに見ている。目には明確な嫌悪と侮蔑が浮かんでいる。しかし声には出さず、任務の一環として観察に徹している。
僕は目の前の光景を頭の中で整理する。鳥人は輸送や偵察に活用され、竜人は防衛と攻撃の両方で運用されている。訓練は種族ごとに特性を活かすように組まれ、鳥人および竜人は空中戦術を、獣人は接近戦を、人魚は水路の防衛を担っている。まさに「魔法による役割分担」の理念が現実化していた。
レオは静かに僕の方を見て、かすかに微笑む。その表情には、目の前の兵器や魔法の運用に胸を躍らせつつも、あくまで控えめな好奇心が感じられる。僕はその仕草に微笑ましさを覚えつつ、王国に報告すべき点をメモしていく。
クラリスは無言のまま僕の横に立ち、視線だけで周囲を追う。その冷たい眼差しは、異種族や下賤な存在の活躍を認めないという、彼女なりの価値観を物語っていた。僕はその横顔を見ながら、王国の情報と実情の乖離を思って少し複雑な気持ちになる。
しばらく歩き、訓練場の奥にある魔法の演習区に差し掛かると、兵士たちが実際に魔法を運用して模擬戦闘を行っていた。火力と精度の高さに僕は息を呑む。レオは目を輝かせず静かに観察しているが、その目の奥には憧れの光が潜んでいる。クラリスは眉をひそめ、心の中で軽蔑の声をあげながらも、メモを取る手は止めない。
僕は深く息をつき、王国に報告できる情報を整理する。「魔法による訓練体系」「種族ごとの特性活用」……これらは確実に価値がある。
視察を終える頃、僕たちは少し疲れを感じつつも、貴重な情報を手に入れた充実感に包まれていた。レオは無言のまま、けれど目にはわずかに興奮の光を宿している。クラリスは冷徹さを保ちながらも、視察で得た情報を自分の頭に整理している様子だった。
魔導国の都は、夜が近づいてもなお明るかった。水晶灯が煌々と輝き、魔導国の夜を照らしている。
街を行き交う人々の多くが魔道具を携え、兵士たちは魔導国産の鎧を誇らしげに身につけている。僕たちは一日をかけて情報を集め終え、宿へと戻ろうとしていた。
「今日はここまでにしましょう」
クラリスの言葉に、僕はうなずいた。
「うん。もう十分だ」
そのすぐ後ろで、レオが遠慮がちに声を出す。
「そ、そうだね……あんまり遅く歩き回るのは、危ないかもしれないし……」
僕自身も胸の奥に収穫の手応えを感じていた。――だが、それは唐突に打ち砕かれる。
足元の影が、不自然に揺らいだのだ。
夕闇に伸びる僕たちの影が、まるで液体のように滲み、蠢き始める。背筋に冷たいものが走り、思わず剣の柄に手をかけた。
「下がって!」
叫ぶと同時に僕は一歩前へ出て、クラリスとレオを背に庇う。
「……ようやく見つけたわ」
低く、しかし妙に耳に残る響きが闇を裂いた。
そこに立っていたのは、白い少女。
雪のように白い髪と肌、血を思わせる紅の瞳。白のゴシックドレスをまとい、日傘を差して優雅に立つその姿は、人の形をしていながら人ならぬものを思わせた。
ただ歩み寄るだけで、路地の影がざわざわと波打ち、石畳を覆い尽くしていく。喉がひとりでに鳴った。
その存在は、空気そのものを歪ませるかのようで、目を逸らすことすら許されない。
「そなたら、なにかコソコソと嗅ぎ回っておるな?なにが狙いじゃ? 妾の問いに答えるがよい」
紅い瞳が僕たちを順に射抜いた。視線を浴びるだけで全身を縛られるような重圧に、思わず歯を食いしばる。
「答えによっては、この国から生かして帰すわけにはいかぬからのう……」
「……っ!」
僕は剣を抜き放ち、一歩踏み出す。背後ではクラリスの祈りの声が響き始め、レオの小さな詠唱が震えるように重なる。
だが、その白き存在の放つ圧力は、僕たちの陣形を脆く感じさせるほどに圧倒的だった。
少女の紅い瞳が僕を射抜く。
その瞬間、喉の奥が勝手に震え、言葉が漏れる。
「……まさか……魔王……?」
少女の唇が冷たく歪む。
「ふふ……」
嘲笑とともに、日傘の影が地を這うように広がった。
「魔王様、とな? そなた程度でも、力の差は理解できるようじゃな。されど妾など、あのお方の力の前では塵芥に等しい……。魔王様の威は天地を覆い、万の軍勢すら一息に灰へ帰すのじゃ。妾ごときが比肩できるものか」
冷笑を消さぬまま、少女はひと呼吸置いて口を開いた。
「妾の名は――レア」
その名だけが、空気を震わせて落ちる。
耳の奥に残響がこびりつき、全身が粟立つ。
そして、静かに、しかし誇り高く続けた。
「魔王様の忠実なるしもべ、七曜魔が一人。月の守護者、新月のレアじゃ」
紅の瞳が細められる。
名乗りと同時に、空気が押し潰されるように重くなる。肺を締めつけられ、息すら苦しい。
耳慣れぬ言葉――七曜魔。しかし、それがただの称号でないことは、圧し掛かる威圧感が雄弁に物語っていた。
「……七曜魔……?」
僕は無意識に呟いた。だが、答えを求める前に、異様な気配がさらに強くなる。
レオの顔から血の気が引き、膝が震えた。
「ひ……っ……!」
喉を掴まれたように声が途切れ、荒い呼吸を繰り返す。魔力に敏感な彼だけが、レアの放つ魔法の気配の全てを真正面から浴びているのだ。
その瞳は恐怖に見開かれ、握った杖も今にも取り落としそうに震えていた。
「レオ……!」
駆け寄りたい衝動に駆られたが、体が石に変わったかのように動かない。
クラリスも青ざめた顔で唇を噛み、レオを案じながらも一歩も踏み出せなかった。
――助けなければと思うのに、誰も動けない。
そんな僕達を、レアは冷ややかな笑みで見下ろす。
「ふん……怯えておるのか。無理もない。そなたらなど妾から見たら虫ケラも同然じゃからな」
「お、お前……ただの亜人じゃないな……!」
せめてレアの意識をこちらへ向けさせ、レオの負担を和らげようとなんとか声を絞り出す。
レアの瞳が、夜の闇よりも濃く光る。
「ほう、知らぬのも無理はない。伝承では我らは既に滅んでいるはずじゃからの』
唇が薄く歪み、牙が月光に照らされる。
レオが息を呑む。
「ま、まさか……その牙……き、君は……!」
彼の喉からかすれた声が漏れる。
「……吸血鬼……」
その一言が空気を凍りつかせた。
吸血鬼――すでに滅んだと伝わる伝説の種族。
レアはあえてゆっくりと、愉悦を滲ませる。
「そう。人の世からはとっくに失われたと信じられておる、夜の王の末裔――それが、妾じゃ」
レアが一歩だけ前に出る。それだけで更に威圧感が増し、汗がどっと噴き出て心臓が早鐘を打つ。
「して、そなたら。我らが魔導国に何用じゃ。なにをコソコソと嗅ぎ回っておる」
僕の目の端で、クラリスが苦しげに唇を噛んでいた。
全身を押し潰すような威圧感に耐えきれず、言葉が勝手にこぼれ落ちる。
「……わ、私たちは……王国のために……魔導国の情報を……集めに……」
その告白は、意志の力で選んだというより、抑え切れなかった本音の吐露だった。
クラリス自身も気づいた時には口にしていて、悔しげに顔を歪める。
ふ、と目の前の吸血鬼が笑った。冷笑。それでいてどこか慈しむようでもあり、背筋がぞくりとする。
「なるほどのう。王国のために、命を削ってここまで足を運んだわけか。健気ではあるが……代償は大きいぞ」
その声音には残酷な愉悦がにじんでいた。
レアは、わざとらしく顎に手を当て、続ける。
「せっかくだ。そんなに情報が欲しいのであれば教えてやろうではないか。魔王様の忠実なるしもべ……七曜魔のことをな」
僕の鼓動が跳ねた。
七曜魔――その名は、聞いた瞬間にただならぬ響きを持って心に突き刺さった。
「七曜魔は、魔王様が直々に世界を巡って見出した七人の使い手じゃ。誰もが一騎当千。妾もその一角にすぎぬ。魔王様の御力の前では塵芥に等しいがな」
レオが呻くように息を呑み、震えながら言葉にならない声を漏らした。
その肩は小刻みに揺れ、足元が崩れ落ちそうに見える。
「な……七人も……いる……?」
やっとの思いで僕は声を出した。
口の中が乾いている。喉が焼け付くようだ。
七人。
今、目の前の存在ひとりだけでも全身を縛り付けられているというのに、それと同等の怪物があと六人。
視界が暗転しそうなほどの絶望感が押し寄せた。
心の奥で「抗う術はあるのか」と問いかける声が、冷たい水のように広がっていった。
レアの瞳が紅く妖しく揺らめいた瞬間、空気が変わった。地面に落ちた影が揺らめき、炎のように立ち昇ったかと思うと――いつの間にか、それは生き物のように蠢き始めていた。
「――っ!」
息が詰まる。体が動かない。まるで足首を鎖で繋がれたように、影が僕を捕らえていた。
隣でクラリスが震える声を漏らす。
「いや……いやよ……! 動けない……っ!」
僕は必死に剣を握り直そうとするが、影が絡みつき、指の一本に至るまで完全に封じていた。
力を込めても、剣はかすかに揺れるだけ。
レオも同じだった。必死に腕を動かそうとするが、肩から伸びた黒い影が蛇のように巻き付いていて、微動だにできない。
その顔には恐怖がありありと浮かんでいる。
ただ、レアだけが悠然と立ち尽くしていた。
彼女は一歩も動かず、微笑みを浮かべている。まるで、捕らえた獲物がどんな声を上げるかを愉しむかのように。
「これで、分かったであろう」
囁く声は、耳元に直接落ちてくるかのように冷たい。
「我ら魔導国に抗うなど――無謀にも程がある」
心臓が、重い音を立てて胸を打つ。
全身を締め付ける影の冷たさと、逃げ場のない絶望感。
「っ……!」
僕の喉からは言葉にならない呻きがこぼれるのみだった。
剣を抜くことすら叶わず、ただ影に縛られて立ち尽くすしかない。
――戦いですらなかった。
影が僕たちの全身を絡め取り、体がまるで鉛のように重くなった。
動けない。呼吸さえ、思うようにできない。
剣を握る手が痺れて震える。クラリスは唇を噛み、肩を小刻みに揺らしている。
レオは体を硬直させ、ただ目を見開いているだけだ。
その時、僕が握る聖剣が急に淡い光を放ちだす。僕は視線だけで聖剣を見る。何が起きているか、僕にもわからない。レアは怪訝そうに目を細め、注意深く観察している。
「……何が起きるかわからん。早めにトドメをさすとしようかの」
声は鋭く、そして冷ややかに響く。紅い瞳が、月光の下で僕たちを貫いた。
そのとき、後ろから駆け込む気配――
「や、やめてくださいっ! お願いです!」
アネッサだった。酒場で一緒に飲んだ、あの黒猫族の少女。
膝をつき、額を地面に押しつけて、必死に頭を下げる。
「どうか……見逃してください! この人たち、悪い人ではないんです!」
レアは動かず、ただ僕たちを見下ろす。
その視線に、体が自然と縮こまる。圧倒的なその威圧感に、身じろぎすらできない。
「ふん、獣人か。弱き者が妾の前に立つとは……面白いのう」
言葉は短いのに、ぞくりと背筋に冷たさが走った。
「だが、そなた…魔導国の国民であろう。何ゆえそやつらを庇う。そやつらは我らが魔導国を脅かさんと、情報を集めに来ているのだぞ」
アネッサは土下座を崩さず、震える声で答える。
「だって……友達だからです! レア様……どうか、彼らをお許しください……! お願いします……!」
レアは唇の端をわずかに吊り上げ、冷笑めいた微笑を浮かべた。
「なるほど……友を思う心か。そなたの覚悟、少しは評価してやろう」
僕たちは動けない。聖剣の光はいつの間にか消えているが、影はなお絡みつき、全身を重く締め付ける。
しかし、アネッサの必死の土下座と、へりくだった言葉が、わずかにレアの態度を変えているのが分かった。
「されど、敵には容赦せぬ。そこをどけ。妾とて魔導国の民は傷つけとうない」
アネッサは土下座を続けながら、なおも必死に僕たちの命を願う。
その姿を見て、僕は戦慄とともに、少しだけ胸が熱くなるのを感じた。
――命の行方は、すべてあの紅い瞳と、アネッサの必死の願いに委ねられているのだ。
「……仕方ないのう……」
レアの低い声が背筋を凍らせる。
「魔導国の民を傷つけるのは本意ではないが……敵を庇うというのなら、そなたも敵じゃ。そなたら全員――ここで死ね」
アネッサは土下座のまま必死に頭を地面に押しつけ、声を震わせる。
「レア様……お願いです……! どうか……どうか……!」
影に絡め取られ、逃げ場も呼吸もままならない。
そのとき、頭上から新たな気配が降り注いだ。
燃える赤髪と炎の翼、黄色い瞳――見るだけで空気まで熱くなる、圧倒的な存在感。
「やめなさい……レア……」
その声は透き通るように美しく、凛と響く。
アネッサが頭を上げ、声のほうを見て目を見開き、わずかに声を震わせる。
「……ルミネア様……」
アネッサはその名を知っているようだった。魔導国の関係者であることは間違いない。それに、この圧倒的な威圧感、只者ではないことは容易に感じ取れた。
僕の目の前には、ルミネアと呼ばれたハーピー。まるで不死鳥のように力強く燃え上がるその肢体から感じる力の格差は、言葉では表せないほど圧倒的だった。
影に絡め取られた僕たちは、まるで小さな虫のように、二人の巨大な力の前で立ちすくむしかなかった。
レアの紅い瞳が、上空から降り立ったルミネアに向く。
「……何用じゃ、ルミネア。なぜ止める」
レアの声には、わずかな苛立ちが混ざっている。
ルミネアは炎の翼をゆっくり広げたまま、冷静に告げる。
「陛下から……会うから連れてこいと……だから止める……それだけ……」
アネッサは土下座のまま震え、小声でその名をつぶやく。
「……七曜魔……烈日の、ルミネア……様……」
僕たちはその場で立ちすくみ、息を詰めるしかなかった。
二人の七曜魔――新月と烈日――が同じ空間に存在することの重みが、全身を締め付ける。
――圧倒的すぎる力の前で、何もできない。生きているだけで精一杯だ。
レアは短く吐息を漏らし、影を絡めたまま立ち止まる。
「……仕方ないのう……」
動かぬ二人の七曜魔。影に絡め取られたまま、僕たちは絶望と戦慄の中で立ちすくんでいた。
「……恐れないで……陛下の言葉で……お前たちの命は……保証されている……」
ルミネアの声は冷静であまり抑揚がないが、どこか安心を与える力を持っていた。
僕たちは小さく肩の力を抜きつつも、まだ全身に戦慄が残る。
この二人――七曜魔の力を前に、命の重みと絶望の差を肌で感じていた。
ルミネアは視線を僕たちに移し、淡々と告げた。
「陛下は、すでにお前たちを知っている……会いたいと望まれている……」
その言葉に、アネッサの肩が小さく震えた。
僕は思わず息を呑む。魔王――あの存在が、僕たちに関心を持っている。
ルミネアは続ける。
「拒むことはできない……黙ってついてこい……」
レアは不満げに舌打ちをしつつも、影を完全に解き放った。
「……しょうがあるまい。魔王様のお言葉であれば、従うとしよう」
その瞬間、重く張り詰めていた空気がわずかに揺らぎ、僕たちは自由を取り戻した。
けれども足はまだ震えて、まともに立ち上がることすら難しい。
ルミネアはゆっくりと翼を広げ、背を向けた。
「来い……魔王城は遠くない……」
その声音には強制と同時に、逃げ道を許さない威圧感があった。
アネッサが僕の袖をそっと引き、かすれた声で囁く。
「……まだ安心しちゃだめ。魔王様は慈悲深い方だけど、同時に厳しい方でもあるから」
僕は小さくうなずき、恐怖を胸に押し込んで歩みを進める。
新月と烈日――二人の七曜魔に導かれ、僕たちは魔王の待つ城へと連れられていった。
城が見えた瞬間、言葉を失った。
山肌に食い込むように建てられた黒き巨城。幾重にも重なる尖塔は夜空を突き破るかのように高く、壁面を走る魔法陣の光が脈動していた。まるで城そのものが生きているかのように、低く唸る音が大地を震わせている。
ただの建築物じゃない。ここは魔王の居城――魔導国の象徴にして、侵入者を拒む絶対の牙城。
その前に立っただけで、膝がわずかに震えた。
レアもルミネアも、当然のように前を歩く。彼女たちの気配に圧されて、城門を守る兵士たちでさえ一言もなく、ただ頭を垂れるだけだった。
……七曜魔が二人も並び立っているのだ。抵抗など、あり得るはずもない。
僕もクラリスもレオも声を出せなかった。アネッサですら背筋を固く伸ばしたまま、ただ沈黙している。空気が張り詰めて、呼吸をするのも憚られるほどだった。
やがて城門が軋む音を立てて開かれる。暗がりの奥から吹き出す冷気に、思わず肩が震えた。
「来い」
短く放たれたレアの声に逆らえる者などいない。僕たちはただ従うしかなかった。
石畳の廊下は延々と続き、壁には魔力を帯びた炎が揺らめいている。影がゆらゆらと形を変え、背後から睨まれているような錯覚すら覚えた。
足音がやけに大きく響く。誰も口を開かず、ただ歩き続ける。
先導する二人の背中を追いながら、石造りの廊下を歩いていく。
レアの靴音は規則正しく、ためらいがない。ルミネアは一歩後ろを漂うように進み、その沈黙がかえって胸を締め付けた。
「……ここから先は、言葉を慎め」
レアが振り返らずに言う。その声音は冷たく、拒絶も容赦も含まない。
「陛下の前に立つ……失礼は許されない……」
ルミネアが柔らかく続けたが、不思議と優しさよりも重さの方が強く感じられた。
僕もクラリスも、そしてレオも、返事すら躊躇った。ただこくりと頷くだけで精一杯だ。隣を歩くアネッサの耳は伏せられ、尻尾も小さく巻き込まれている。彼女ですら、いつもの陽気さを完全に失っていた。
重々しい扉の前に立つと、兵士たちが黙ってその取っ手を押し開いた。
ギィィ……という低い音とともに、光と空気が流れ込んでくる。
――謁見の間。
踏み込んだ瞬間、息が詰まった。
広間は天井まで届くほどの高い空間だったが、その広さを意識する余裕すらなくなる。奥の玉座に腰掛けている“ひとり”が、すべてを支配していた。
目の前に座るのは、威厳に満ちた赤髪の女性だ。頭には大きく曲がった角がそびえ、黒い豪華なドレスが赤い髪をいっそう引き立てる。肩に羽織った暗いマントと、腕に刻まれた紋様がその神秘的な雰囲気を強調し、赤い瞳が鋭くこちらを見据えている。豪華な玉座に座る姿は、まさしく絶対的な支配者そのもの。
長い赤髪が炎のように広がり、ただ座っているだけなのに圧倒的な威圧が押し寄せる。眼差しは僕たちを正確に射抜き、視線が合った瞬間、心臓が掴まれるようだった。
人間とか亜人とか、そんな枠組みの話ではなかった。
生き物として、格が違う。支配者としての存在そのものが、僕たちの常識を粉々に砕いていく。
隣に立つクラリスは、一目見たその瞬間に表情を失っていた。普段の傲慢な色が消え、ただ呆然と、目の前の存在に押し潰されている。
レオは震えを隠せず、小さく息を詰める音が聞こえた。アネッサは震えながら僕の服の裾を掴んでいる。
僕も――抗う気力など最初からなかった。ただ立っているだけで精一杯だ。
魔王、ヴァレリア。
その赤い髪を揺らしながら、静かに口を開いた。
「……来たか」
ヴァレリアの声が落ちた瞬間、床そのものが震えた気がした。
胸の奥に冷たい手が差し込まれ、心臓を直接握られているみたいだ。息をするだけで精一杯――いや、呼吸すらままならない。
そのとき、視界の端で動きがあった。
クラリスが、音もなく膝を折ったのだ。
「……っ」
彼女は必死に抗っているように見えた。だがその肩は震え、上品な衣装の裾を床に広げて深々と頭を垂れていた。かつて「異種族など家畜も同然」と言い放った彼女が、言葉ひとつなく。
続いて、レオも崩れるように膝をつく。いつもの柔らかな笑顔は消え失せ、蒼白の表情で額を床に押し付けた。
アネッサに至っては、涙すら流している。獣人の本能が働いたのだろうか。全身の毛が逆立ち、恐怖に支配されるまま、彼女は地に伏していた。
三人が自然と平伏したのを見て、僕の背筋にも冷たい汗が流れ落ちる。
……頭を下げろ。命令されているわけじゃないのに、全身がそう叫んでいた。
膝が震える。
腰が折れそうになる。
だけど――僕は必死に足を踏ん張った。
勇気じゃない。これは意地だ。勇者としての矜持が僕に頭を下げることを許さなかった。
ここで頭を垂れたら、自分が自分でなくなる気がして……だから必死に立ち続けていた。
ヴァレリアの赤い瞳が、そんな僕を正確に捉えている。
その瞳に映された瞬間、背骨を釘で打ち抜かれたような感覚が走った。
「……面白い」
その声が落ちた瞬間、謁見の間の空気がさらに重くなった。
レアもルミネアも、一歩も動かない。ただ静かに魔王の隣に立ち、僕を品定めするように見ている。
ヴァレリアは玉座で身じろぎもせず、ただ僕を見下ろしていた。
赤い髪が炎のように揺らぎ、その存在感は、まるで大地そのものが意志を持って形を取ったかのようだ。
「立っているのは……お前だけか」
低く響く声。
「名を告げよ」
命令されたのは僕だと、誰の耳にも疑いようがなかった。
膝を折る仲間の横で、喉が焼けつくように渇くのを感じながら、僕は口を開いた。
「……リアン、と申します」
ヴァレリアの唇がわずかに吊り上がる。笑ったのかどうかも分からない、恐ろしいほど曖昧な表情。
「リアン。――他はいい。名を聞くに値せぬ」
その言葉に、床に伏している三人の肩がわずかに震えた。
侮辱でも、否定でもない。ただ「存在が軽い」と断じられただけ。
そして、玉座の上から赤い瞳が再び僕を貫いた。
その視線に射抜かれながら、僕は悟る。
――ここで何を口にするかで、僕たちの運命が決まる。
「……リアン」
玉座から落ちる低い声。
「問うてやろう」
ヴァレリアの赤い瞳が鋭く細められた瞬間、謁見の間の空気がさらに冷えた気がした。
隣で震えるクラリスの肩が視界の端に映る。それでも僕は、足を動かさず、視線を逸らさずにいた。
「なにやら不思議な剣を佩いているな。お前が――勇者か」
喉が凍りつく。
だが、逃げるわけにはいかない。僕は仲間の前に立つ者なのだから。
「……はい。僕は勇者です」
自分でも声が震えているのが分かった。それでも、言葉は最後まで言い切った。
ヴァレリアの瞳が、さらに深く僕を射抜く。
「勇者とは、何だ」
心臓が痛いほど打ち、頭が真っ白になりそうになる。
けれど、足元に広がる沈黙に飲み込まれてしまえば、全てが終わると直感した。
「勇者とは……正義のために戦う者。恐怖に屈せず、仲間を導く者です」
言葉を口にした瞬間、自分でも驚くほど、胸の奥に熱が生まれるのを感じた。
しばし沈黙。
そして――玉座の上から小さな笑い声が漏れた。
「恐怖に屈せず、か……。だが今、恐れているのだろう?」
「……はい。恐れています」
僕は即答していた。
「それでも……退くつもりはありません」
赤い髪が炎のように揺れる。ヴァレリアは初めて、はっきりと口元に笑みを浮かべた。
「よかろう」
その一言が落ちた瞬間、謁見の間に張りつめていた重圧が、ほんの少しだけ緩んだ。
背後で、クラリスたちがわずかに息を吐く気配がした。
「……魔導国に来て、何を感じた?」
ヴァレリアの問いに、僕は恐怖を抱えながらも口を開いた。
「……まず、街や人々の生活が生き生きとしていることに驚きました。城や施設も、王国とは違った工夫が多く……学ぶべき点が多いと感じました」
その言葉に、ヴァレリアはじっと赤い瞳で僕を見つめる。威圧感は相変わらずだが、少し興味を示すような気配もある。
「……よろしい。他の者も言ってみよ」
その一言で、三人が顔を上げる。許可が出るまで、誰も口を開けなかったのだ。
クラリスがぎこちなく、しかし慎重に言葉を紡ぐ。
「……街の秩序と民の生活は、王国が学ぶべき点も多いかもしれません」
その声はまだ緊張で震えていたが、言わずにはいられなかったようだ。
レオは肩を震わせながらも、おずおずと話す。
「見たことない魔道具や魔法の数々……僕にとってはどれも新鮮で……見ているだけでもとても楽しかったです」
最後にアネッサが慎重に視線を伏せながらも口を開く。
「……街の人たちは、みんな元気で親切だし、笑顔も多いです。暮らしやすくて……安心できる国です」
その声は自然で、魔導国の民としての実感がにじみ出ていた。
ヴァレリアは四人を順に見つめ、沈黙を保ったまま微かに頷く。
「……ふむ、なるほど」
玉座に座ったまま、赤い瞳で僕たちを順に見渡す。威圧感は消えないが、先ほどの鋭さにわずかに柔らかさが混じった気配がある。
「街や民の様子を、こうして国外の者の口から聞くのは興味深い」
それに、と続けてアネッサをちらりと見やる。
「この国に住まう民の生の声を聞く機会も貴重だ。我が統治に至らぬ点もあるかもしれぬが、好意的な意見が聞けて嬉しいぞ」
その声には、依然として圧倒的な威圧はあるが、少なくとも僕たちを害そうという考えはなさそうに見えた。
恐怖は消えない。だが、少しだけ場の緊張が和らいだ気配があった。
ヴァレリアは玉座に身を沈め、鋭い瞳で僕らを射抜いた。
「……勇者よ。なぜ魔導国のことを見て回っている?」
その声には、依然として場を支配する威圧が込められている。
僕は一瞬息を詰め、それからまっすぐ答える。
「……王国にとって、魔導国は未知の国です。だからこそ、人々は理解できないものを恐れています」
少し間を置き、慎重に言葉を選ぶ。
「僕は、その恐れを少しでも和らげるために、正しく知りたいのです」
クラリスも続けるように一歩前に出た。
「……はい。確かに王国の民は魔導国に警戒しています。けれど、それは決して悪意ではなく、ただ知らないからです。私たちが見聞きしたことを伝えれば、両国の間の誤解を少しでも減らせるのではないかと考えています」
レオとアネッサは、沈黙を守ったまま視線を伏せている。
彼らにこの問いへ答える立場はないことを理解しているのだろう。
ヴァレリアは二人の言葉を静かに聞き、長い沈黙のあとでわずかに口角を上げた。
「……未知ゆえに恐れる、か。なるほど……」
ヴァレリアは「未知を恐れる」という説明をしばらく反芻するように沈黙した。
やがて、紅玉のような瞳を細め、声を低く落とす。
「……未知ゆえの恐れ、か。言葉としては聞こえがいい」
鋭い視線が、今度はまっすぐ僕とクラリスに突き刺さる。
「だが王国が異種族を迫害しているのは、もはや知らぬ者はいない。現に我が魔導国にも、王国から逃げ延びた者もいる。
本当に“恐れ”が理由か? あるいは……蔑み、排除することを正義と信じているのではないか?」
謁見の間の空気が一気に冷え込んだ。
アネッサは息を呑み、レオはただ口を結んで俯く。二人とも発言を控えるのは当然だ。
クラリスの背筋がこわばる。だが、彼女はぎりぎりの気品を崩さず答えようとする。
「……確かに、王国には異種族に対して厳しい態度をとる者が多くおります。しかし、それが必ずしもすべての民意ではなく――」
ヴァレリアの眼差しは揺るがない。
「言い繕うな。王国が掲げる“秩序”の名のもとに、多くの血が流れている。それを知らぬとは言わせぬ」
再び謁見の間は重苦しい沈黙に包まれた。
胸の奥に張りつめた糸のような緊張が戻り、誰もが次の言葉を誤れば命を落とすかもしれないと感じていた。
「……否定はできません」
僕は息を吐き、ゆっくりと口を開いた。
「王国は異種族を蔑んできた。人として扱わず、奴隷にし、命さえも物のように踏みにじる。いなくなればいいと本気で考えてきた。それが“当たり前”でした」
言葉にした瞬間、空気が張りつめる。
斜め向かいのレアが目を細める。鋭く、けれど言葉には出さず、怒りを押し殺しているのがわかる。僕の背筋がひやりと冷えた。
レアの隣に立つルミネアも、低く羽を震わせる。威嚇ではなく、静かに不快を示すその気配だけで、僕は胸を締めつけられるような感覚に襲われた。
隣のクラリスの手の動きに気づく。裾をぎゅっと握りしめ、顔をわずかに背けている。否定などできるはずもない。むしろ彼女自身、異種族を蔑むのが当たり前だと信じて育ってきたのだから。
だが、目の前にいる吸血鬼のレア、不死鳥のルミネア、そして魔王ヴァレリアの圧倒的な存在感を前に、クラリスは確信していた――自分の価値観が完全に間違っていたと。
恐怖が、理屈を越えて、彼女の体に染み込んでいく。これまで“正しい”と思っていた世界の見方が、一瞬にして崩れ落ちたのだ。
僕は唇を噛む。相手の反応を恐れつつも、事実をそのまま伝えたまでだった。
ただそれだけなのに、胸の奥が焼けつくように重く、そしてひりつくように痛む。
ヴァレリアの視線が、ふっと僕の横にいるクラリスに向いた。
「そなた、王国の立場ある者だろう。態度でわかる。――王国は、我が魔導国に対し何を思っておるのだ?」
その声には優しさなど微塵もなく、まるで刃のように真っ直ぐ胸に突き刺さる。
僕は声を出すことすらできなかった。助け舟を出す余地はまったくない。これはクラリス自身の答えを聞くための質問だと、直感でわかる。
クラリスは顔を強張らせ、かろうじて言葉を絞り出す。
「王国は……魔導国を恐れております……」
その声はか細く、しかし震えはしていなかった。目を伏せ、掌で裾を握りしめたまま、必死に平静を保とうとしている。
「恐れている……か。まだ言うか」
ヴァレリアの声は低く、しかし響き渡る。
「そなたたちの王国は、未知なるものに対して恐怖を抱く。そこまでは良しとしよう。だが、虐げ迫害するのは恐怖だけではないだろう。それとも、未知への恐れが攻撃性に現れるとでもいうのか」
僕は横で息を呑む。クラリスの表情から、答えるのがどれだけ苦しいかが伝わってくる。
しかし、その答えは正直だった。魔導国を直接体験した今、クラリスも認めざるを得なかったのだ。
「……はい、恐れております。王国は、魔導国のことを未知の国として、警戒の目を向けております。しかし、警戒するということは、脅威だと認めているということです……創世の女神に選ばれた種族である自分たちが、異種族を脅威と思うはずがない、そんな自分たちのちっぽけなプライドを守るべく、蔑んでいるのだと……今ならわかります」
クラリスは小さく息を吐く。声の震えが少しだけ和らいだが、その奥には恐怖と認識の変化が入り混じっている。
ヴァレリアはじっとその答えを聞き、うなずいた。
「なるほど……そうか」
その短い言葉にさえ、重みと威圧が宿っている。
僕は隣で息を整え、まだ解けぬ緊張の中で次の反応を見守った。
ヴァレリアの視線が、クラリスの顔を鋭く射抜く。
「王国は、異種族をどのように扱っておるのだ?」
その言葉に、僕の背筋がピンと張りつめる。助け舟は許されない。クラリス自身の言葉で答えるしかないのだ。
クラリスは一瞬息をのみ、目を伏せたまま小さく答える。
「……蔑み、従属させ、命さえ軽んじて……、王国は異種族を恐れ、それを誤魔化すかのように支配し、管理することを当然としてきました……」
その告白は、彼女自身をも震わせている。顔が青ざめ、手は裾を握りしめている。恐怖と自責の入り混じった声は、まるで吐き出すしかないかのようだ。
ヴァレリアは黙って聞き、わずかに唇を曲げた。
「ふむ……恐れ、蔑み、支配……なるほど、王国の考えは明確にわかった」
その声には非難ではなく、冷静な観察と威圧が宿る。座っているだけで、まるで生きた掟のように僕らを支配する存在感だ。
僕は横で、クラリスの手の震えを見て、胸が締めつけられる。
しかしここで助けようとすれば、さらに場を悪くするだけだ。クラリスは今、試されている。
クラリスはわずかに息を整え、視線を上げる。目の奥には恐怖と共に、初めて自分の考えが間違っていたことを理解した冷静さが宿っている。
「……はい、王国は異種族を恐れ、その恐怖を紛らわすため、大したものではないと言い聞かせるために支配してまいりました。力を持たぬ者として扱い、存在を軽んじてきたのです」
ヴァレリアはその答えにうなずくと、さらに静かに問う。ヴァレリアの視線は僕たち全員に向いているが、その刃のような鋭さはクラリスを中心に刺さる。
「では、そなた――王国から来た女よ。この国に来て、奴隷の身分でない本来の亜人らと接し、肌で触れたことで、そなたの考えに何か変化はあったのか」
僕の心臓はぎゅっと締めつけられる。助け舟を出せないことは、身体が勝手に理解していた。質問の矢は、クラリスに向けられているのだ。
クラリスは一瞬、言葉を失った。肩が微かに震え、手の中で裾を握りしめている。目を伏せたまま、震える声で絞り出すように答える。
「……はい……王国で当然と思っていた異種族への蔑み……それは……この国で体験したことにより、間違っていたと、理解しました……」
声はか細く、しかし震えは徐々に落ち着きを取り戻している。
「……恐怖を、感じました……力の差を目の当たりにし、王国で教え込まれた価値観が、実際には通用しないと……思い知らされたのです……」
ヴァレリアは黙って聞き、しばし沈黙。座っているだけで、その存在感は圧倒的で、僕たちは皆、思わず背筋を伸ばす。
「なるほど……恐れを抱き、理解したか……」
その声は静かだが重く、クラリスの胸に刺さる。
僕は横で、クラリスの手の震えに気づきつつ、助け舟を出してやれないことに歯痒さを感じる。レオもアネッサも、言葉を発することはまだできない。
ヴァレリアの冷静な視線に晒されながらも、クラリスは必死に答えを返し、少しずつ、自分の価値観の変化を認めていることが伝わってくる。
ヴァレリアの視線は、座ったままクラリスを捉えている。鋭く、冷たく、しかしどこか見極めるような視線だ。
僕の横でクラリスの肩が小さく震えている。息が浅く、心臓の鼓動が手に取るように伝わる。
「……それだけか?蔑みの対象ではなく、恐怖の対象であると認識を改めた。そなたが感じたことは、それだけなのか?」
ヴァレリアの質問に、僕の心臓が一瞬止まるような気がした。僕に答えを求められたわけではない。矢は、クラリスに向いている。
クラリスは目を伏せ、手の中で裾を握りしめたまま、かすれた声で答える。
「……いえ……恐怖だけではありません……この国で……その力と勇気を目の当たりにして……理解しました……亜人種は……決して王国で教えられたほど劣る存在ではないと……尊重し……敬愛すべき、隣人であると……そう、強く思いました……」
僕はその言葉にピンときた。力はレアやルミネア、ヴァレリアのことだろう。では、勇気は?それは間違いなく、僕達を助けるために遥か格上のレアの前に立ち塞がったアネッサのことだ。酒場では邪険にしていたアネッサの行動が、クラリスの考えを変える助けになったことに気付き、僕は胸の奥になにか熱いものを感じた。
ヴァレリアは沈黙したまま、鋭い目でクラリスを見据える。僕たちは皆、その圧倒的な威圧感に息を呑み、身を固くしていた。
「ふむ……理解し、恐れを抱き、勇気に触れ、そして学んだか……よかろう」
その一言に、クラリスの肩の震えがわずかに止まる。安心というよりも、力強さを授けられたような、そんな空気が流れた。
「王国の女よ、褒美だ。余の前で名を名乗る栄誉を与える。疾く名乗れ」
ヴァレリアの声は低く、しかし明確な命令の響きを帯びている。クラリスは一瞬言葉を失い、緊張と驚きで目を見開いたまま僕をちらりと見た。
僕もレオもアネッサも、ただ息を飲んでその瞬間を見守るしかなかった。
クラリスは一度深く息を吸い、震える声で名前を告げる。
「……クラリスと申します。魔王陛下」
ヴァレリアは軽く頷き、微かに微笑んだように見えた。
その瞬間、謁見の間に漂っていた緊張がわずかに和らいだように感じられたが、圧倒的な存在感は依然として僕たちの胸を押さえつけていた。
「よかろう、クラリス。そなたの名、忘れぬぞ」
ヴァレリアの声には威圧の影が残るが、緊張の棘は少し和らいだ気がした。
クラリスは体を小さく震わせながらも、少しだけ胸を撫で下ろしているのがわかる。アネッサも僕たちも、静かにその場に立ちすくんだままだ。
ヴァレリアはゆっくりと体を前に傾け、柔らかさとは無縁の眼光をこちらに向ける。
「しかし、未知の国か……そう恐れずとも、この国は王国や公国と敵対する意思はない。望むのであれば、国交を開く意思すらあるというのに」
その言葉に、僕は思わず息を呑んだ。これまでの緊張感の中で聞くと、意外なほど冷静で穏やかに響く。
王国や公国との関係は常に危うかった。敵対的ではないというだけで、肩の荷が少し軽く感じられる。
ヴァレリアは言葉を続ける。
「王に、余の言葉を伝えるがよい。望むのであれば、魔導国と貴国で国交を開くことも考えるとな。もちろん、公国王国どちらともだ」
その口調には変わらぬ威厳があり、座しているだけで圧倒的な存在感を放っている。
クラリスとレオ、そしてアネッサも、自然と身を正したまま提案に耳を傾ける。
アネッサはほんのわずかに目を見開き、僕たちに視線を送る。クラリスは肩を小さくすくめ、微かに唇を噛む。
僕は、今ここでの言葉をどう王に伝えるべきか、心の中で思案した。魔導国の意志が明確に示された以上、無下にしてはならない――そう強く感じる。
ヴァレリアの声音が謁見の間に深く響いた後、短い沈黙が訪れた。誰もが言葉を探しあぐねている中、魔王は再び口を開く。
「……ただし、そなたらに余の言葉を託す以上、無事に帰国できねば意味があるまい」
玉座の上で、ヴァレリアの瞳が鋭く光る。
「安心するがよい。余は約束しよう――そなたらを無事にこの国から送り出すと。それが、余がそなたらに与える責務であり、恩寵でもある」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で固く縛られていたものが少しだけ緩んだ。恐怖は消えない。けれど同時に、ここで果たすべき役割が明確に示されたのだと理解できる。
クラリスは小さく息を吐き、胸に手を当てて頭を下げる。レオは強張ったままの表情を崩せずにいるが、その瞳にはほのかな安堵が浮かんでいる。アネッサも静かに頷き、目を細めた。
「伝えよ。王に、魔導国は敵ではないと。国交を望むならば、余は応じると」
ヴァレリアの声は揺るぎなく、玉座の間に刻まれるように響いた。
僕はその言葉を深く心に刻む。必ず、王に届けなければならない――それが、ここを無事に出られる唯一の約束であり、僕たちに課せられた使命なのだ。
「……よい。今日のところはこれでよしとしよう」
玉座に凭れた魔王ヴァレリアが、ゆっくりと声を落とした。ぞっとするほど冷ややかな響きなのに、その口元がわずかに緩んだように僕には見えた。――ほんの少しだけ、優しさを見せてくれたのかもしれない。
「王国及び公国に戻った折、余の言葉を余すことなく伝えよ。……魔導国は敵意を抱かず、望むならば門を開こうとな」
それは退席を命じる言葉であり、同時に僕たちへ託された使者としての役割を告げるものだった。
けれど最後に、魔王は瞳を細める。
「余の言葉を違えること、決して許さぬぞ」
その一言に、背筋が粟立った。優しさに見えたものは、ほんのひとかけらの幻だったのかもしれない。
ヴァレリアは玉座に座したまま、僕たちを追い払うように視線を送ってきた。
従者が静かに前へ進み出て、僕たち四人を扉の方へ導く。
振り返ることなく歩き出す。けれど、背中に突き刺さるような視線は、扉が閉ざされるその瞬間まで消えることはなかった。
重々しい扉が閉じられる音が、謁見の間の空気を断ち切った。僕は思わず、肩に乗っていた見えない重圧を振り払うように深く息を吐いた。全身の筋肉がようやく解け出す。
「……終わった、のか」
隣を見ると、クラリスの顔は真っ青だった。先ほどまで気丈に答えていた姿からは想像できないほど、血の気が引いている。その瞳がかすかに揺れ、次の瞬間、彼女の膝が崩れ落ちた。
「クラリス!」
慌てて抱きとめる。細い身体は氷のように冷たく、力がまるで残っていなかった。
「ちょ…、しっかり!」
すぐに駆け寄ったのはアネッサだった。黒猫のよう鋭い耳を伏せ、心底不安そうな顔で僕の腕に抱かれたクラリスをのぞき込む。
その瞳にさっきまで見せていた恐怖はなく、友を案じる優しさで濡れていた。
「ク、クラリス……!」
レオも遅れて駆け寄ってくる。声は震え、瞳にはまだ謁見での恐怖が色濃く残っていた。だが、それでも彼は震える手を伸ばし、クラリスの肩に触れた。
その仕草には、怯えながらも友を気遣わずにはいられない誠実さがあった。
「……大丈夫、気を失ってるだけだ。緊張の糸が切れたんだろう」
僕は自分に言い聞かせるように呟いた。
腕の中のクラリスの胸は、かすかに上下している。呼吸はある。生きている。
その事実に胸を撫で下ろしつつも、僕の中には妙なざわめきが残った。
――あの魔王に認められたのは、果たして幸運だったのか。それとも。
クラリスが気を失ったあと、僕たちは魔王城の兵に案内され、医務室へと通された。
石造りの廊下を抜けた先の部屋は、謁見の間とは対照的に静かで落ち着いた雰囲気が漂っていた。清潔な白布を掛けられた寝台がいくつも並び、薬草のかすかな香りが鼻をくすぐる。クラリスはその一つに寝かされ、僕たちは彼女の周囲に立って見守る。レオは落ち着かない様子で何度も足を動かし、アネッサは黙ってクラリスの手を握っていた。
やがて、白いまぶたがゆっくりと震え、クラリスが小さくうめき声をあげる。
「……ここは……」
かすれた声に僕たちは一斉に顔を上げた。
「クラリス!」
レオが真っ先に駆け寄り、声を弾ませる。恐怖に揺れていた瞳が、安堵の光で潤んでいた。
「良かった……本当に、良かった……!」
「無理に動かないで」
僕はそっと制しながら、安心させるように微笑みかけた。
「ここは魔王城の医務室だ。君が気を失ったから運んでもらったんだ」
「……ごめんなさい……」
クラリスは申し訳なさそうに目を伏せたが、アネッサがその手をぎゅっと握りしめた。
「謝らないで。あなた、よく頑張ったね。魔王様相手にちゃんと話せてた。カッコよかったよ」
アネッサの声は不器用なほど優しくて、僕の胸に染み入った。
クラリスは不思議そうにアネッサを見る。
「どうしてあなたはそんなに私に優しくするの……?初めて会ったとき、私はあなたのこと……軽蔑、してた……」
クラリスは言いにくそうに声を小さくして目を逸らす。
確かにアネッサと初めて会った時のクラリスの態度は褒められたものではなかった。なのにどうしてアネッサはクラリスにもこんなに良くしてくれるのか、僕も今になって気になってきた。
アネッサは少し照れくさそうに頬をかきながら答える。
「あぁ〜、初対面は、まぁ…ね?最初はあたしも友達だと思ってたのはリアンとレオだけだった。でもさ、三人は旅の仲間でしょ?きっと大切に思い合ってる。友達が大切に思っている人を大切にしないなんて、あたしにはできなくてさ」
アネッサのまっすぐな言葉にクラリスも柔らかく微笑む。
「なにそれ。あなたって……不思議な人ね」
その様子を見て僕も嬉しい気持ちになる。あの王国的な差別思想だったクラリスが獣人であるアネッサと対等に会話をしている。もちろん恐怖もあったろう。だが、アネッサの行動がクラリスの十八年の歪んだ価値観を打ち砕いたのだと思うと、胸に熱いものがこみあげるようだった。
その時、医務室の扉が静かに開いた。入ってきたのは白髪に白い髭が特徴的な威厳ある老人だ。黒い燕尾服に紫の蝶ネクタイを合わせ、赤い裏地が見え隠れする。金縁の眼鏡越しに鋭くも優しげな雰囲気をたたえた目がこちらを見つめ、手で眼鏡を調整する仕草に知性と自信が溢れている。僕とレオ、アネッサは彼に一度会っている。彼はジルバ、魔王に仕える執事だ。クラリスを介抱する際に助けてくれた、とても親切な紳士だ。
クラリスは目を見開き、少し体をベッドに沈める。先ほどまで眠っていた彼女にとって、この人は初めて見る存在だ。
「クラリス様、目を覚まされましたね」
落ち着いた声が部屋に柔らかく響く。
紳士は軽く頭を下げ、静かに言った。
「私、ジルバと申します。皆様のお世話をさせていただいております」
クラリスはその声と姿を見て、なんだか妙な違和感を覚えた。何だろう……魔王城にいる以上、なにかしらの異種族ではあるのだろう。変な威圧感や魔力の匂いもない。だが、どこか不自然さを感じさせる空気もある。
「……失礼ですが、あなたは何という種族の方ですか?」思わずクラリスは尋ねてしまう。
ジルバは少し驚いたように目を細めるが、穏やかな微笑を崩さず答えた。
「私は……人間です」
その一言に、僕もレオもアネッサも少し息をのむ。魔導国で、人間がこうして執事として自然に立ち振る舞っている――しかもこの落ち着いた風格で――予想外の事実に、しばし言葉が出なかった。
クラリスは小さく息を吐き、ふっと肩の力を抜いた。
「……そう……」
微妙な違和感が消えるわけではないが、少なくとも警戒心よりも興味の方が強くなる。
ジルバは軽く頭を下げ、静かに続ける。
「どうぞご安心ください。無理はなさらず、必要なことはすぐにお手伝いいたします」
その姿を見て、僕は改めて思った――魔王城で普通の人間が、これほど自然に執事として存在しているとは。クラリスにとっても、僕たちにとっても、ちょっと不思議で心強い存在になりそうだ、と。
クラリスはベッドの端に腰掛け、まだ少しふらつきながらも目に力が戻ってきた。
「……ジルバさん、ここではどんなお仕事をなさっているのですか?」
ジルバは穏やかに微笑み、落ち着いた声で答える。
「魔王様の身の回りのお世話や、必要な物の手配をさせていただいております。あなた方の支度のお手伝いもその一環です。ある程度必要なものは準備できております。確認なさいますか?」
クラリスが小さくうなずいて立ちあがろうとしたそのとき、レオがそっと隣に膝をつき、手を差し伸べた。
「クラリス、無理しないで。ほら、立てる?」
クラリスは少し照れくさそうに視線をレオに向け、でも自然に手を差し出す。
「……ありがとう、レオ」
僕は横で見守りながら、二人の間に流れる微かな温かい空気に気づく。クラリスはレオの手に触れたまま、ゆっくり立ち上がった。
僕達は確認を終え、改めてジルバに視線を向けて礼を言う。
「ありがとうございます、ジルバさん。必要なものはちゃんと揃っていました」
「それはよかった。なにかご入用なものを思い出されたら、いつでもこのジルバにお申し付けください」
彼の優しい微笑みを見ながら僕たちはゆっくりとベッドを離れ、クラリスはレオの手を支えにして医務室を後にする。クラリスはほんの少しレオに体を寄せるようにして歩き、微かに意識が交錯しているのが感じられた。僕は横で見守りつつ、これからのことを考える。
医務室を出た廊下は重厚な空気に満ちているが、クラリスとレオのさりげない距離感、ジルバの落ち着いた存在感が混ざり、どこか柔らかい雰囲気が漂っていた。
「……今日はもう夜中だ。各自疲れをとるために、出発は明後日の朝にしよう。みんな、それでいい?」
僕は小さく息をつき、クラリスとレオに声をかける。
「ええ……そうしましょう」
「うん、僕もそれがいいと思う」
そしてアネッサに目を向け、尋ねる。
「アネッサ……君はどうしたい?僕は、君が一緒に来てくれると心強い。正直言うと、君をもう仲間だと思っているよ」
アネッサの目が輝く。耳と尻尾をピンと立たせ、喜びを全身で表現しているようだ。
「あ、あたしもいいの!?行く行く!やったぁ!お別れしなくていいんだ!」
その言葉にクラリスが不満そうに頬を膨らませる。
「そんな簡単にお別れなんてしないわ。………友達、なんだから」
ほんの少し頬を赤らめてアネッサを見ながらしっかりと伝える。アネッサはクラリスに飛びついて抱きしめ、頬ずりしている。
あの異種族嫌いのクラリスが、獣人であるアネッサに抱きつかれているのに嫌な顔どころか嬉しそうにしている…僕はその光景を見られただけでも、この国に来てよかったと思った。
廊下の角を曲がったとき、ジルバはそっと僕に向き直った。
「リアン様、ひとつお知らせを」
「なに?」僕が聞き返すと、ジルバは落ち着いた声で続ける。
「今回の旅には、護衛兼魔王様のお言葉を伝えるメッセンジャーとして、もう一人同行する者がおります。魔人で、私と同じ執事ですので、過度に警戒される必要はありません」
僕は軽く息をのむ。なるほど、七曜魔ではなく、ジルバと同じ秘書的な立場なのか。だから警戒しすぎなくて良い、と。
「うん、わかった」僕が答えると、ジルバは穏やかにうなずく。
そのまま歩き続け、城下町の宿の前に到着する。
「こちらが皆様の宿です。必要な手続きや準備は整えてありますので、どうぞ安心してください」ジルバは軽く頭を下げ、微笑みを浮かべる。
「ありがとうジルバさん」
僕は微笑みながらジルバにお礼を言う。
「では、私はこれで失礼いたします。まだ仕事が残っていますので」ジルバは静かに頭を下げ、城へと戻っていく。
その背中は落ち着いていて、安心感を残したまま去っていった。
僕たちは宿の前で立ち止まり、深く息をつく。今日の疲れを癒し、明後日の朝に備える――そんな静かな決意が、自然に胸に広がった。
一泊して翌朝、城下町の市場に一歩足を踏み入れると、魔導国らしい鮮やかな色彩と異種族たちの賑わいが目に入った。アネッサが先頭に立ち、地元案内のように僕たちを導く。
「ここの串焼きは、こだわり抜いたお肉に珍しい香辛料を使ってるんだ!みんなもきっと気に入るよ!」アネッサは少し誇らしげに言い、黒髪の獣耳がぴくりと動いた。
クラリスは目を輝かせながら頷き、自然にレオの腕に軽く手を添える。レオも微笑みを返しながら、クラリスをさりげなく支えて歩いていた。その二人の微かな距離感に、僕は思わず胸が温かくなるのを感じた。
僕は少し離れて歩きながら、その様子を微笑ましく眺める。二人のやり取りはぎこちなくも、確かに互いを意識しているのがわかる。アネッサも時折ちらりと二人を見て、先導を楽しみながらも黙って微笑んでいた。
昼には広場で屋台の軽食を楽しむ。異種族の住人たちが混ざる中、クラリスはレオと一緒に座って珍しい料理を分け合い、時折笑い声をあげる。僕もアネッサと軽く言葉を交わしながら、その光景を静かに見守る。
午後には小さな工房や装飾品店を巡り、クラリスは興味深そうに品物を手に取り、レオが丁寧に説明をする。互いの距離を保ちながらも、自然に肩や腕が触れる瞬間が何度かあり、見ている僕まで穏やかな気持ちになる。
日が傾くころ、僕たちは宿に戻る。城下町の石畳に夕日が映え、柔らかい光が町全体を包む。クラリスは少し疲れた表情を見せつつも、レオの腕に軽く寄りかかるように歩き、僕は横で静かに微笑む。
宿に着くと、それぞれ自分の部屋に荷物を置き、休息の準備をする。今日一日の賑やかさと異国情緒の中で、僕たちは少しだけ疲れた身体を癒す。明日の出発に備えて、心の中では次の旅路への期待が静かに膨らんでいた。
翌朝、宿の窓から柔らかな光が差し込み、城下町に静かな一日が始まった。僕たちは簡単な朝食を済ませ、荷物を整える。アネッサの荷物は少ないようで、すでに準備を終えている。クラリスとレオは互いに微笑み合いながら準備を進めている。僕はそんな二人を、少し離れた場所から微笑ましく眺めた。
「リアン様、皆様」ドアの外から落ち着いた声が響く。振り返ると、ジルバがきちんと整えた服装で立っていた。
「おはようございます、ジルバさん」僕たちは揃って挨拶する。
ジルバは短く会釈をすると、静かに説明を始めた。
「本日、出発でございますね。以前お話しした旅の同行者を紹介しに参りました」
「では、紹介いたします」ジルバの声に続き、宿の入口に一人の魔人の女性が現れた。黒髪に白いメッシュ、捩れた角。気だるげな表情を浮かべ、燕尾服姿で僕たちを見据える。
「……ノワールと申します。お見知りおきを」
一分の隙もない完璧に整った服装にその異質な存在感。七曜魔でないとはいえ、かなりの使い手であることは容易にわかった。
クラリスは目を見開き、レオはわずかに杖を握る手に力がこもる。僕はその独特の存在感に圧倒されつつも、ジルバの説明を思い出す。七曜魔ではなく、秘書的立場の者……だから、過度に警戒する必要はないのか。
ノワールはゆっくりと一歩前に出て、冷静な目で僕たちを見渡す。だが、威圧感はなく、どこか落ち着いた雰囲気をまとっている。
「よろしくお願いします」声は低く、だが礼儀正しい。クラリスとレオも軽く頭を下げ、僕も自然に挨拶する。
「ノワール様…魔王の右腕と言われるお方…」
アネッサはノワールを見たことがあるのだろう。すこし態度が固くなりながらも、遅れて挨拶をする。
「よ、よろしくお願いします…」
ノワールはそんなアネッサを見てほんの少し微笑む。
「固くなる必要はありません。あなたは愛らしいのですから、笑顔を見せてください」
……何やら少し怪しい雰囲気だが、危害を加えるわけではなさそうだ。
アネッサは戸惑っているが、素直な彼女ならすぐに慣れるだろうと放っておくことにした。
ジルバは軽く微笑むと、宿の前で僕たちに小さく合図した。
「それでは、皆様、旅の無事を祈っております。私は城に戻りますので」
僕たちは頷き、ジルバに見送られながら、宿を後にする。ノワールは静かに僕たちの後に続き、旅の護衛として自然に馴染む。
城下町の通りを歩きながら、僕は深呼吸する。今日からまた、本格的な旅が始まる――来た道を戻るだけだが、何が起こるかはわからない。気を引き締めていこう。
城門に近づくと、薄明かりの中で不意に目を奪われる影があった。長く銀色に光る髪、凛とした立ち姿、そして――あの真っ赤な目の奥に冷たく光る威圧感。僕たちは思わず足を止め、体が硬直した。
「魔王様の命での。そなたらが無事に国を出るところを見届けねばならん」
古めかしい、しかしどこか重みのある声が響く。レアがこちらを見据えている。僕たち四人は、言葉通りに恐怖で体がこわばった。
「危害を加えるつもりはない。そう固くなるな」
レアの言葉に、クラリスは微かに息をつき、レオも肩を少し落とす。アネッサは耳をぴくりと動かし、僕は喉を鳴らす。全員が恐怖を押し殺しつつ、足を踏み出す勇気を振り絞っていた。
「妾はお前達に興味などない。この国から無事に出ればそれでよい。……だがノワールよ、そなたは別じゃ。そなたは魔王様の右腕。問題ないとは思うが、無事に帰ってくるのじゃぞ」
そのとき、ノワールの表情が少し変わった。普段の冷静さが消え、目に小さな光が宿る。
「……レア様、見送りに……来てくださったのですね」
ノワールの声には、驚きと感激が混ざっていた。
レアは軽く微笑み、日傘を差したままノワールを見上げて静かに言う。
「魔王様から伝言じゃ。普段働きすぎなお前にはちょうどいい息抜きとなるだろう、とのことじゃ。妾もそなたの働きは認めておる。今回もしっかり務めを果たすがよい」
ノワールはわずかにうつむき、微かに頬を赤らめる。普段は見せない感情を、今だけは抑えられないらしい。
僕たちは後ろで少し距離を取り、ノワールの驚きと感激を静かに見守る。
「さあ行け。妾は眠い」レアはそう言い、顎をクイっとしゃくって城門のほうへ促す。
僕たちは恐る恐る頷き、石畳の道を一歩ずつ進み始める。ノワールは小さな笑みを浮かべながら、僕たちの後ろに自然に歩調を合わせた。
城門を出て振り返ると、レアの姿はもうなかった。僕たちは少しの安心感と、まだ消えない緊張を同時に感じた。
こうして、魔王城を出た僕たち四人とノワールの旅は、静かに、しかし確かに始まった。