第十八話 小さな希望を力に変えて
王国編もそろそろ大詰めです。
第十八話
広場の混乱の中、ナーガラが低く唸った。
「ロザリンドさん……亜人たちは、ある程度逃がせました。ここで撤退しましょう」
ロザリンドは涙で濡れた頬を手で拭い、肩を落としながらも決然と頷いた。
「わかった……撤退する。皆、行くぞ」
僕たちは前衛を固め、後衛はクラリスとロザリンドを守るために慎重に進む。ドルガが大きく息をつき、倒れたイザベルの亡骸を抱き上げる。重く、冷たいその体を抱えながら、彼は力強く前を見据えた。
ノワールはまだ残る力で小さな炎を生み出す。レオはそれに手をかざし、風魔法で炎を拡大させ、広場と処刑台を隔てる炎の壁を作り出す。炎の熱と光が周囲を包み、追撃してくる兵士たちを阻む。
「ここを抜ける!」アイゼンが低く叫び、僕たちは一斉に炎の壁に沿って進む。
民衆や逃げ惑う亜人たちの悲鳴とざわめきが混ざり、焦燥感の中で足を運ぶ。胸の奥に、イザベルを失った悲しみが重くのしかかる。
ドルガの腕に抱かれたイザベルの体が揺れるたび、僕の胸も締め付けられた。だが、撤退を止めるわけにはいかない。クラリスも、震えながら僕の腕を握り、恐怖と悲しみの入り混じった眼差しで前を見ている。
炎の壁を抜け、建物の影や水道通路を辿って少しずつ広場から距離を取る。振り返れば、炎と混乱の中で兵士たちの怒声がこだまする。
しかし、ノワールとレオの援護のおかげで、僕たちは無事に包囲を突破できた。
貧民街へ向かう道の途中、ドルガは静かにイザベルを抱えたまま歩き、僕たちはその後を追う。沈黙の中、それぞれの胸には悲しみと怒り、そして決意が渦巻いていた。
――まだ終わってはいない。あのカイリスだけは、絶対に許さない。
貧民街の静かな一角。まず、イザベルを弔おうという話になった。そのときサリアが、昨夜、イザベルが子供達の亡骸を埋めているところを見たと言う。僕達はそこに向かう。昨夜、サリアが目撃したという小さな穴が、まだ土の匂いを残していた。
「ここに……眠らせてあげましょう。せめて、あの子たちと一緒に……」
ロザリンドは小さく頷く。涙が頬を伝い落ちる。重く、張り裂けそうな悲しみが胸に満ちる。ドルガがイザベルの亡骸を静かに横たえ、僕も手を合わせて目を閉じる。
風がそっと頬を撫で、街の片隅で鳥が一声鳴いた。その静寂の中で、イザベルの最後の笑顔と、守ろうとした想いが胸に刻まれる。
「イザベル……お前の無念、必ず晴らしてみせる…!」
ロザリンドは嗚咽をこらえながら、そっと手を合わせる。
その余韻に浸る間もなく、僕たちの頭には次の現実が浮かぶ。王都に残る危険、カイリスの存在、これからどうするか――。
夜が深まり、火の粉が散るランプの下で、僕たちは小さな卓を囲んだ。皆の顔には疲労と悲しみが濃く刻まれている。イザベルを埋葬した後の沈黙が、まだ心に重くのしかかっていた。
「……脱出の手筈を整えよう」
口を開いたのはアイゼンだった。低く落ち着いた声が場を引き締める。
「王都での目的は果たした。これ以上ここに留まれば、いずれ追っ手に囲まれる」
「……そうだな」ロザリンドも小さく頷くが、その瞳には迷いがあった。
「カイリスのことだけは……決して許せない。でも、今の私たちには正面から戦う力がない。皆を無駄に死なせるわけにはいかない……」
誰も言葉を返さない。全員が同じ思いを抱きながらも、現実の前に唇を噛むしかなかった。
沈黙の後、ロザリンドが深く息を吸い、顔を上げた。
「ただ……一つだけ、どうしても見ておきたい場所がある」
僕は顔を上げる。彼女の視線は真っ直ぐで、揺らぎはなかった。
「……私の領地だ。今は兵もいなくて、ただの村に過ぎないけれど、領民はまだ残っているかもしれない。最前線だから、既に兵に保護されて王都に移送されている可能性もある。奴らとて王国の民は見捨てないだろうからな。彼らがどうなっているか……それが気になって仕方ない」
その声には、主としての責任と、領民への思いが込められていた。
「もし……彼らがまだ領地で生きていて、亡命を望むのなら、一緒に連れて行きたい」
「危険では?」ナーガラが眉をひそめる。
「危険はある。でも……見捨てていくことはできない」ロザリンドははっきりと言い切った。
誰もすぐに否定はしなかった。むしろ、その言葉が彼女の本質を示していることを、皆が理解していた。
「……行こう」僕が口を開く。
「今さら危険を恐れて立ち止まるわけにもいかないし、ロザリンドが背負うものを無視して進むことなんて、できない」
クラリスが静かに頷き、ノワールも「同胞を救いたい気持ちは、私にも分かります」と呟く。
レオは腕を組み、真剣な顔で言った。
「なら、できる限りの備えをして向かおう。領地の人々を安全に脱出させる道も考えておかなきゃね」
作戦の空気が、少しずつ変わっていく。脱出だけでなく、新たに背負うべき使命がそこに加わった。
──ロザリンドの領地へ。
そこに残された領民のために。
領地へと続く街道を進むにつれ、僕たちの会話はだんだんと途切れがちになっていった。最初は「領民がまだ無事ならどう避難させるか」といった実務的な話もしていたのに、やがて誰もが言葉を失う。
あたりの景色が荒れていた。畑は踏み荒らされ、放置された馬車の車輪は折れ、焦げ跡の残る柵が無惨に倒れている。何より、風に混じって鼻を突く鉄錆の匂いが濃くなってきた。
「……血の匂いだな」
バルドが低く唸り、鼻をしかめる。
ロザリンドは唇を震わせ、拳を強く握りしめていた。
「まさか……そんな、はず……」
焦燥を隠せない彼女の横顔に、誰も軽々しい言葉をかけられなかった。
──そして領地の入口に辿り着いた瞬間、僕たちは凍りついた。
そこにあったのは、かつてロザリンドが守ってきたはずの領地の成れの果て。柵は破壊され、家々は瓦礫と化し、赤黒い血が地面に広がって乾いている。魔獣の群れがその上に群がり、肉を引き裂き骨を噛み砕く音が風に乗って響いた。
村人の亡骸。兵士の鎧ごと噛み砕かれた屍。どれが誰だったのかもわからないほど、残酷に蹂躙されていた。
「……っ」
クラリスが青ざめて口元を押さえ、ノワールは燃えるような瞳でその光景を睨みつけた。
「下等な獣どもめ……」
ロザリンドはよろめくように村の中へ駆け出す。
「皆! 誰か、応えろ!どこかにいないか!生きてる人は……!」
叫びは瓦礫と血の匂いにかき消され、返事はなかった。
「ロザリンドさん、待って!」ナーガラが声を張る。
「魔物がまだ残っています。無闇に動けば、あなたまで──」
はっと我に返ったロザリンドの肩が震える。彼女はその場に膝をつき、唇を噛んだ。
「……こんな……私が、守ってきたはずなのに……」
嗚咽がこぼれる。心の支えであった領地が、無残に食い荒らされている現実。その深い傷は、ロザリンドの強靭な心をさえ揺さぶり、打ち砕こうとしていた。
村を歩きながら、僕たちはそこに残された痕跡を目にしていった。
砕け散った盾。弓矢をつがえたまま崩れ落ちた兵士。血にまみれた鎌や鍬を握ったままの領民。
「……領民まで、武器を取って戦ったのか」アイゼンが低くつぶやく。
亜人の兵は王都へ連れ去られ、この地に残されたのは人間の兵と領民たちだけ。それでも、ここを守ろうと必死に抗った痕跡が生々しく残っていた。だがその努力も、数と力の差の前には無力だったのだろう。
ロザリンドは、村の中央に立ち尽くしていた。うつむき、拳を握り、肩を震わせている。
「……済まない……皆を……守れなくて……」
その声は嗚咽にかすれ、地に崩れ落ちそうに弱々しかった。
僕たちは言葉を失い、ただその背中を見守るしかなかった。
しばらくそうしていたが、アイゼンが前へ出て口を開いた。
「ここはもう危険だ。魔物はまだいる。襲われないとも限らん。……先に進もう」
その言葉に皆は重く頷き、国境を目指そうと歩を進めようとした、その時だった。
――かすかな泣き声が、瓦礫の隙間から聞こえた。
「……子供の声!?」
ロザリンドは顔を上げ、音のする方へ駆け出す。
「待ってろ!今助ける!」
ドルガが雄叫びと共に腕を振るい、瓦礫をどけていく。その下から現れたのは、小さな鳥人の赤ん坊だった。羽根はまだ柔らかく、震える体を必死に丸めて泣き続けている。
そのすぐ横には、翼を広げたまま動かない二つの亡骸。赤ん坊を覆うようにして息絶えた両親だった。
ロザリンドは言葉を失い、膝から崩れ落ちる。頬を伝う涙が止まらない。
「……最後まで……守り切ったのだな……」
彼女は震える手で赤ん坊を抱き上げ、胸に強く抱きしめる。
「安心しろ、わが領民よ……この子の命は……この小さな命だけは、私が……必ず守り抜く……!」
その声は涙に濡れながらも、揺るぎない誓いとして広場に響いた。
ロザリンドは鳥人の赤ん坊を腕に抱き、静かに立ち上がった。泣きじゃくるその小さな体を揺らしながら、強く、しかし優しく抱き締めている。
その瞳には涙の跡がまだ残っていたが、そこに宿る光は決して揺らいでいなかった。
「……この子は、私が連れて行く。何があろうと、絶対に守り抜く」
その言葉には迷いがなかった。誰も異を唱えるものはいなかった。一人、また一人と頷きが広がる。皆がその気持ちを理解し、ロザリンドの決意を尊重したのだ。
やがて僕が口を開いた。
「……じゃあ、これからのことを考えないとね」
本来なら領民と共に、公国へと亡命する予定だった。地理的にも近く、生活の基盤を移すには最も現実的な選択肢だった。
けれど今、領地は滅び、守るべき領民もいない。
ナーガラが腕を組んで小さく吐き出す。
「……領民がいない以上、公国へ行く理由はなくなったわね。むしろ危険よ。王国と公国は国交があるもの。引き渡しを要請されたら、あっさり応じられてしまうでしょう」
ドルガが低い声でうなる。
「そうなれば、俺たちは逃げ場を失う……」
沈黙が落ちる中、ノワールが赤い瞳を光らせて言った。
「魔導国を頼るほかありませんね。魔王様には、私から頼んでみましょう。遠いですが、王国からの手も届かぬ地。私たちが生き延びるにはそこしかありません」
「……そうだな」アイゼンも同意する。「ただし公国を素通りするわけにはいかない。補給も必要だ。……それに、あの国には、立ち寄るべき用事もある」
「でも長居はできない。余計な目を引くだけだ」ロザリンドが冷静に言い切った。
皆の視線が集まり、自然と意志が一つにまとまっていく。目的地は魔導国。公国はあくまで経由に過ぎない。
「……問題は、国境だな」バルドが鼻を鳴らす。「砦には兵が詰めてる。正面突破は難しい」
「だけど抜けなければ進めません」サリアが静かに続ける。
レオもそれに続く。
「方法を考えないとね」
そうして話題は、次なる難関――国境の砦をどう越えるか、という作戦へと移っていった。
ロザリンドが静かに口を開いた。
「……国境の砦は、すでに封鎖されているだろう。王国もそこまで間抜けではない。誰一人として通さぬよう、厳重に警備されているはず」
その声には確信があった。領地を治める立場にあった彼女だからこそ、国境の事情には詳しいのだ。
僕は腕を組んで思い出す。
「僕も、何度かあの砦を通ったことがある。正門は二重の鉄扉で守られていて、昼夜問わず番兵が詰めている。裏門は補給用の小さな通路があるけど……今はきっと塞がれてるだろうね」
クラリスも頷いた。
「砦の構造は単純だけど、その分、死角がほとんどないわ。塔の上からは周囲を一望できる。隠れて通るのは難しいでしょうね」
その場に沈黙が落ちた。行き詰まる気配の中、レオが口を開く。
「……なら、魔法で視界を塞ぐのはどうだろう? 水魔法と炎魔法と風魔法を組み合わせて霧を発生させて、見張りの目をくらますんだ」
バルドが鼻を鳴らす。
「霧か……だが急に視界が悪くなればそれこそ異常だ。逆に警戒を強めるかもしれん」
「完全に見えなくするのは無理だろうけど……時間稼ぎにはなるかも」レオは諦めずに言葉を続ける。
そのとき、サリアが小さく手を上げた。
「赤ん坊なら、私が連れて飛べるよ。小さな体なら抱えても重くないし……その子だけは、確実に安全に運べる」
助かる、とロザリンドが感謝を込めてサリアを見つめる。だが問題はそこだけではない。
「……だが、赤ん坊を運べても、俺たち全員が通れるわけじゃない」アイゼンが冷静に指摘する。
皆の視線が交わり、再び沈黙が広がった。小さな灯火の下、重苦しい空気が支配する。どの案も決め手に欠け、作戦会議は難航を極めていた。
しばらく重苦しい沈黙が続いたあと、不意にアネッサが顔を上げた。
「……待って。ねぇロザリンド、ここって王国領の端なんだよね?」
唐突な声に皆が視線を向ける。アネッサはまっすぐロザリンドを見て、さらに言葉を重ねた。
「魔物は、どこから来てた?」
その問いに、ロザリンドの表情が変わった。数瞬の間をおいて、彼女はハッと目を見開く。
「……なるほど……領地北の森! あそこは魔物が跋扈する危険地帯だが、砦は築かれていない……国外に抜けられる……!」
彼女の声が少しずつ熱を帯びていく。
「無事に抜けられればショートカットにもなる上、砦を避けられる分、見つかる心配はないな……!」
光明を見出した瞬間、全員の顔にわずかな安堵が差した。
「やるなぁ嬢ちゃん!冴えてるじゃねぇか!」ドルガが大きな掌でアネッサの頭をわしわしと撫で、アネッサは少し照れくさそうに目を逸らす。
「正面突破よりは、ずっとマシだな!」
「その子は、私が抱えて空から森を越えます。皆は地上から来て。森を出たところで合流しましょう」サリアがそう提案すると、全員が頷いた。ロザリンドは赤子を見やり、胸に手を当てて小さく息を吐く。
「……ありがとう。これで守り抜ける」
方針が決まると、場に漂っていた重苦しい空気が少し和らいだ。
「……ならば、準備が要りますね」ナーガラが低く言う。「食糧や物資を集めなければ、森を越えるのは難しいでしょう」
その言葉に皆が立ち上がり、周囲の廃墟へと目を向ける。家々は無残に崩れ、血の跡が残るばかりだった。それでも、わずかに食糧や衣服、道具が散乱している。
ロザリンドは跪き、亡骸の前で静かに手を合わせた。
「……すまない。あなたたちの無念を、背負っていく。少しだけ……力を貸してほしい」
その姿に倣い、僕達も黙って手を合わせる。亡き者への感謝と謝罪を胸に刻みながら、僕達は必要な物資を丁寧に集めていった。
準備を終えた僕達は、夕闇が迫る前に領地を後にした。ロザリンドは振り返り、荒れ果てた地をじっと見つめる。かつて領民の笑顔があった場所は、今や瓦礫と血の匂いだけが残る無惨な姿だ。唇を噛みしめ、彼女はそっと赤子を抱き直した。
「……行こう。立ち止まっては、この子を守れない」
その言葉に皆が頷き、僕達は北の森を目指す。
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