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勇々戦記 ー勇者リアン、迷いと覚悟の旅路ー  作者: ヨルイチ
第三章 エステリア神聖王国編
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第十話 王国への帰還

新章開始。これまでの章より長めになります。

第十話



 公国の重々しい城門を抜けた瞬間、胸の奥に懐かしいざわめきが広がった。

ようやく王国へ戻る。

――僕の故郷へ。


けれど足取りは軽くても、心は素直に喜べなかった。

隣を歩くクラリスを見ると、それはなおさらだ。彼女はずっと前を見つめているが、その顔には期待よりも不安の色が濃く映っていた。


「……クラリス、大丈夫?」

小声で尋ねると、彼女はわずかに頷いたものの、不安を隠しきれない様子で唇をかんだ。


後ろからついてくる三人――レオ、ノワール、アイゼン――の視線が僕とクラリスに向けられる。

彼らは言葉にせずとも、僕とクラリスの胸中を察しているようだった。

レオは控えめに目を伏せ、ノワールはじっと口を結び、アイゼンは無言のまま周囲を警戒している。


ただ一人、事情を理解していないのはアネッサだった。

彼女は小首をかしげて、きょろきょろと周囲を見回しながら元気に口を開く。


「ねえ、どうしてそんな浮かない顔してるの? リアンもクラリスも、王国の人間なんでしょ? 故郷に帰れるのに嬉しくないの?」


彼女の天真爛漫な問いかけに、僕は一瞬、返答をためらった。

けれどクラリスが視線を落とし、唇を固く結ぶのを見て、僕は代わりに口を開く。


「……王国は、亜人に優しくない国なんだ。

むしろ――迫害する側だから」


アネッサの笑顔が、ほんの一瞬だけ凍りついた。

彼女の隣でノワールもまた、静かに目を伏せていた。

アネッサは目を瞬かせたまま、僕の言葉を繰り返す。


「迫害……するって、本当に? どうして?」


「理由なんてないさ」

僕は少し自嘲気味に笑って肩をすくめた。

「ただ“人間じゃないから”ってだけで、弾かれるんだ」


「くだらない価値観ですね」

低い声で吐き捨てたのはノワールだ。

彼女の瞳には静かな怒りが宿っていた。


アネッサは唇を尖らせて振り返る。

「でもさ、みんなは人間でしょ?人間と一緒に行動してるってことは敵じゃないってわかるじゃん。なら大丈夫なんじゃないの?」


「……いや」

控えめな声でレオが首を振った。

「王国の思想はそんな優しいものじゃないんだ。君たち亜人種は、おそらく僕達といても人としての扱いすら受けられないと思う。それが心苦しいんだ」


「そういうことだ」

アイゼンが腕を組み、前を睨むように言った。

「王国は“選ばれた人間”以外を認めん。俺達が異を唱えれば、同じ人間でも立場を危うくするだけだ」


クラリスはずっと黙ったままだったが、やがて小さく息をついて口を開いた。

「……私もそれが正しいと思い込んでいたことがあったわ。この旅まで変わることができたけれど。だけど国民の多くはあなた達を奴隷だと判断するし、そう扱うと思う。だから、あなたやノワールを連れて行くのが怖い」


その言葉に僕の胸が締めつけられる。

クラリスの不安も、レオたちの警戒も、ノワールとアネッサの戸惑いも――全部が正しい。

それでも。


「……行くしかないんだ」

僕は言った。

「僕達には大切な役目がある。だから、どんなに辛くても乗り越えるしかない」


アネッサはまだ少し納得できない顔をしていたが、それでも笑顔を作り直してうなずいた。

「なら、あたしは二人を信じる! ね、ノワール様!」


ノワールは小さく微笑んで、ただ「ええ」と短く返した。


 アネッサは一呼吸置くと、ぱっと顔を輝かせて言った。


「ねえ、そんな暗い顔ばっかりしても仕方ないでしょ! ほら、せっかく王国に向かうんだし、楽しまなきゃ!」


僕は思わず顔をしかめたが、彼女の明るさに少し和んだ。

「楽しい……か、どうかは状況次第だけど」


「状況なんて関係ないの!」

アネッサは手をひらひらさせながら歩き出す。

「ほら、リアンだってクラリスだって、きっと懐かしい顔とかもいるはずだし!」


ノワールは横目でアネッサをちらりと見て、口元を緩める。

「……本当にあなたは、こういうときでも前向きですね」


「そりゃそうよ!」

アネッサは胸を張る。

「落ち込んでばっかりじゃ、旅は楽しくならないでしょ。ほら、あたしたち、冒険の仲間なんだから!」


レオは少し恥ずかしそうに笑い、アイゼンも腕組みのままだが、目の奥が柔らかくなるのを感じた。


僕は心の中で小さくため息をつく。

――アネッサは、いつだって僕たちの足元を照らしてくれる。

この明るさがあるから、どんな不安や危険も乗り越えられるのかもしれない、と。


「……ああ、そうだな」

僕はうなずき、隊列のペースを上げる。

クラリスも、少しだけ顔を上げたように見えた。


前方に広がる公国の大地。

心配は尽きないけれど、今はアネッサの笑顔が、僕たちの背中を押してくれる――そんな気がした。


 公国の城門を出てから、どれほど歩いただろうか。二度の野宿を挟み、魔物の襲撃を退け、仲間達を気遣いながら歩き続けた。

 旅の初め、クラリスと二人で進んでいた時は馬に乗っていたから、こんなに遠いとは思わなかった。

太陽はすでに西へと傾き、道の両脇に広がる草原が橙色に染まっている。

仲間たちの足音と、風に揺れる草のざわめきだけが耳に残り、しばし僕たちは言葉少なに進んだ。


やがて、視界の先に小さな村が見えてきた。

素朴な柵で囲まれた集落。家々の煙突からは薄い煙がのぼり、夕餉の支度を告げている。

王国の国境はもうすぐ先だが、今夜はここで一泊するのが賢明だろう。


「ここで休もうか」

僕が言うと、皆がうなずく。長旅の疲れは隠せない。


村の入り口に近づくと、年配の農夫らしい男が柵の修繕をしていた。

僕は声をかける。


「すみません、この村に旅人を泊めてくれる場所はありますか?」


男はしばらくこちらを値踏みするように眺め、それから顎で村の奥を指した。

「酒場の二階が空いとるはずだ。あそこの女将に頼んでみな」


「ありがとうございます」

頭を下げると、男は再び作業に戻っていった。


振り返ると、アネッサが胸を張って言う。

「じゃあ決まり! 今日の宿は酒場ね!」


ノワールは少し苦笑し、クラリスは安堵の息を漏らした。

レオとアイゼンも黙ってうなずく。


僕は仲間たちを連れて、村の奥へと歩みを進めた。

夕暮れに包まれる小さな村――今夜はここで、ひとときの休息を得ることになる。


 酒場の扉を押し開けると、木の香りと温かな煮込み料理の匂いが漂ってきた。

数人の村人が杯を傾けており、こちらに一瞬視線を向けてから、すぐにひそひそと話し始める。


女将に事情を話すと、二階の空き部屋を貸してくれることになった。

「その人数だと少し狭いが、隣り合った二部屋があるよ」

そう言って差し出された鍵を受け取り、僕は胸をなで下ろす。


「助かりました。ありがとうございます」


取引はすんなり終わったが、背後で聞こえる小声が気にかかる。


「見たか? 角のある女と猫耳の女……」

「旅の一座か? いや、あんなのを堂々と……」

「首輪もつけてないし、服だって妙に小綺麗だ」

「王都じゃ考えられんぞ」


アネッサはむっとして振り返りそうになるが、ノワールが小さく首を振って制した。

僕も気づかぬふりを決め込む。ここで波風を立てても得はない。


ただ、その中に気になる言葉が混じっていた。


「……どうせならあの女伯爵の領地に送ればいい。あそこなら亜人でも構わず徴集してくれるんだろう?」


女伯爵? 徴集?

僕が眉をひそめたとき、クラリスが小声で言った。


「少し聞いてくるわね。怪しまれないように」


そう言って彼女はひとり、さりげなく近くの客に声をかけた。

「旅の途中でして、この辺りの領地について教えていただけませんか?」


しばらく言葉を交わした後、クラリスは戻ってきて席につく。

その表情には、微かな緊張が混じっていた。


「どうやら――国境のすぐ側、と言ってもここからだと距離があるけど。王都から見て北西の方角に女性の伯爵が治める領地があるそうよ。彼女は戦を好み、力ある者なら人種を問わず兵に加えるのだとか。王都からも快くは思われていないみたい」


「へぇ、そんな人もいるんだ」

アネッサが目を輝かせる一方で、ノワールは眉を寄せる。


「……戦を好む、ですか。そのような人間が領主とは。警戒すべきですね」


僕は女将から受け取った鍵を握り直した。

王国に戻る前に、また一つ厄介な情報を手に入れてしまった気がする。


 二階の部屋に上がると、板張りの床がぎしりと音を立てた。

窓の外には沈みかけた夕日が見え、旅の終わりを告げるように影を長く伸ばしている。

僕たちは荷物を下ろし、それぞれ椅子やベッドに腰を下ろした。


最初に口を開いたのはアネッサだった。

「ねえねえ、さっきの話、ちょっと面白くない? だって王国って異種族に厳しいんでしょ? なのに“人種を問わず徴集する女伯爵”なんて、なんだか意外だよ」


「……意外というより、恐ろしいですね」

ノワールが淡々と返す。

「彼女にとっては、人も亜人も“戦力”にすぎないのでしょう。守られるべき民ではなく、駒として扱うのです」


アネッサは口を尖らせたが、レオが静かに補足する。

「でも……王国の貴族って、だいたい血統や格式にこだわる人が多いと思ってた。そういうのを無視して兵を集める領主、って珍しいんじゃないかな」


クラリスは膝の上で手を組みながら、少し考え込むようにしていた。

「王国は今のところ平穏です。だからこそ、そういう領主は浮いて見えるのでしょうね。必要以上に兵を集める理由があるのかどうか……気になります」


「ふん、力を誇示したいだけじゃないのか」

アイゼンが鼻を鳴らす。

「王国にあって亜人をも徴集するなんて、王都からは眉をひそめられるはずだ」


僕は皆の顔を見渡し、少しだけ笑みを浮かべた。

「まあ、いずれにしても俺たちが行くのは王都だ。女伯爵の領地に立ち寄る予定はない……けど、情報として覚えておく価値はあるかもね」


「うん!」と元気よく返したアネッサに、クラリスが少しだけ表情を和らげる。

緊張の多い旅路の中、こうして言葉を交わしていると、ほんの少しだけ心が軽くなる気がした。


 部屋に灯されたランプの明かりは、昼間のざわめきとは別の静けさを運んできた。

皆それぞれに身を休め、談笑は徐々に途切れていく。

僕もベッドに腰を下ろし、ぼんやりと天井を見上げた。


――王国か。

生まれ育ったはずの故郷なのに、帰るとなると胸の奥が重くなる。

差別や偏見、そして僕に課せられた使命。

仲間たちを連れて歩むには、あまりにも厳しい場所かもしれない。


けれど。

隣で笑う声がある限り、僕は歩き続けなければならない。

この仲間たちとなら、どんな困難も越えられる――そんな確信が、心のどこかに灯っている。


ランプの火を消すと、闇が広がった。

それでも耳に届く仲間の寝息が、不思議と安心をくれる。

僕はそのまま、静かに目を閉じた。


 

――そして翌朝。

まだ薄暗い村の空に、鳥の声が響く。

僕たちは支度を整え、女将に礼を告げて宿を出た。


今日はいよいよ、王国の地に足を踏み入れる日だ。


 村を出てしばらく歩くと、道の先に高い石造りの門が見えてきた。

それは王国の入り口となる国境門。両側には武装した兵士が立ち、通行者を厳しく見張っている。


僕は無意識に背筋を伸ばした。

懐かしいはずの景色なのに、足取りは少しだけ重い。


「……あれが、王国の砦……」

アネッサが感嘆の声を漏らす。興味津々で門の大きさを見上げる彼女とは対照的に、クラリスは顔を引き締めていた。

「通行の際は、身分を明らかにする必要があるわ。余計なことは口にしないように」


「分かってるよ」

僕は小さくうなずき、仲間たちを振り返った。

ノワールは表情を崩さず、アイゼンはただ黙って腕を組んでいる。レオは気弱そうに視線を落としている。


やがて門の前に立つと、兵士が槍を持ち直し声を張った。

「止まれ! ここから先は王国領だ。通行の目的を述べよ!」


クラリスが一歩前に出て、胸元から王国貴族の証を取り出す。

「私は王国の聖女、クラリスです。こちらは勇者リアン。それと供の者です。通行をお許しください」


兵士たちは一瞬ざわめき、すぐに姿勢を正した。

「せ、聖女様……! それに勇者様も……!失礼いたしました」

慌てて門を開き、通行を許す。


その視線は僕たちの背後へも向けられていた。

アネッサやノワールを見る兵士の目には、わずかに警戒と嫌悪が滲んでいる。

彼らは何も言わなかったが、その無言の圧力が胸に重くのしかかった。


門をくぐった瞬間、僕は深く息を吸った。

――ここが、僕の帰るべき国。

けれど、同時に仲間たちにとっては敵意に満ちた国。


それを思うと、胸の奥に冷たいものが流れるのを感じた。


 門を抜けると、背後で重い扉が閉ざされる音が響いた。

その音が、もう後戻りできないことを告げているように思えて、僕は思わず振り返った。


「ふぅー…… 無事に通れたね」

アネッサが胸をなで下ろすようにして笑った。

「兵士の人、すっごい怖い顔してたよ」


「……私たちを見ていたのでしょう」

ノワールが冷静に言う。

「ここから先、同じようなことは何度でもあるはずです」


レオが小さくうなずき、僕に目を向けた。

「リアン……大丈夫?」


「大丈夫さ」

僕は笑ってみせる。

「ここは僕の故郷だから。けど……皆には辛い思いをさせるかもしれない」


「それでも一緒に行くって決めたんだろ?」

アイゼンが短く言い放つ。

「今さら怖じ気づくやつはいない」


その言葉に僕は息をつき、仲間たちへと視線を巡らせた。

それぞれが思うところはあるだろう。けれど、誰一人足を止める様子はない。


僕たちは顔を見合わせ、小さくうなずき合った。


――そして、視線を前に戻す。


そこには、王国の大地が広がっていた。

緩やかな丘陵が続き、石造りの街道が遠くまで伸びている。

小さな村が点在し、風に揺れる畑が金色に光っていた。


一見すれば、どこまでも豊かで平穏な国土。

だが、その奥に潜む空気は、僕にとってどこか懐かしくも重苦しいものだった。


 街道を進むと、やがて小さな村が見えてきた。

低い石垣に囲まれた集落で、畑の向こうには茅葺きの家々が並んでいる。

煙突から上る白い煙と、夕暮れを告げる鐘の音。

その光景を目にした瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走った。


「……ここは」

僕は思わず足を止める。


クラリスも立ち止まり、視線を村へと向けた。

「ええ、覚えています。あの時、あなたが……」


「リアン?」

アネッサが首をかしげる。その表情には純粋な好奇心しかなく、だからこそ僕は言葉を失った。


レオが控えめに尋ねる。

「何かあった村なの……?」


僕は答えられなかった。

頭の中に蘇るのは、かつての自分の未熟さだ。

善意のつもりでいらぬ手を出し、結果的に村の作物に被害を出してしまったのだ。


クラリスが静かに口を開いた。

「……リアンはこの村で、余計な介入をしてしまったの。本人は村を助けようとしたのでしょうけれど、かえって悪い結果になってしまって……」


その声に非難の色はなかった。

けれど、かえって胸をえぐるように痛んだ。


「……あの時の僕は、未熟だった。ただ正しいと思ったからって、後先も考えずに……。そのせいで、村の大切な作物を台無しにしてしまったんだ」

僕は言葉を絞り出す。

「だから、この村に顔を出すのは……正直、怖い」


アネッサが息をのんだ。

「……そんなことが」


ノワールは村の方角から目を逸らさず、淡々と言う。

「けれど、今のあなたは一人ではないでしょう。繰り返さなければいい。ただ、それだけのことです」


アイゼンは腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。

「失敗は誰にでもある。問題は、次にどうするかだ」


仲間の言葉に、僕は拳を握りしめた。

そうだ。過去を消すことはできない。

けれど、今なら――同じ過ちを繰り返さずに済むはずだ。


 村の入口に足を踏み入れると、途端にざわめきが広がった。

振り返る人々の視線が、まるで重石のように僕へとのしかかる。


「……あの勇者だ」

「水路を……」


口々に洩れる声に、胸が苦しくなる。

あの時のことを忘れるはずがない。


――僕は村の力になりたかった。

少しでも収穫を増やせるようにと、水路に積もった石や土砂を取り除いた。

水の流れをよくすれば、作物が元気に育つと思った。


けれど、それは浅はかな思い込みにすぎなかった。

村人たちが代々築いてきた水路は、流量まで緻密に計算されたものだったのだ。

僕が勝手に手を加えたせいで下流の畑が水に浸かり、おそらく収穫は激減したことだろう。

村の糧であり、同時に王国へ納める税でもあったのに。


杖をついた中年の男が前に出る。

その目には怒りではなく、深い恨みと諦めが混じっていた。


「……勇者リアン。お前が何をしたか、我らは忘れていない。

 あれからというもの、新たに畑を開墾し、代わりとなる育ちの早い作物を植え付け……どれだけの家が迷惑し、どれだけの者が死に物狂いで働いたか……」


「……すみません」

喉が張り付いたように、それ以上の言葉は出てこなかった。


隣でアネッサが何か言いかける。

「ちょっと、それは――」

だがクラリスが小さく首を振り、彼女の腕を押さえた。

ノワールはただ静かに口をつぐんで、目を伏せている。


代わりにクラリスが一歩前に出た。

「リアンは、当時まだ未熟でした。善意からの行動でしたが、それが裏目に出てしまったのです」


続いてレオが小さな声で言葉を添える。

「彼はずっと後悔しています。その重みを、今も背負ったまま……」


最後にアイゼンが低く響く声で断じた。

「過ちを繰り返さぬよう、我々が共にある。安心していただきたい」


村人たちは顔を見合わせ、ざわめきが再び広がる。

許されたわけではない。

それでも、ただ拒絶するだけではなくなった空気があった。


中年の男は長く息を吐き出し、背を向けながら言った。

「……宿なら空いている。泊まりたいのなら使え。ただし――今度こそ、余計なことはするなよ」


背中が遠ざかっていく。

僕は深く頭を垂れ、その姿が見えなくなるまで顔を上げられなかった。


 宿の一室に通されても、しばらく誰も口を開かなかった。

外から聞こえてくるのは、風に揺れる木の葉と、遠くで犬が吠える声だけ。

窓際に腰を下ろした僕は、視線を落としたまま固まっていた。


胸にこびりついた村人たちの眼差しが離れない。

彼らにとって、僕は未だに「過ちを犯した者」だ。

善意からだったなんて言い訳にすらならない。


重苦しい沈黙を破ったのは、アネッサだった。

「……ねえねえ、あたし思ったんだけどさ」

ぱんっと手を叩いてみんなの注目を集めると、にこりと笑って続ける。

「村のごはん、すっごくおいしそうだったよね! 干し肉もあったし、パンの香りも……あー、お腹すいてきた!」


あまりに唐突な言葉に、僕は思わず顔を上げる。

クラリスが呆れたように小さくため息をつき、けれど口元は少しだけ緩んでいた。

「アネッサ……もう少し空気を考えなさい」


「考えてるよ! でもあたしたち、ずーーーっと歩いてきたじゃん!みんなはお腹空かないの?」

アネッサは悪びれずに笑う。


すると、レオが小さく吹き出した。

「……確かに。たくさん歩いたもんね。せっかく宿を借りられたんだし、ご飯にしようよ」


アイゼンも腕を組んだまま、低い声でぽつりと添える。

「そうだな……食える時に食っておくのは大事だ」


重苦しかった空気が、少しずつ和らいでいくのがわかった。

僕も、口の端がわずかに動いた気がする。


ノワールがじっとこちらを見ていた。

その眼差しに責める色はなく、ただ「あなたはまだ歩ける」と言われているようで。


「……そうだな。今夜くらいは、よく食べて、よく休もう」

そう口にした時、ようやく胸の奥の重しがほんの少しだけ軽くなった気がした。


 

 夕食は質素なものだった。

硬いパンに干し肉、薄いスープ。

決して贅沢ではなかったが、疲れた体には温かさが沁みた。


アネッサが「おいしいおいしい」と頬を膨らませて食べる姿に、みんなの顔も少しずつ和らいでいく。

クラリスも苦笑しながら彼女をたしなめ、レオとアイゼンもそれに応じるように小さく笑みを交わした。

ノワールは相変わらず無口だったが、時折アネッサを見て口元を緩めていた。


――ぎこちないながらも、少しだけ温かい。

そんな空気の中で食事は終わり、それぞれが床につく準備を始めた。



夜更け。

寝台に横たわっても、なかなか眠りは訪れなかった。


天井の木目をぼんやりと見つめながら、昼間の村人の顔が次々に浮かんでくる。

僕のせいで畑を失った人々。

王国への納税分は足りたのか。誰かが空腹に倒れはしなかったか。

想像するたびに胸の奥がきしむ。


――善意では済まされない。

あの時の僕は、ただ「役に立ちたい」という思いに酔っていただけだ。

知識も、理解も、責任もなかった。


けれど、それでも。


横になったまま、仲間たちの寝息に耳を澄ませる。

アネッサの無邪気な呼吸、クラリスの落ち着いた息遣い、レオとアイゼンの規則正しい寝息。

そして、ノワールのかすかな気配。


今ならわかる。

僕はもうひとりではない。

過ちを繰り返さないために、共に歩いてくれる仲間がいる。


「……もう間違えない」


小さく呟いた言葉は、闇の中に溶けていった。

それが誓いとなるように、胸の奥に深く刻みつけながら。

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