第十話 王国への帰還
新章開始。これまでの章より長めになります。
第十話
公国の重々しい城門を抜けた瞬間、胸の奥に懐かしいざわめきが広がった。
ようやく王国へ戻る。
――僕の故郷へ。
けれど足取りは軽くても、心は素直に喜べなかった。
隣を歩くクラリスを見ると、それはなおさらだ。彼女はずっと前を見つめているが、その顔には期待よりも不安の色が濃く映っていた。
「……クラリス、大丈夫?」
小声で尋ねると、彼女はわずかに頷いたものの、不安を隠しきれない様子で唇をかんだ。
後ろからついてくる三人――レオ、ノワール、アイゼン――の視線が僕とクラリスに向けられる。
彼らは言葉にせずとも、僕とクラリスの胸中を察しているようだった。
レオは控えめに目を伏せ、ノワールはじっと口を結び、アイゼンは無言のまま周囲を警戒している。
ただ一人、事情を理解していないのはアネッサだった。
彼女は小首をかしげて、きょろきょろと周囲を見回しながら元気に口を開く。
「ねえ、どうしてそんな浮かない顔してるの? リアンもクラリスも、王国の人間なんでしょ? 故郷に帰れるのに嬉しくないの?」
彼女の天真爛漫な問いかけに、僕は一瞬、返答をためらった。
けれどクラリスが視線を落とし、唇を固く結ぶのを見て、僕は代わりに口を開く。
「……王国は、亜人に優しくない国なんだ。
むしろ――迫害する側だから」
アネッサの笑顔が、ほんの一瞬だけ凍りついた。
彼女の隣でノワールもまた、静かに目を伏せていた。
アネッサは目を瞬かせたまま、僕の言葉を繰り返す。
「迫害……するって、本当に? どうして?」
「理由なんてないさ」
僕は少し自嘲気味に笑って肩をすくめた。
「ただ“人間じゃないから”ってだけで、弾かれるんだ」
「くだらない価値観ですね」
低い声で吐き捨てたのはノワールだ。
彼女の瞳には静かな怒りが宿っていた。
アネッサは唇を尖らせて振り返る。
「でもさ、みんなは人間でしょ?人間と一緒に行動してるってことは敵じゃないってわかるじゃん。なら大丈夫なんじゃないの?」
「……いや」
控えめな声でレオが首を振った。
「王国の思想はそんな優しいものじゃないんだ。君たち亜人種は、おそらく僕達といても人としての扱いすら受けられないと思う。それが心苦しいんだ」
「そういうことだ」
アイゼンが腕を組み、前を睨むように言った。
「王国は“選ばれた人間”以外を認めん。俺達が異を唱えれば、同じ人間でも立場を危うくするだけだ」
クラリスはずっと黙ったままだったが、やがて小さく息をついて口を開いた。
「……私もそれが正しいと思い込んでいたことがあったわ。この旅まで変わることができたけれど。だけど国民の多くはあなた達を奴隷だと判断するし、そう扱うと思う。だから、あなたやノワールを連れて行くのが怖い」
その言葉に僕の胸が締めつけられる。
クラリスの不安も、レオたちの警戒も、ノワールとアネッサの戸惑いも――全部が正しい。
それでも。
「……行くしかないんだ」
僕は言った。
「僕達には大切な役目がある。だから、どんなに辛くても乗り越えるしかない」
アネッサはまだ少し納得できない顔をしていたが、それでも笑顔を作り直してうなずいた。
「なら、あたしは二人を信じる! ね、ノワール様!」
ノワールは小さく微笑んで、ただ「ええ」と短く返した。
アネッサは一呼吸置くと、ぱっと顔を輝かせて言った。
「ねえ、そんな暗い顔ばっかりしても仕方ないでしょ! ほら、せっかく王国に向かうんだし、楽しまなきゃ!」
僕は思わず顔をしかめたが、彼女の明るさに少し和んだ。
「楽しい……か、どうかは状況次第だけど」
「状況なんて関係ないの!」
アネッサは手をひらひらさせながら歩き出す。
「ほら、リアンだってクラリスだって、きっと懐かしい顔とかもいるはずだし!」
ノワールは横目でアネッサをちらりと見て、口元を緩める。
「……本当にあなたは、こういうときでも前向きですね」
「そりゃそうよ!」
アネッサは胸を張る。
「落ち込んでばっかりじゃ、旅は楽しくならないでしょ。ほら、あたしたち、冒険の仲間なんだから!」
レオは少し恥ずかしそうに笑い、アイゼンも腕組みのままだが、目の奥が柔らかくなるのを感じた。
僕は心の中で小さくため息をつく。
――アネッサは、いつだって僕たちの足元を照らしてくれる。
この明るさがあるから、どんな不安や危険も乗り越えられるのかもしれない、と。
「……ああ、そうだな」
僕はうなずき、隊列のペースを上げる。
クラリスも、少しだけ顔を上げたように見えた。
前方に広がる公国の大地。
心配は尽きないけれど、今はアネッサの笑顔が、僕たちの背中を押してくれる――そんな気がした。
公国の城門を出てから、どれほど歩いただろうか。二度の野宿を挟み、魔物の襲撃を退け、仲間達を気遣いながら歩き続けた。
旅の初め、クラリスと二人で進んでいた時は馬に乗っていたから、こんなに遠いとは思わなかった。
太陽はすでに西へと傾き、道の両脇に広がる草原が橙色に染まっている。
仲間たちの足音と、風に揺れる草のざわめきだけが耳に残り、しばし僕たちは言葉少なに進んだ。
やがて、視界の先に小さな村が見えてきた。
素朴な柵で囲まれた集落。家々の煙突からは薄い煙がのぼり、夕餉の支度を告げている。
王国の国境はもうすぐ先だが、今夜はここで一泊するのが賢明だろう。
「ここで休もうか」
僕が言うと、皆がうなずく。長旅の疲れは隠せない。
村の入り口に近づくと、年配の農夫らしい男が柵の修繕をしていた。
僕は声をかける。
「すみません、この村に旅人を泊めてくれる場所はありますか?」
男はしばらくこちらを値踏みするように眺め、それから顎で村の奥を指した。
「酒場の二階が空いとるはずだ。あそこの女将に頼んでみな」
「ありがとうございます」
頭を下げると、男は再び作業に戻っていった。
振り返ると、アネッサが胸を張って言う。
「じゃあ決まり! 今日の宿は酒場ね!」
ノワールは少し苦笑し、クラリスは安堵の息を漏らした。
レオとアイゼンも黙ってうなずく。
僕は仲間たちを連れて、村の奥へと歩みを進めた。
夕暮れに包まれる小さな村――今夜はここで、ひとときの休息を得ることになる。
酒場の扉を押し開けると、木の香りと温かな煮込み料理の匂いが漂ってきた。
数人の村人が杯を傾けており、こちらに一瞬視線を向けてから、すぐにひそひそと話し始める。
女将に事情を話すと、二階の空き部屋を貸してくれることになった。
「その人数だと少し狭いが、隣り合った二部屋があるよ」
そう言って差し出された鍵を受け取り、僕は胸をなで下ろす。
「助かりました。ありがとうございます」
取引はすんなり終わったが、背後で聞こえる小声が気にかかる。
「見たか? 角のある女と猫耳の女……」
「旅の一座か? いや、あんなのを堂々と……」
「首輪もつけてないし、服だって妙に小綺麗だ」
「王都じゃ考えられんぞ」
アネッサはむっとして振り返りそうになるが、ノワールが小さく首を振って制した。
僕も気づかぬふりを決め込む。ここで波風を立てても得はない。
ただ、その中に気になる言葉が混じっていた。
「……どうせならあの女伯爵の領地に送ればいい。あそこなら亜人でも構わず徴集してくれるんだろう?」
女伯爵? 徴集?
僕が眉をひそめたとき、クラリスが小声で言った。
「少し聞いてくるわね。怪しまれないように」
そう言って彼女はひとり、さりげなく近くの客に声をかけた。
「旅の途中でして、この辺りの領地について教えていただけませんか?」
しばらく言葉を交わした後、クラリスは戻ってきて席につく。
その表情には、微かな緊張が混じっていた。
「どうやら――国境のすぐ側、と言ってもここからだと距離があるけど。王都から見て北西の方角に女性の伯爵が治める領地があるそうよ。彼女は戦を好み、力ある者なら人種を問わず兵に加えるのだとか。王都からも快くは思われていないみたい」
「へぇ、そんな人もいるんだ」
アネッサが目を輝かせる一方で、ノワールは眉を寄せる。
「……戦を好む、ですか。そのような人間が領主とは。警戒すべきですね」
僕は女将から受け取った鍵を握り直した。
王国に戻る前に、また一つ厄介な情報を手に入れてしまった気がする。
二階の部屋に上がると、板張りの床がぎしりと音を立てた。
窓の外には沈みかけた夕日が見え、旅の終わりを告げるように影を長く伸ばしている。
僕たちは荷物を下ろし、それぞれ椅子やベッドに腰を下ろした。
最初に口を開いたのはアネッサだった。
「ねえねえ、さっきの話、ちょっと面白くない? だって王国って異種族に厳しいんでしょ? なのに“人種を問わず徴集する女伯爵”なんて、なんだか意外だよ」
「……意外というより、恐ろしいですね」
ノワールが淡々と返す。
「彼女にとっては、人も亜人も“戦力”にすぎないのでしょう。守られるべき民ではなく、駒として扱うのです」
アネッサは口を尖らせたが、レオが静かに補足する。
「でも……王国の貴族って、だいたい血統や格式にこだわる人が多いと思ってた。そういうのを無視して兵を集める領主、って珍しいんじゃないかな」
クラリスは膝の上で手を組みながら、少し考え込むようにしていた。
「王国は今のところ平穏です。だからこそ、そういう領主は浮いて見えるのでしょうね。必要以上に兵を集める理由があるのかどうか……気になります」
「ふん、力を誇示したいだけじゃないのか」
アイゼンが鼻を鳴らす。
「王国にあって亜人をも徴集するなんて、王都からは眉をひそめられるはずだ」
僕は皆の顔を見渡し、少しだけ笑みを浮かべた。
「まあ、いずれにしても俺たちが行くのは王都だ。女伯爵の領地に立ち寄る予定はない……けど、情報として覚えておく価値はあるかもね」
「うん!」と元気よく返したアネッサに、クラリスが少しだけ表情を和らげる。
緊張の多い旅路の中、こうして言葉を交わしていると、ほんの少しだけ心が軽くなる気がした。
部屋に灯されたランプの明かりは、昼間のざわめきとは別の静けさを運んできた。
皆それぞれに身を休め、談笑は徐々に途切れていく。
僕もベッドに腰を下ろし、ぼんやりと天井を見上げた。
――王国か。
生まれ育ったはずの故郷なのに、帰るとなると胸の奥が重くなる。
差別や偏見、そして僕に課せられた使命。
仲間たちを連れて歩むには、あまりにも厳しい場所かもしれない。
けれど。
隣で笑う声がある限り、僕は歩き続けなければならない。
この仲間たちとなら、どんな困難も越えられる――そんな確信が、心のどこかに灯っている。
ランプの火を消すと、闇が広がった。
それでも耳に届く仲間の寝息が、不思議と安心をくれる。
僕はそのまま、静かに目を閉じた。
――そして翌朝。
まだ薄暗い村の空に、鳥の声が響く。
僕たちは支度を整え、女将に礼を告げて宿を出た。
今日はいよいよ、王国の地に足を踏み入れる日だ。
村を出てしばらく歩くと、道の先に高い石造りの門が見えてきた。
それは王国の入り口となる国境門。両側には武装した兵士が立ち、通行者を厳しく見張っている。
僕は無意識に背筋を伸ばした。
懐かしいはずの景色なのに、足取りは少しだけ重い。
「……あれが、王国の砦……」
アネッサが感嘆の声を漏らす。興味津々で門の大きさを見上げる彼女とは対照的に、クラリスは顔を引き締めていた。
「通行の際は、身分を明らかにする必要があるわ。余計なことは口にしないように」
「分かってるよ」
僕は小さくうなずき、仲間たちを振り返った。
ノワールは表情を崩さず、アイゼンはただ黙って腕を組んでいる。レオは気弱そうに視線を落としている。
やがて門の前に立つと、兵士が槍を持ち直し声を張った。
「止まれ! ここから先は王国領だ。通行の目的を述べよ!」
クラリスが一歩前に出て、胸元から王国貴族の証を取り出す。
「私は王国の聖女、クラリスです。こちらは勇者リアン。それと供の者です。通行をお許しください」
兵士たちは一瞬ざわめき、すぐに姿勢を正した。
「せ、聖女様……! それに勇者様も……!失礼いたしました」
慌てて門を開き、通行を許す。
その視線は僕たちの背後へも向けられていた。
アネッサやノワールを見る兵士の目には、わずかに警戒と嫌悪が滲んでいる。
彼らは何も言わなかったが、その無言の圧力が胸に重くのしかかった。
門をくぐった瞬間、僕は深く息を吸った。
――ここが、僕の帰るべき国。
けれど、同時に仲間たちにとっては敵意に満ちた国。
それを思うと、胸の奥に冷たいものが流れるのを感じた。
門を抜けると、背後で重い扉が閉ざされる音が響いた。
その音が、もう後戻りできないことを告げているように思えて、僕は思わず振り返った。
「ふぅー…… 無事に通れたね」
アネッサが胸をなで下ろすようにして笑った。
「兵士の人、すっごい怖い顔してたよ」
「……私たちを見ていたのでしょう」
ノワールが冷静に言う。
「ここから先、同じようなことは何度でもあるはずです」
レオが小さくうなずき、僕に目を向けた。
「リアン……大丈夫?」
「大丈夫さ」
僕は笑ってみせる。
「ここは僕の故郷だから。けど……皆には辛い思いをさせるかもしれない」
「それでも一緒に行くって決めたんだろ?」
アイゼンが短く言い放つ。
「今さら怖じ気づくやつはいない」
その言葉に僕は息をつき、仲間たちへと視線を巡らせた。
それぞれが思うところはあるだろう。けれど、誰一人足を止める様子はない。
僕たちは顔を見合わせ、小さくうなずき合った。
――そして、視線を前に戻す。
そこには、王国の大地が広がっていた。
緩やかな丘陵が続き、石造りの街道が遠くまで伸びている。
小さな村が点在し、風に揺れる畑が金色に光っていた。
一見すれば、どこまでも豊かで平穏な国土。
だが、その奥に潜む空気は、僕にとってどこか懐かしくも重苦しいものだった。
街道を進むと、やがて小さな村が見えてきた。
低い石垣に囲まれた集落で、畑の向こうには茅葺きの家々が並んでいる。
煙突から上る白い煙と、夕暮れを告げる鐘の音。
その光景を目にした瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走った。
「……ここは」
僕は思わず足を止める。
クラリスも立ち止まり、視線を村へと向けた。
「ええ、覚えています。あの時、あなたが……」
「リアン?」
アネッサが首をかしげる。その表情には純粋な好奇心しかなく、だからこそ僕は言葉を失った。
レオが控えめに尋ねる。
「何かあった村なの……?」
僕は答えられなかった。
頭の中に蘇るのは、かつての自分の未熟さだ。
善意のつもりでいらぬ手を出し、結果的に村の作物に被害を出してしまったのだ。
クラリスが静かに口を開いた。
「……リアンはこの村で、余計な介入をしてしまったの。本人は村を助けようとしたのでしょうけれど、かえって悪い結果になってしまって……」
その声に非難の色はなかった。
けれど、かえって胸をえぐるように痛んだ。
「……あの時の僕は、未熟だった。ただ正しいと思ったからって、後先も考えずに……。そのせいで、村の大切な作物を台無しにしてしまったんだ」
僕は言葉を絞り出す。
「だから、この村に顔を出すのは……正直、怖い」
アネッサが息をのんだ。
「……そんなことが」
ノワールは村の方角から目を逸らさず、淡々と言う。
「けれど、今のあなたは一人ではないでしょう。繰り返さなければいい。ただ、それだけのことです」
アイゼンは腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。
「失敗は誰にでもある。問題は、次にどうするかだ」
仲間の言葉に、僕は拳を握りしめた。
そうだ。過去を消すことはできない。
けれど、今なら――同じ過ちを繰り返さずに済むはずだ。
村の入口に足を踏み入れると、途端にざわめきが広がった。
振り返る人々の視線が、まるで重石のように僕へとのしかかる。
「……あの勇者だ」
「水路を……」
口々に洩れる声に、胸が苦しくなる。
あの時のことを忘れるはずがない。
――僕は村の力になりたかった。
少しでも収穫を増やせるようにと、水路に積もった石や土砂を取り除いた。
水の流れをよくすれば、作物が元気に育つと思った。
けれど、それは浅はかな思い込みにすぎなかった。
村人たちが代々築いてきた水路は、流量まで緻密に計算されたものだったのだ。
僕が勝手に手を加えたせいで下流の畑が水に浸かり、おそらく収穫は激減したことだろう。
村の糧であり、同時に王国へ納める税でもあったのに。
杖をついた中年の男が前に出る。
その目には怒りではなく、深い恨みと諦めが混じっていた。
「……勇者リアン。お前が何をしたか、我らは忘れていない。
あれからというもの、新たに畑を開墾し、代わりとなる育ちの早い作物を植え付け……どれだけの家が迷惑し、どれだけの者が死に物狂いで働いたか……」
「……すみません」
喉が張り付いたように、それ以上の言葉は出てこなかった。
隣でアネッサが何か言いかける。
「ちょっと、それは――」
だがクラリスが小さく首を振り、彼女の腕を押さえた。
ノワールはただ静かに口をつぐんで、目を伏せている。
代わりにクラリスが一歩前に出た。
「リアンは、当時まだ未熟でした。善意からの行動でしたが、それが裏目に出てしまったのです」
続いてレオが小さな声で言葉を添える。
「彼はずっと後悔しています。その重みを、今も背負ったまま……」
最後にアイゼンが低く響く声で断じた。
「過ちを繰り返さぬよう、我々が共にある。安心していただきたい」
村人たちは顔を見合わせ、ざわめきが再び広がる。
許されたわけではない。
それでも、ただ拒絶するだけではなくなった空気があった。
中年の男は長く息を吐き出し、背を向けながら言った。
「……宿なら空いている。泊まりたいのなら使え。ただし――今度こそ、余計なことはするなよ」
背中が遠ざかっていく。
僕は深く頭を垂れ、その姿が見えなくなるまで顔を上げられなかった。
宿の一室に通されても、しばらく誰も口を開かなかった。
外から聞こえてくるのは、風に揺れる木の葉と、遠くで犬が吠える声だけ。
窓際に腰を下ろした僕は、視線を落としたまま固まっていた。
胸にこびりついた村人たちの眼差しが離れない。
彼らにとって、僕は未だに「過ちを犯した者」だ。
善意からだったなんて言い訳にすらならない。
重苦しい沈黙を破ったのは、アネッサだった。
「……ねえねえ、あたし思ったんだけどさ」
ぱんっと手を叩いてみんなの注目を集めると、にこりと笑って続ける。
「村のごはん、すっごくおいしそうだったよね! 干し肉もあったし、パンの香りも……あー、お腹すいてきた!」
あまりに唐突な言葉に、僕は思わず顔を上げる。
クラリスが呆れたように小さくため息をつき、けれど口元は少しだけ緩んでいた。
「アネッサ……もう少し空気を考えなさい」
「考えてるよ! でもあたしたち、ずーーーっと歩いてきたじゃん!みんなはお腹空かないの?」
アネッサは悪びれずに笑う。
すると、レオが小さく吹き出した。
「……確かに。たくさん歩いたもんね。せっかく宿を借りられたんだし、ご飯にしようよ」
アイゼンも腕を組んだまま、低い声でぽつりと添える。
「そうだな……食える時に食っておくのは大事だ」
重苦しかった空気が、少しずつ和らいでいくのがわかった。
僕も、口の端がわずかに動いた気がする。
ノワールがじっとこちらを見ていた。
その眼差しに責める色はなく、ただ「あなたはまだ歩ける」と言われているようで。
「……そうだな。今夜くらいは、よく食べて、よく休もう」
そう口にした時、ようやく胸の奥の重しがほんの少しだけ軽くなった気がした。
夕食は質素なものだった。
硬いパンに干し肉、薄いスープ。
決して贅沢ではなかったが、疲れた体には温かさが沁みた。
アネッサが「おいしいおいしい」と頬を膨らませて食べる姿に、みんなの顔も少しずつ和らいでいく。
クラリスも苦笑しながら彼女をたしなめ、レオとアイゼンもそれに応じるように小さく笑みを交わした。
ノワールは相変わらず無口だったが、時折アネッサを見て口元を緩めていた。
――ぎこちないながらも、少しだけ温かい。
そんな空気の中で食事は終わり、それぞれが床につく準備を始めた。
夜更け。
寝台に横たわっても、なかなか眠りは訪れなかった。
天井の木目をぼんやりと見つめながら、昼間の村人の顔が次々に浮かんでくる。
僕のせいで畑を失った人々。
王国への納税分は足りたのか。誰かが空腹に倒れはしなかったか。
想像するたびに胸の奥がきしむ。
――善意では済まされない。
あの時の僕は、ただ「役に立ちたい」という思いに酔っていただけだ。
知識も、理解も、責任もなかった。
けれど、それでも。
横になったまま、仲間たちの寝息に耳を澄ませる。
アネッサの無邪気な呼吸、クラリスの落ち着いた息遣い、レオとアイゼンの規則正しい寝息。
そして、ノワールのかすかな気配。
今ならわかる。
僕はもうひとりではない。
過ちを繰り返さないために、共に歩いてくれる仲間がいる。
「……もう間違えない」
小さく呟いた言葉は、闇の中に溶けていった。
それが誓いとなるように、胸の奥に深く刻みつけながら。




