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勇々戦記 ー勇者リアン、迷いと覚悟の旅路ー  作者: ヨルイチ
第一章 ノクティリア魔導国編
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第一話 旅立ち、そして魔導国へ

初投稿です。コツコツと趣味で書き溜めていたものを少しずつ投稿していきます。最初は世界観を知ってもらうために少し長めに投稿します。

第一章 ノクティリア魔導国編



 ――かつて、世界を創世した神がいた。神は海を創り、そこに大地を浮かべた。そしてまた別の神が大陸を創り、別の神が生命を創造した。光の女神エステルが創ったとされるこの大陸はエステリゼと呼ばれている。

 

 ここはエステリア神聖王国。この大陸でも最大の人口と国土を誇る大国だ。光の女神エステルがこの大陸に最初に創った国であると伝えられ、女神信仰の総本山でもある。僕が育ったこの王国は、光と秩序を重んじる国だ。城壁に囲まれた街、整然と並ぶ市場、規律を重んじる兵士たち——すべてが計算され、守られている。誰もが光の女神の加護を信じて疑わない世界だ。

この光景は美しい。国民はこの光の女神の加護のもと、日々を懸命に生きている。そんな生活を脅かす存在から王国を守る術を見つけるべく、僕は今日、国を出る。


旅立ちの準備は簡単だ。馬具を整え、荷物を背負い、剣を腰に下げる。それだけで、新しい世界へ踏み出せる。けれど、心の中は期待と不安でいっぱいだ。僕は本当に、僕が守りたいものを守る術を見つけられるだろうか。

城門の外には、まだ朝靄が薄く漂っている。石畳を踏むたびに、冷たい空気が肺を満たす。世界は広くて、予測できないことばかりだろう。それでも、僕は行くしかない。


「リアン様、大変な旅路になると思いますが、頑張りましょう」

クラリスの声が背後から届く。王国貴族の娘らしく、端正な笑みを浮かべている。でも、その目にはどこか計算された冷たさが混ざっているような気がした。


「ああ、頑張ろう」

僕は自然に微笑み、前を向いた。城門がゆっくりと開き、外の世界が広がる。ここから僕の旅は始まる——守りたいものを守れる力を得る、その旅が。



 僕が旅立つことになったのは、ただの思いつきじゃない。この国の王から授かった崇高な使命を帯びている。

王国は光と秩序を重んじる国だ。王都は城壁に囲まれ、石畳の街並みは整然としている。兵士たちは訓練を重ね、城門や市場には規律が行き渡っている。王国の掟は絶対で、人々はそれに従うことで平穏を保っている。

だが、王国にとって安穏は長くは続かない。北方の魔導国――魔人が統治すると言われる、禁忌の魔法を駆使して急速に力をつけているとらしいその国――は、王国にとって未知であり、脅威でもある。王国の宰相たちは口々にこう言った。「魔導国の魔人どもは異端で、恐ろしい力に溺れている。得体の知れない国だ。女神に愛されしこの国を脅かす存在などあってはならん」と。


王は未知への恐れと亜人への偏見を背景に、僕を外の世界に送り出した。


「リアン、お前には旅をさせる。その旅路は容易なものではないだろう。魔導国の状況を確かめ、必要な情報を持ち帰るのだ」

僕が黙って頷くと、王はゆっくりと振り向き、隣に立つ少女を指さした。


「この娘はお前の同行者だ。名をクラリスという。貴族の娘で、理知的で王国の理念に忠実な良い子だ。共に旅をしてもらう」


その名を聞いた瞬間、僕の視線は少女に向く。クラリス――長い金髪を揺らす美しい少女だ。白い修道服に身を包み、頭には繊細なベールが優雅に垂れている。手に持つ金色の杖が、彼女の凛とした雰囲気を一層引き立て、その神秘性を高めている。柔らかな笑顔と鋭い目が、近づく者を惹きつけながらもどこか近寄りがたい力強さを感じさせる。


「よろしくお願いします、リアン様」

微笑みに対し僕もぎこちなく微笑みを返す。クラリスの微笑みに感じた冷たさは、貴族特有の社交辞令のせいだろうか。

礼儀正しい声と柔らかな物腰に、初対面の緊張が混じる。


「クラリスは今代の聖女だ。回復魔法及び補助魔法において王国内でもっとも優秀な使い手であり、その洗練された所作や気高い精神は聖女に相応しいと私が推した。お前の旅の助けになるだろう」

 僕は思わず息を飲んだ。王国では三十年に一度、聖女を選定し信仰のシンボルとしている。創世の女神エステルの偶像として、信仰の対象をわかりやすくする狙いがあると言われている。そんな存在が僕と旅に出るなんて思いもしなかった。

 

「光栄ですわ、我が王よ」

 クラリスは恭しくお辞儀をしている。その所作も洗練されていて美しい。まさしく聖女だろう。


「そしてリアン。お前には勇者の称号を与える。お前の実力と正義の心はこの称号に相応しい。名に恥じぬ働きを期待しているぞ」

 内心ではひどく驚き、そして喜んだが事前にクラリスの対応を見ていたのでなんとか態度には出さずに済んだ。一人であれば取り乱していただろう。

 勇者。愛と正義に満ちた勇気あるものの称号。僕が目指していたものでもある。その称号を誇ると共に、この使命がどれだけ崇高なものか理解する。


「称号と共に、この剣を受け取るがよい。これは勇者にのみ授ける聖剣。女神エステル様が鍛えられた、その意思が宿ると言われる伝説の剣だ」


 震える手で聖剣を授かり、僕はこの使命がいかに重いものかを改めて実感する。神聖な雰囲気を持つ剣だ。女神の意思が宿ると言われているのも本当かもしれない。僕はこの聖剣に相応しい勇者になる、そう心の中で誓った。


「お前が念じれば剣は応え、輝きを放つ。その神々しい光はお前が勇者であるという証でもある。その光に負けぬよう誇り高い志を持ち、勇者としての使命を果たすのだ」


「拝命しました。全力を尽くします」

 深々と礼をし、玉座の間をあとにする。城を出て城下町を通り、城門まで歩く。到着したら気持ちを切り替えるように一度深呼吸をする。

いよいよ出発の時だ。

振り返れば、城の塔や城壁が薄明かりに染まっている。この城門を抜ければ、未知で恐ろしい世界が広がっている。そして、魔導国という強大な力と、それに絡む人々の運命も、僕の旅路に影を落とすのだ。

 城門の扉がゆっくりと開く。鋼鉄の軋む音が石畳に反響し、僕の胸の奥まで震えが走る。外の空気は冷たく、澄んでいた。城の中とは違う、生の世界の匂いが混ざっている。


「行きましょう、リアン様」

クラリスの声が僕の横で静かに響く。背筋の伸びた立ち姿、端正な笑み、けれど瞳の奥にはどこか計算された光を感じる気がした。


僕は軽く頷く。重い荷物を背負い、剣を腰に下げ、馬の手綱を握る。足取りは自然に前へと向かうが、心はまだ少し緊張していた。王国を出るのだ——もう後戻りはできない。


道は城外へと続き、石畳が砂利道に変わる。遠くに見える丘や森、畑や川が、城内で見慣れた景色とは違う景色を見せてくれる。これから待ち受ける村々、人々、そして困難——すべてが未知だ。


「……本当に、始まるんだな。僕の、――いや、僕達の旅が」

僕は小さく呟く。使命の重さを、ほんの少しだけ感じ始めていた。

クラリスは無言で馬を並べ、僕の横で歩調を合わせる。彼女は従順で礼儀正しい。勇者と聖女、まさに小さい頃に憧れた物語の一ページのようだ。これから待ち受けているであろう様々な困難も、彼女とであればきっと乗り越えられるだろう。そんな予感を胸に、僕たちは広がる世界へと一歩を踏み出した。


 城を出てしばらく馬を歩かせ、近くの村を通りがかる。

少し高くなった陽射しが村の屋根を照らす。僕たちは小道を進み、村の中心にある広場に差し掛かった。市場は小さく、店先には野菜や果物、鍛冶屋の道具が並ぶ。人々は慌ただしく働き、子どもたちは元気に走り回っている。


「おや、旅の方々ですか」

老夫婦が声をかけてきた。にこやかに手を振るその姿に、僕は思わず微笑む。


「はい、少しだけ村の様子を見せてもらおうと思いまして」

僕が答えると、老夫婦は安心したように頷いた。

その一方で、道の奥に視線を向けると、肩を落とした農夫が、子どもの手を引きながら家の影に隠れるように歩いていた。重い荷物を背負ったようにも見える。僕はその光景に息を飲む。秩序の中で、すべての人が満たされているわけではない——頭でわかってはいた。だが、そんな現実を目の前で見てしまった。


「……秩序の中にあっても、苦しむことはある。その苦しみから解放されるにはどうしたらいいんだろう」

思わず独り言のように呟く。答えはまだわからない。それでも、この旅で見て、考えて、行動して、自分の中で答えを見つけたい。


クラリスは横で静かに馬を進めている。表情は変わらないが、その佇まいから安心感を少しだけもらえる気がした。


僕たちは村を後にして、次の集落へと足を進める。笑顔の人もいれば、困惑や疲れた顔をした人もいる——それをただ見て、感じるだけでも、胸の奥がざわつく。

旅は始まったばかりだ。目の前の景色、触れる空気、聞こえる声——すべてが僕の問いかけになる。自分が信じられる正義を、この目で確かめるために。


 村の小道を進んでいると、子どもたちの叫び声が聞こえた。駆け寄ると、二人の子どもが市場の端で口論している。どうやら小さなパンをめぐる争いらしい。


「それ、僕のだ!」

「違うよ、私が先に手に取ったの!」


僕は思わず間に入り、両方の手を軽く止めた。

「落ち着こう、順番を守れば済むことだろう?」


子どもたちは僕を見上げ、もじもじしながら頷く。小さな秩序を保つのは簡単だ。ほっとする僕を横目に、クラリスが軽く微笑む。


「リアン様、こういう些細な争いも、見過ごすと大きな問題になることがありますね」

彼女の声は柔らかい。けれど、どこか冷静で計算された響きが混じっている。


「そうだね……些細なうちに争いを止められるならそれが一番だ」

僕が答えると、クラリスは小さく頷き、静かに馬の手綱を握り直す。


その先で、鍛冶屋の若い男性が背中を丸めてつぶやいているのが目に入った。「税が重すぎる。働いても働いてもちっとも暮らしがよくならない……」


僕は歩み寄って声をかける。

「どうしたんですか?」

男性は目を伏せたまま答える。

「別に何も。ただ、王国の掟に従って税を納めているだけ……でも、税が高すぎて家族を養うので精一杯だ。もう少し余裕があればなぁ……」


僕は何と返していいかわからず、ただその背中を見つめる。秩序に従うことと、人々を救うことが、必ずしも一致しない——その事実に、胸が重くなる。


クラリスが小さく口を開いた。

「人を守るための掟も、時には重荷になりますね。誰も責められないのに、誰も救われない――不思議なものです」


その言葉に、僕は思わず足を止める。表面上は穏やかで礼儀正しいけれど、言葉の端にわずかに、何か冷たい光が混じっている気がした。


「……正義って、どうすればいいんだろう」

僕は独り言のように呟く。クラリスは微かに笑みを返すだけで、答えはくれない。けれど、その沈黙の中に、何かを試されているような感覚があった。


 集落を見て回っていたら夕暮れ時となったので、僕達は宿を探すことにした。長旅で馬も疲れている。村の広場にいた村長らしい男に声をかける。


「こんばんは。こちらの村で一晩、宿を借りたいのですが」

村長は目を細め、少し警戒しながらも頷く。

「いいだろう。ただし、面倒は起こさないでくれよ」


「もちろんです。規則は守ります」

僕は笑顔で答えた。クラリスも馬の手綱を整えながら、静かに僕の横に立つ。


宿に着くと、僕は旅の疲れも忘れ、村人の畑のことを思い出していた。昼間、子どもたちの小競り合いを止めた。市場も少し手伝った。しかし心の奥には、もっと力になれることがあるのではないか、という思いが湧いていた。


「……水路の流れを整えれば、作物ももっと育つはずだ」

僕はそう考え、村人たちが使っている灌漑用の小さな水路を直すことにした。村人は高齢な者が多く、こういった重労働は大変だろう。土を掘り、石を動かし、流れを変える。クラリスは少し眉をひそめて見守る。


「リアン様……その水路、村人が長年管理してきたものですよ。勝手に変えると、予期せぬ被害が出るかもしれません」

僕はうなずく。けれど心の中では、村の作物がもっと育つ姿を思い描き、確信して行動を続けた。


夜になり、なにやら村人たちが集まっている。水路を整えたことを感謝されるとばかり思っていたが、思わぬ事態が明らかになった。流れを変えたことで、下流の畑が水没してしまったのだ。作物は根元から水に浸かり、収穫は大幅に減る見込み。村人たちは怒りと困惑で声を荒げる。


「なんてことをしてくれたんだ! これでは家族を養えない!」

「こんなことをして、今年の税はどうやって納めたらいいんだ!」

「……リアン様、正しいと思ってしたことでも、結果はどうなるかわかりませんよ」

クラリスは静かに馬の横で頭を下げる。

「村人の皆さんに迷惑をかけてしまいました……僕は、もっと考えるべきでした」

僕は自分の手を見つめ、胸の中で重苦しい感覚が広がる。

「もういい、元に戻すから畑に近寄らないでくれ!まったく、碌なことしないな……!」

 村人に追い払われた僕達は宿に戻ることにした。


僕はお世話になった村人の力になりたい、ただそれだけだった。この気持ちは正しかったはずだ。その思いがあったからこそ行動したのだ。しかし、正しいことが必ずしも正解ではないことを、痛感する。


クラリスは小さくため息をつき、やわらかく言った。

「リアン様……学ぶべきことが、今日は大きかったようですね。正義には、時として慎重さも必要なのです」


僕は黙って頷く。正しいと思うことをしたつもりでも、結果は誰かを苦しめることもある――それをこの村で、身をもって知ったのだ。


宿で寝床につきながら、僕は考える。なにが正しくてなにが正しくないのか――僕が正しいと思ったことが他の人にとってはどうなのか――自分の信じる正義が、本当に人々を救えるのか。答えはまだ出ない。しかし、この一件が、確かに僕の胸に刻まれた――旅の初めにして、重い学びとなったのだ。


 翌朝、僕達は公国へ向かうために出発する。村長に昨日のことを再び謝りたいと思ったが、会ってくれなかった。水没した畑のことが、頭の隅から離れない。宿を出る前から、村人の困惑した顔や怒りの声が、まるで昨日の出来事を反芻するように心に響く。


「リアン様……」

クラリスが静かに声をかける。馬の手綱を握りながら、少し眉をひそめている。

「昨日のこと、気にしているのですね」


「うん……。力になりたいと思ったのに、逆に迷惑をかけてしまった」

僕は小さく肩を落とす。正義を信じて行動したつもりが、結果的に村人を苦しめてしまった。胸の中の重みは、まだ消えない。


「正しいことをしたからと言って、必ずしも良い結果になるわけではありません」

クラリスは柔らかい声で言う。けれど、その言葉には、どこか冷静で計算された響きが混じっている。僕は頷くしかなかった。


村を離れ、馬道を進む。昨日まで見慣れた風景が少し遠ざかる。丘の向こうには、次の村や、公国へ続く道が続く。風が頬を撫で、草の香りが混ざる。けれど心の中の重さは消えず、足取りも自然と慎重になる。


「クラリス……僕は、この旅で正しいと思うことをしても、また誰かを傷つけるんじゃないかって不安だ」

僕は小声で呟く。クラリスは馬の横で静かに微笑む。


「不安になるのは当然です。ですが、学ぶことができるなら、それもまた旅の意味のひとつでしょう」


僕は黙って頷き、馬の手綱をしっかり握り直した。昨日の失敗が教えてくれたことを胸に刻みながら、ゆっくりと公国へ向かって進む――旅はまだ始まったばかりで、正義を貫くことの難しさを、これから何度も思い知らされるのだろう。


丘を越え、遠くに見える森や川を眺めながら公国へと続く道を馬で進んでいると、道端の草むらで、かすかな光の揺れが目に入った。最初は陽射しの反射かと思ったが、よく見ると、杖を手にした少年が、そっと小さな風の渦を生み出していた。


「……魔法?」

思わず僕は声を漏らす。クラリスも馬上で目を細めて見つめる。


少年は気づくと、一瞬びくっと体を引くようにして立ち止まった。驚きと少しの緊張が混じった表情だ。杖の先からは、小さく竜巻のような風が巻き上がり、土埃が舞う。


「あ、あの……」

小さな声で呟く。遠慮がちに、でも熱心に風の渦を操る姿は、控えめながらも魔法への強い興味が伝わってくる。


クラリスが馬の手綱を少し引き、静かに微笑む。

「……リアン様、珍しい光景ですね」


僕は頷き、慎重に近づく。

 銀髪が軽やかに揺れる若者だ。青いマントと白い服を纏い、手には古びているもののしっかりと手入れの行き届いた杖を持つ。黄金の瞳が知性と好奇心に満ち、魔法を扱う喜びに輝いているようにも見える。

「君……魔法を扱っているんだね」


少年は少し俯きながらも、ゆっくりと顔を上げる。

「え、ええ……。あの、見て……ください」

小さく杖を振ると、風の渦がもう一度巻き上がり、目の前の草をくるくると舞わせた。声は控えめだが、その目は熱心に光っている。


僕は微笑む。純粋な好奇心と、魔法への愛情が、控えめな態度の奥から伝わってくる。

「すごい……本当に上手だね」


少年は少し赤面し、言葉少なに小さく頭を下げた。

「……ありがとうございます」


僕は馬をゆっくり進めながら、心の中で思う。まだ何も話していないのに、彼の存在が不思議と印象に残る――旅の道中で、彼が僕にどんな影響を与えるのかは、まだ分からない。しかし、この出会いだけでも、何か新しい可能性を感じさせるものがあった。


クラリスも馬上で静かに僕を見ていた。

「気になりますね……あの子」

「うん……」

僕は小さく頷き、丘を越える風に顔を撫でられながら、静かに道を進めた。


 山道を抜け、ついに視界に現れたのは鋼鉄の門。岩を削って築かれた城壁が天を突くようにそびえ立ち、その表面には無数の鉄板や鎖が打ち込まれている。王国の白亜の城とは対照的に、ここは重く、実用一点張りの姿だ。


 ……これが公国。


 鉱石と鍛冶の国。王国が誇る騎士団の鎧も剣も、その多くがこの国から流れ出ている。

 僕が物心ついた頃から耳にしていた名の通り、この国は技術で栄え、技術で守られてきた。


 門前は活気に満ちていた。荷馬車の車輪はきしみ、鉄を背負った職人や兵士が行き交う。王国では珍しい無骨な武具を帯びる者も多く、辺りには金属の匂いが充満している。


 その人混みの中――ふと、見覚えのある背中を見つけた。

 小さな背中。あのどこか幼さが残る少し跳ねるような歩き方。道中で見た魔法好きの少年に違いない。

名は知らない。ただ、妙に印象に残っている。言葉少なに、自分の世界に閉じこもっているような雰囲気。ただそれだけのはずなのに、なぜか気になって仕方がない。


「……」


 声をかけることはしなかった。あちらもこちらに気づいた様子はない。ただ群衆に紛れ、黙々と城門の中へ入っていく。


「リアン様?」

 クラリスの声に振り返る。僕は小さく首を振り、彼女と共に門をくぐった。

 気づけば、あの少年の姿はもう見当たらなかった。


 

 門をくぐると、すぐに耳に響いてきたのは金属を打ち鳴らす音だ。カン、カンと途切れなく続き、街全体が工房のように思えてしまう。空気には煤と油の匂いが混じり、石畳を歩く足元を、奇妙な仕組みの荷車が行き交っていた。


「……なるほど、技術の国か」

 思わず口の中でつぶやく。見慣れないものばかりで、つい視線を右へ左へと動かしてしまった。

隣を歩くクラリスは、袖で口元を押さえながら小さく息をつく。

「王都とは、だいぶ違いますね……空気が落ち着きません」


 確かに、どこか落ち着かない。けれど、だからこそ僕は妙に胸が躍っていた。

とにかく、まずは宿を見つけないといけない。大きな通りを進めば中央の広場に出るはずだ。そこなら旅人向けの案内所もあるだろう。

僕はクラリスを促し、広場へと足を向けた。


  広場に出た瞬間、目を引いたのは真ん中にそびえる時計塔だった。大きな文字盤のまわりには歯車の飾りがついていて、重そうな針がゆっくりと動いている。人の流れも多くて、商人や旅人、兵士まで入り混じっていて、なんだか活気があった。

広場の一角に〈旅人案内所〉と書かれた看板を見つけた。扉を押して中に入ると、思ったより広くて、壁には地図や案内の紙がずらっと貼られていた。

宿屋の一覧に、浴場や温泉の場所、それから鍛冶屋や工房の紹介まである。依頼募集の掲示板まであって、旅人ならとりあえずここに来れば困らないようになっているみたいだ。

「へえ、便利だな」

 思わず小さくつぶやいてしまう。


 横を見ると、クラリスは袖で口元を押さえながら、少し眉をひそめていた。煤の匂いが気になるのか、それとも賑やかすぎるのが苦手なのか……そのあたりは分からない。

僕は掲示板の宿屋案内を眺める。広場のすぐそばに手頃な宿がいくつかあるらしいし、少し歩けば温泉付きの宿まであるらしい。


「さて、どこに泊まろうか……」

案内所の掲示板を眺めていると、背の低い男が声をかけてきた。立派な髭を胸まで伸ばし、分厚い手には油と煤が染み込んでいる。腰には小さな工具が何本も下がっていた。


「おう、旅の人か。宿を探してるんなら、東通りの〈石壁亭〉がいいぞ。飯もうまいし、風呂もある」


 低く太い声で、どこか親切そうに笑っている。僕が返事をするより早く、クラリスが一歩前に出た。


「結構よ。わたしたちは、人に紹介されなくとも宿ぐらい選べるわ」


 その声音ははっきりと冷たかった。相手の笑みが少し固まる。男がドワーフだと気づいて、ようやくクラリスの態度の理由が分かった。

王国で生まれ育った彼女にとって、亜人は決して対等ではない。王国では亜人などの人間以外の種族は奴隷として扱われているからだ。クラリスに染みついた考え方は、きっとそのせいだ。


「……ああ、そうかい」

 ドワーフの男は肩をすくめて、工具を鳴らしながら去っていった。

僕はなんとも言えない気持ちでその背中を見送る。


「別に、いい人そうだったじゃないか」


 ぽつりとつぶやくと、クラリスは振り返って眉をひそめた。

「リアン様、あのような者に心を許してはなりません。亜人は人間に従うべき存在なのですから」


 彼女にとっては当然のことなのだろう。でも、僕にはどうしてもその考えを受け入れられない。

僕は孤児院で育ち、そこには亜人の子どももいた。その後どうなったかは知る由もないが、たしかにあの子も友達だったのだ。だから僕は王国民にしては珍しく、亜人に拒否感がない。

同じ王国で育ったはずの僕とクラリスの間に、目に見えない大きな溝があることを、あらためて思い知らされた。


 僕はクラリスの言葉にすぐ返せなかった。彼女の表情には一切の迷いがなく、ただ「当たり前のこと」を述べているように見えた。


「……でもさ」

 胸のざわつきを抑えきれず、声を出す。

「同じように働いて、同じように生きてるのに、人間か亜人かで差をつけるのは、おかしくないかな?」


 クラリスはきっぱりと首を振った。

「おかしくなどありません。亜人は生まれながらに人間の下にある存在です。道具と同じです。物を使うのに理由がいらないように、わたしたちが亜人を使うのも当然のことなのです」


 さらりと口にされた言葉が、鋭い刃のように耳に突き刺さる。その声音には憎しみも怒りもなかった。むしろ無垢で、ただ「そう決まっている」と言っているだけ。

……だからこそ、余計に重く感じた。

僕は言葉を探したが、結局何も返せなかった。王国の中で育った彼女にとって、それは空気のような真実なのだろう。


 やがて小さく息を吐いて、無理やり話題を変える。

「……とにかく、今は宿だな」

掲示板を見やると、広場の近くに〈石壁亭〉という宿が載っていた。さっきのドワーフが勧めてくれた場所だ。少し歩けば温泉付きの宿もある。

掲示板を見ながら、僕はクラリスに問いかけた。

「ここから近い〈石壁亭〉ならすぐ休めるみたいだな。……ちょっと歩けば温泉付きの宿もあるけど、どうする?」


 クラリスは即座に答える。

「わたしは近くで構いません。王都の浴場に比べれば、所詮どこも大差はありませんし」


 淡々とした言葉に、やはり自分とはこれまで住む世界が違ったのだと再認識する。

「そっか。僕としては温泉も気になるけど……まあ、馬も早めに休ませたいし近い方がいいか」

僕は掲示板から目を離し、軽くうなずいた。

「よし、じゃあ〈石壁亭〉にしよう。近いし、疲れてるからな」


 クラリスも頷いて、扇のように広がる大通りを歩き出す。人通りの多い広場を抜け、石畳の路地を少し進むと、目的の宿が見えてきた。厚い石壁に囲まれた頑丈な造りで、扉の上には簡素な木の看板が掲げられている。


 中に入ると、木の香りと焼きたてのパンの匂いが漂ってきた。小さな食堂が併設されているらしく、客たちの笑い声が賑やかに響いている。


「……思ったよりいい雰囲気だな」

 僕は肩の力を抜きながら、受付に歩み寄った。

 受付には中年の宿主らしい男性が立っていた。がっしりした体格に分厚い前掛け。愛想の良い笑みを浮かべている。


「いらっしゃい、旅のお方。二人部屋をご希望かね?」


「ええ、今晩泊まれる部屋があれば」

 僕が答えると、宿主は大きな手で帳簿をめくり、すぐに頷いた。


「運がいいね。ちょうど空いてるよ。食堂も使えるし、朝は焼き立てのパンがつく」


 クラリスが小さく息をついたのがわかった。彼女は荷物を握り直し、視線を逸らしたまま無言で頷くだけだった。王国の令嬢らしい彼女には、こういう庶民的な宿は居心地が悪いのかもしれない。


 手続きを終えたあと、宿主が気さくに食堂を指差した。

「長旅だろう? まずは腹ごしらえしていきな」


 僕はありがたく頷き、クラリスを促して食堂に入った。中では木の長机に人々が集まり、煮込みスープの匂いが漂っている。ざっくばらんな笑い声が飛び交い、旅人と地元民が肩を並べている光景が、僕には少し心地よく思えた。


 僕達が席を空いてる席を探していると、ちょうど一人の青年が席を立つところだった。


「悪いな、よかったらここを使ってくれ。ここんとこ鍛冶場が忙しくてな、特に今日は飯なんて食う暇もなかったんだ。腹が減ってしょうがなくてさ」


気さくな口ぶり。僕より少し年上に見えるが、地味な外套のせいか、特に印象に残るような風貌じゃない。


「鍛冶場って……あの大きな工房のことですか?」

クラリスが問いかけると、青年は口の端を上げた。


「ああ。あそこは見応えがあるだろう? もっとも、腕は立つのに加減を知らない奴も多い。目を光らせてないと、炉ごと吹っ飛ばしかねないんだ」


「そんなに危なっかしいのか?」

僕が思わず口を挟む。


「真っ直ぐで熱い、いいやつらなんだけどな。ただ、まとめ役の骨は折れるよ」


軽く笑いながら卓に代金を置き、手をひらりと挙げて去っていった。


宿の主人が皿を片づけながらぼそりと漏らす。

「よく来るんだが、仕事のことはあまり口にしないんだよな。工房の連中からは妙に頼りにされてるらしいが」


僕はそれ以上気に留めず、クラリスと食事に向き直った。


 注文したのは、煮込みスープと焼きパン、それに小さなチーズの盛り合わせ。温かな料理が並ぶと、胃がほっと緩む。

「こういう素朴な味も、悪くないだろ?」とクラリスに声をかけるが、彼女は姿勢を崩さぬまま、短く「ええ」とだけ返した。


 食事を終えると、二階の部屋へ案内された。小さな窓と二つの寝台、木製の机と椅子があるだけの簡素な部屋だったが、清潔に整えられている。


「……これなら十分だ」

 僕は荷を下ろし、ベッドに腰を下ろした。柔らかな感触に、身体が思わず沈み込む。


 窓の外では、遠く鐘の音が響いていた。明日のことを考えるのは、それからでいい。今はただ、旅の疲れを癒すだけだ。

 

 夜は静かに更け、窓の外の山並みは黒い影に沈んでいた。ランプの柔らかな光に照らされる部屋で、僕は寝台に体を沈める。

公国までの道のりを、ぼんやりと思い返す。王国の平原を抜け、険しい山道を越え、この要塞都市に辿り着いたのは、想像以上に疲れる旅だった。

途中で出会った少年のことも、ふと思い出す。名前も知らない子だけど、顔だけはしっかり覚えている。小柄で控えめそうな表情の彼は、魔法を使うと目をキラキラ輝かせ、嬉しそうに小さな風魔法を操っていた。葉や埃をひらひらと舞わせ、楽しそうに笑っていたのだ。

公国で魔法に夢中になる子は珍しかった。ほんの短い間しか会わなかったのに、あのキラキラした瞳だけは、僕の記憶に鮮明に残っている。

隣の寝台では、クラリスが昼間の気丈さを忘れたかのように静かに眠っている。小さな寝息を立てる姿を横目に、僕はため息をつき、天井を見上げた。


「……明日は、少しだけ公国の街を歩いてみるか」

 独り言のように呟き、僕は目を閉じた。


 

 朝の光が窓から差し込み、部屋の木の床を淡く照らしていた。クラリスは既に起き、髪を梳かしていた。僕も布団を抜け、身支度を整えた。

 宿の扉を開けると、外はすでに街のざわめきで満ちていた。石畳の道には商人の声、工房の金属音、行き交う人々の笑い声が混ざり合っている。山岳国家らしい石造りの建物が立ち並び、屋根の上には複雑な歯車や煙突が目を引いた。


「……すごい街だな」

 思わずつぶやく。クラリスも小さく頷くだけで、周囲を観察している。

僕たちは広場を抜け、街の大通りへ足を進める。道端には小さな工房や店が並び、亜人の姿もちらほら見かける。王国とは違う、混ざり合った空気が新鮮だ。

 もっと見て回りたい気持ちはあるが、僕には大事な使命があるので長居はできない。街の通りを歩き、必要な補給を済ませることにした。食料や水はもちろん、長旅に備えた簡単な道具も揃えておきたい。小さな雑貨屋では、乾燥肉や保存の利くパン、簡単な薬品などを手に入れ、鍛冶屋では折れやすい矢や刃物を確認しておく。


 クラリスは淡々と必要な物を見極め、僕はその傍らで声をかけながら買い物を進める。観光する時間はないけれど、公国の街を歩きながら、山岳国家らしい石造りの建物や、煙突から立ち上る白い煙に、少しだけ旅の気分が和らぐ。


 途中、道端で小さな子どもや亜人の働き手の姿をちらりと見かける。そういえば、あの魔法好きの少年もこの国の国民なんだろうか。ふと思い出し、後ろを振り返るがもちろんその姿はない。

 必要なものを全て揃えた僕たちは一旦宿に戻る。荷物をまとめ、簡単に休息を取ったあと、厳しい山道へと向かう準備を整える。


「よし、これで大丈夫そうだ」

 僕はクラリスに声をかけ、窓の外の街並みを一度目に焼き付ける。ここで補給できたことは、大きな助けになるはずだ。

国の正門へ向かう石畳の道を歩いていると、前方で騒ぎが起きていた。

小柄な少年が杖を手に、風の魔法を試していた。しかし、制御を失った魔法が屋台の布や干してある洗濯物に触れ、舞い上がる。通行人は後ずさり、荷物を抱えて避ける。屋台の主人は眉をひそめ、怒声を上げる。

少年は目を大きく見開き、体を小さく震わせながら、杖を必死に握り直す。目には焦りと困惑が入り混じり、魔法を楽しむ時に見せるあのキラキラした瞳はどこにもなかった。縮こまった姿で、ただ暴走する魔法を収めようと必死になっている。


「なんだ、あの魔法は! 触れるな!」

 通り過ぎる人々は避けるだけで、誰も助けてはくれない。少年の小さな声がかすかに聞こえる。

「す、すみません……!」


 僕は足を止め、少年の杖をそっと押さえながら声をかけた。

「落ち着け、まずは風を一点に集中させるんだ!」


 少年は深く息を吸い、手を動かすが、まだ魔法は暴れている。縮こまった体に、不安と必死さが見える。街の人々に受け入れられず、魔法を使うこと自体が異端とされる公国の現実――それが少年をさらに小さくさせていた。

僕は少年の杖を押さえつつ、声をかける。

「落ち着け。焦ると魔力はもっと暴れる。まずは、渦を一点に集中させるんだ」


 少年は小さくうなずき、手を震わせながら杖を握り直す。縮こまった体に力を込め、必死に指示に従おうとするが、まだ魔法は暴れている。


「大丈夫、僕が少しだけ手伝う」

 僕は杖の先端に触れ、舞い上がった布や荷物を押さえつつ、風の渦の形を整える。少年の小さな手と僕の手で、魔法は次第に収束し、空中を舞っていたパンや布は無事地面に落ちた。

人々はまだ距離を取ったまま、息をひそめて見守る。少年の顔は真っ赤で、肩を震わせながらも、ようやく杖を下ろすことができた。

僕は微笑んで言った。

「ほら、大丈夫だ。焦らなければ、制御はできる」


少年は深く息をつき、小さく頷く。その目には、まだ魔法で遊ぶときのキラキラはない。怖さと安堵が入り混じった、縮こまったままの目だった。

少し離れたところから、両親らしい夫婦が駆け寄ってくる。母親はほっとした表情で手を合わせ、父親は静かに礼をした。

「ありがとうございます……うちの子がご迷惑を……」

 リアンに礼を言ったあと、父親は周囲にも謝罪をし、汚れてしまったパンを買い取っている。


「いえ、このくらい勇者として当然ですよ」

 本当に特別なことをしたとは思っていない。これは正しいことだったんだと少しだけ安堵する。

少年はまだ恥ずかしそうに目を伏せているが、僕の袖をそっと指先でつまみ、安心したように小さく息をついた。

僕は杖を彼から離し、静かに笑う。

「まずは、魔法を焦らず制御することが大切だ。無理に止めようとしなくていい」


 街の人々は依然として距離を取るものの、少年の両親は、少し安心した表情を浮かべていた。

「本当にお世話になりました。もしよければ、少し家で休んでいってください。今日のことは驚かせてしまいましたが……」


 トラブルのおかげですでに太陽は一番高いところを過ぎている。この時間に旅立ったのではあまり進めずに野宿になるだろう。それならばいっそ、出発は明日に延期しようとクラリスと話し合った。

 僕たちはその申し出に従い、少年の家へ向かうことにした。街を抜けると石畳は土の小道に変わり、低い木々や小さな畑が並ぶ景色が続く。山の斜面を少し歩くうちに、街の喧騒は遠くなり、静かな風の音だけが聞こえる。


 少年は杖を両手で抱え、肩を少し縮めながら控えめに僕たちを自宅まで案内する。時折手元で小さな風の魔法を試すが、前回のように暴走することはない。僕とクラリスは距離を取りつつ、彼のペースに合わせて歩く。


 両親は先に家に着いていた。母親が笑顔で迎え、父親も静かに礼をする。家の扉を開けると、暖炉の火がゆらめき、木の香りが広がった。少年は少し縮こまったまま僕たちを迎えるが、控えめな笑みを浮かべている。


 母親が微笑みながら紹介する。

「こちらが私たちの息子です。名前はレオ。今年で十五歳になります」


 レオは小さく頭を下げ、声も控えめだ。

「……よろしくお願いします」


 父親も静かに礼をした。

「今日のことは本当に助かりました。ありがとうございます」


 僕は肩をすくめて微笑む。

「大事には至らなかったし、これから少しずつ魔法の制御も慣れていくと思いますよ。魔法は使うほどに上達していきますから」


 母親はほっとした表情で、僕たちに食事を勧める。

「どうぞ、まずはお腹を満たしてください。旅の途中でしょうし、今日はここでゆっくりしていってください」


 家の中で、暖かい食事を囲みながら、僕とクラリスは少しずつレオとの距離を縮める。控えめで物静かな少年だが、魔法の話になると熱心に語り、小さな手で杖を軽く握り、楽しげに説明してくれる。

 食後、母親が言う。

「今から宿を探すのは大変でしょう。今夜はどうぞ、こちらで一泊してください。レオもあなた方と話しているととても楽しそうで……」


 僕は微笑んで頷いた。

「じゃあ、今日はお言葉に甘えさせてもらいます。いいかい、クラリス?」


 クラリスは無言で頷く。彼女もこの時間から宿探しはしたくないのだろう。


 レオは少し顔を赤らめながら、嬉しそうに小さく喜ぶ。控えめながらも、魔法に対する熱意と落ち着いた性格が、ますます印象に残った。


 夕食の後、暖炉の前で少し落ち着いた頃、僕はレオと並んで座った。控えめな少年は、まだ少し肩を縮めている。それでも魔法の話をするときは目をキラキラと輝かせて楽しそうに話す。その様子を微笑ましく思う。


「今日は楽しかったよ、ありがとう。それに君が無事でよかった」

 僕が言うと、レオは小さく笑みを返す。

「はい……でも、僕、もっと魔法を上手く使えるようになりたいです」


 彼の瞳に、昼間のような焦りはない。落ち着いた目で、でも熱意が宿っている。その姿を見ると、公国内での扱いがいかに窮屈だったか、想像せざるを得なかった。

 

 夕食が済み、暖炉の火が揺れる居間で、僕たちは静かに座った。控えめなレオは、まだ少し肩を縮めている。母親が深く息をつき、僕とクラリスに視線を向けた。

「実は……お願いがあります」


 父親も静かに口を開く。

「レオを旅に連れて行ってほしいのです。公国内では魔法を学ぶことが難しく、肩身も狭い。あなた方なら、安全に、そして自由に学ばせてやれると思いました」


 僕の胸はざわつく。十五歳の少年を、しかも僕たちだけで旅に連れ出す――危険は避けられない。荒れた山道、野宿の夜、魔物の影、病気や怪我――頭の中に不安が渦巻き、言葉が出ない。

クラリスも眉をひそめ、声を低くした。

「……旅の危険は無視できません。無理に連れて行くことは、彼にとって本当に幸せなのでしょうか」


 母親は視線を落としつつも静かに頷く。父親の声には迷いはなく、熱意がにじむ。

「クラリス殿もご理解ください。公国内では、レオが自由に学ぶことは叶わない。どうか、彼を見守ってやってください」

 

 僕は昼間のトラブルを思い出す。縮こまっていたレオが、魔法を扱うときだけ目を輝かせていたあの姿。あの目を無視することは、僕にはできない。

クラリスもまた、両親の切実さに心を揺さぶられている。眉を寄せたまま、しばらく沈黙していたが、やがて小さく息をつき、視線を落とす。

「……わかりました。あなた方の願いがそこまで強いのなら、私は反対しません。リアン様、どうしますか?」


 その言葉に母親は微笑み、父親も肩を震わせてうなずいた。控えめながらも、クラリスの折れた様子には、両親の熱意がいかに深いものだったかが伝わる。

僕は深く息をつき、心の中で迷いと不安を整理する。縮こまっていた少年が、魔法を扱うときだけ見せた輝き――あの目を守るためなら、旅に連れ出すしかないと決意した。


「……わかった。君を連れて行こう、レオ」


 レオは驚きの声を上げ、目を大きく開く。

「えっ……僕が? 本当に?」


 僕が頷くと、クラリスも控えめに微笑む。

「旅の仲間として、できる範囲で力を貸します」


 少年は小さく頷き、喜びとわずかな不安を胸に抱えつつ、少し前のめりになる。両親と離れる寂しさも、その笑顔の奥にちらりと見え隠れしていた。


 その日の夜、レオと両親は数年ぶりに一緒に寝ることになった。母親は手をそっと彼の肩に置き、父親は頭を軽く撫でる。レオは控えめながらも、両親の深い愛情に包まれて安心して布団に入る。暖かく静かな夜は、少年への思いやりと愛情で満たされていた。


 翌朝、柔らかな光が街を照らす中、僕たちは荷物を整え、家を出る。レオは両親に別れの挨拶をするため立ち止まった。


「行ってくるね。……必ず、帰ってくるから」


 母親は目に涙を浮かべ、肩を震わせる。父親も声を詰まらせ、静かに言葉を重ねる。

「約束よ……必ず戻るのよ」

「寂しくなるな。だけど、お前ならきっと大丈夫だと信じているよ」


 レオは胸を張り、控えめながらも力強い目で両親を見つめる。両親の表情には、誇りと愛情、そして息子を手放す寂しさが同時に映っていた。


 僕とクラリスは隣で静かに見守る。縮こまっていた少年はもういない。肩を張り、胸を張って歩く後ろ姿に、成長と決意を感じる。僕たち三人の旅は、こうして始まった。

 

 家を後にし、石畳の道を歩く。朝の光が街の屋根や石壁を淡く照らし、穏やかな空気が流れている。レオは両親と別れたばかりで、少し背中を丸めながらも、胸には小さな決意が宿っているのが見て取れた。

僕は荷物の重さを感じながらも、自然と視線は彼に向いていた。昼間のトラブルも、夜の話し合いも、すべてが彼を守る責任を僕に実感させていた。クラリスも静かに横を歩き、控えめながらも仲間としての意思を示している。


 城門が見えてくる。大きな石造りの門は、朝の光に照らされて堂々とした影を落としていた。だんだん街の喧騒から遠ざかり、公国の外へと続く道が現れる。

 これまで旅の助けになってくれた馬はここで手放すことにした。よい飼い主が見つかったのだ。ここから先は道が険しくなるうえ、三人分の馬はいない。これからの幸福を祈り、馬を引き渡す。

 

レオは立ち止まり、振り返る。遠くに両親の姿は見えないが、彼の目には別れの寂しさと、再会の約束への決意が混ざって光っている。小さな肩がわずかに震え、息を整えて前を向いた。


 僕はそっと声をかける。

「行こう、レオ。きっとまたここに戻ってこよう」


 レオは控えめに頷く。微かな笑みを浮かべ、少しずつ歩幅を揃えて前に進み始めた。クラリスも隣で、静かに視線を前に向ける。

城門を抜けると、遠くに緑の丘陵と、これから越える険しい山々が見えてきた。旅路の先はまだ見えない。だが、僕達の足取りは確かで、希望と少しの不安を抱えながらも進む決意が伝わってくる。

朝の冷たい風が頬を撫でる。レオの胸がわずかに上下するのが見える。公国内で縮こまっていた少年が、今は自分の力で道を進もうとしている。僕は心の中でそっと呟いた。

「大丈夫、レオ。僕達が一緒だよ」


 空は淡い青に染まり、石畳の道を照らす。三人の影が長く伸び、未知の旅路へと重なっていく。これが、僕たちの新たな一歩だった。


 しばらく歩くと、周囲には小川や林が現れ、公国はすっかり見えなくなった。朝の光は木々の葉を透かし、斑入りの影を僕たちの前に落としていた。

レオは少し慎重な足取りで歩く。背中を丸めながらも、時折立ち止まり、風に揺れる葉や小石の上をそっと風で浮かせて試すように魔法を使う。その目には昨日のトラブルのときとは違い、ほんの少し自信と楽しさが見え隠れしていた。

クラリスは横を歩きながら、時折僕の顔をちらりと見ては、控えめながらも僕の判断を気にしている様子だった。険しい道に差し掛かるたび、彼女は軽く眉を寄せ、歩幅を調整して慎重に進む。

僕は荷物の重さを感じながらも、二人のペースを確認する。レオが無理のない速度で歩けているか、少しでも疲れていないかを気にかけながら、僕も前を向いて進んだ。


 途中、小さな丘に差し掛かった。眼下には緑の谷間が広がり、遠くに次に越える山々の稜線がうっすら見える。レオはその景色に立ち止まり、控えめに息をつく。風に少しだけ吹かれながら、木の葉を軽く揺らす小さな魔法を試してみる。力を抑えているのか、目を輝かせることはなかったが、彼なりに魔法を使う喜びを噛みしめているように見えた。

昼の光は次第に柔らかくなり、丘陵を抜ける頃には、道の両側に低い草原が広がっていた。野宿の準備を想定しながらも、しばらくの間、僕たちは会話を交わす。


「風が気持ちいいね」とレオ。声は控えめだが、少しだけ笑みが浮かぶ。

「無理しなくていい。あなたのペースで」とクラリス。慎重さを忘れずに、優しい声で言う。

「うん、ありがとう」レオは小さく頷く。


 こうして僕達は、次の休息ポイントを目指して歩き続ける。木漏れ日が揺れる森、そよぐ風、時折聞こえる鳥の声。旅の初めはまだ穏やかで、しかしその先に待つ険しさをほんの少しだけ予感させていた。


 やがて森の端に小さな平地が現れる。ここなら野宿に適していると判断できる場所だ。僕たちは荷物を下ろし、簡単にテントや寝床を整える。レオは荷物を置き、キャンプの設営を手伝ったのちに魔法の小さな応用を試す。危険を避けながらも、自分の力を確かめる少年の姿に、僕は小さな安心を覚えた。

野宿の平地にテントを張り、荷物を整理し終えると、空はオレンジ色から深い藍へと移り変わっていた。小さな焚き火の周りに座り、僕たちはそれぞれの荷物や道中の話を軽く交わす。

レオは少し控えめに、小さな魔法で焚き火の火花をそっと風に舞わせて遊んでいた。その目には、昼間のトラブルのときとは違い、楽しさというよりも、まだ慣れない場所への不安感と小さな好奇心が混ざっているように見える。


 クラリスは、普段どおりの無表情で冷静な顔を保ちながらも、彼の動きをちらりと見ては、そっと眉を寄せる。その仕草から、少しだけ気にかけているのがわかる。

「……火の扱いには気をつけなさい」と、控えめに声をかけるクラリス。言葉は簡潔だが、少年に対する配慮がにじむ。どうやらクラリスはレオをずいぶん気にかけているようだ。

 僕は横でその様子を見て、自然と声をかけた。

「無理しなくていいよ。君のペースで」


 クラリスは一瞬、驚いたように僕を見る。普段なら誰に対しても感情を見せない彼女が、こうして僕を意識してくれていることが伝わる。わずかに肩の力が抜けたように見え、目の端に微かな柔らかさが浮かぶ。

「……はい。お気遣いありがとうございます、リアン様」


「前から思っていたんだけど、そんなにかしこまらないでくれ。僕達は同じ旅の仲間だろ?」

 少し困ったように笑いながら言ってみる。こうしてややくだけた感じで言ったほうが聞いてくれるのではないかと思ったからだ。


「………わかったわ、リアン。これでいい?」

 

 知り合った頃の彼女であれば絶対にここで態度を変えたりなどしなかっただろう。この旅の中で、彼女も貴族の娘ではなくクラリスという一人の人間に変わりつつあるのかもしれない。

僕はその変化を感じ、心の中で小さく安心した。クラリスの冷静な判断力は変わらないが、僕の気遣いを受け入れ、少しだけ心を許してくれた――そんな瞬間だった。


 焚き火の光が三人の顔を柔らかく照らす。レオは控えめに火を揺らす手を見つめ、クラリスは時折彼に視線を送る。僕は、二人の間に微妙な距離を保ちながらも、安心できる雰囲気が生まれていることに気付く。

夜が更け、風が少し冷たくなってくる。僕は横で、クラリスが普段見せない小さな気遣いをレオに向ける姿と、その反応を見せてくれることに、心の中でそっと微笑む。

この夜、僕達はまだぎこちないながらも、互いの存在を少しずつ意識し始めた。クラリスは僕への信頼をわずかに示し、僕はその気配を感じ取りつつ、これからの旅で彼女と共に歩む決意を新たにする。


 

  朝の光が森の隙間から差し込む。焚き火の名残は灰となり、静かな朝の空気に溶けていった。レオはまだ少し眠そうな目をこすりながら、控えめに荷物を整える。クラリスも普段通り冷静だが、昨日までとは違ってわずかに柔らかい表情を見せていた。


「そろそろ出発しよう」

 僕が声をかけると、二人は頷き、テントを畳みながら準備を整える。森を抜ける道は、昨日よりも少し険しくなり、岩や根の張る道が続く。

歩き始めてしばらくすると、周囲の木々の間に不自然な影が動いた。低く唸るような声が聞こえ、風に乗って獣の匂いが漂ってくる。


「……あれは?」

 レオが小さく呟き、体を固くする。僕も足を止め、視線を凝らした。


 枝の間から現れたのは、中型の魔獣――鋭い牙と爪を持つ狼に似た生き物だった。森の中で狩りをしていたのだろう、目が赤く光り、低い唸り声を上げてこちらに向かってくる。


「気をつけろ、来る!」

 僕は声を張り、剣を手に構える。クラリスも魔法陣を描き、慎重に術の準備をする。レオは少し後ろに下がりながらも、風魔法で周囲の葉や小石を制御して獣の動きを封じようとする。

狼型の魔獣が跳躍してくる。僕は咄嗟に剣を振り、鋭い爪を受け止める。衝撃で腕が震えるが、反撃の余地を作るために踏み込む。

クラリスが呪文を唱え、地面に薄く光の障壁を展開する。魔獣は一瞬動きを止め、鋭い爪を跳ね返される。レオも小さく手を振り、風を集めて魔獣の足元の土を舞い上げ、視界を遮る。


 僕が攻撃を仕掛け、クラリスが支援し、レオが補助する。僕たちのチームワークはややぎこちないながらも的確だった。魔獣は混乱しつつも、なお牙をむき出しにして突進してくる。


「これで終わりだっ!」

 最後に、僕は剣を高く掲げ、踏み込みながら一閃。刃が魔獣の肩を斬り裂き、力尽きて倒れる。息を切らしながらも、三人は互いを見やる。


「大丈夫……?」

 僕が確認すると、レオはまだ少し青ざめた顔で頷く。

「……う、うん。なんとか」


 クラリスも小さく肩をすくめ、声は冷静だがわずかに安堵の色が混ざっていた。

「驚いたわね。でも、問題はなかったわ」


 僕は深く息をつき、荷物を整えながら魔獣の死骸に目をやる。道中の初めての戦闘は、予想以上に緊張感があったが、同時に三人の力と連携の手応えも感じられた。

レオは少しだけ胸を張り、魔法を使う手を止めて周囲を見渡す。昨夜の不安はまだ残るが、少し自信を取り戻した様子が見て取れる。クラリスも背筋を伸ばし、冷静さを取り戻す。

こうして、三人の旅は初めての試練を経て、さらに先へと続いていった。次に何が待ち受けているかはわからないが、少しずつ、僕たちは互いの力を信頼し始めていた。


 

 森を抜けた後、僕たちは軽く休憩を取るとすぐに歩き始めた。道は昨日よりも険しさを増し、岩や根が張る山道が続く。魔導国までは順調に進んでもあと六日ほど。焦ることはないが、進めるうちに少しでも前へ進もうと、僕達は黙々と歩を進めた。

道中、森の緑は徐々に色を変え、低い草原や点在する小さな岩山が目立つようになっていく。風が乾き、空気に少しひんやりとした匂いが混じる。昼間の光は強く、影がくっきりと伸びる。レオは相変わらず控えめに魔法を小さく扱い、時折風を利用して転がる小石を動かして遊ぶような仕草を見せるが、目の輝きは昨日よりも落ち着いている。クラリスも普段通り冷静だが、時折僕の動きやレオの様子を確認するように視線を送る。


 日数を重ねるにつれて、景色はさらに変わってきた。木々は少なくなり、代わりに岩山と荒れた地面が広がる。空はより高く、雲の流れも速くなり、遠くの山々は尖った稜線を見せ始める。風の音が乾いた岩に反響し、今までの森や草原とは違う雰囲気を醸し出している。


 歩き続けるうちに、魔導国まで残り一日ほどの地点に差し掛かる。視界の先には、奇妙な光を帯びた岩肌や、ところどころに魔力を感じさせる植物が現れるようになった。道の両脇に見える小さな渓谷や岩の裂け目からは、風が強く吹き抜け、空気に軽い震えを感じさせる。

僕は歩きながら、三人の気配を確認する。レオはやや疲れを見せつつも、目を伏せて黙々と歩く。クラリスは影を落とす岩を避けながら、時折僕に視線を送る。彼女のその視線には、慎重さだけでなく、あの夜のわずかな心の開きが残っているように見えた。


 こうして進むうちに、魔導国の領域が近づいていることを、僕たちは肌で感じ始めていた。景色は荒涼としたものに変わり、空気には魔力の気配が混じる。次の一日で、僕たちは未知の国――魔導国――の入り口に足を踏み入れることになる。

 

 山道を歩きながら、荒涼とした岩山の稜線を見上げる。風が強く、砂塵が目に入りそうになる。魔導国の気配は、もう肌で感じられるほど近づいていた。

突然、岩の裂け目から獰猛な魔獣が飛び出した。鋭い牙と爪をむき出しにし、全力でクラリスに襲いかかる。


「クラリス、下がれ!」

 叫ぶ僕の声も届かないほど、魔獣の勢いは圧倒的だった。クラリスは慌てて魔法陣を描こうとするが、魔獣の勢いに怯み、尻餅をついてしまう。

刹那、僕は剣を振りかざして飛び込むが、距離が遠すぎて間に合わない。クラリスは術を発動させる間もなく、必死に攻撃を避ける。魔獣の爪が肩をかすめ、彼女の肩口に血が滲む。魔獣は再びクラリスに狙いを定め、すぐさまとびかかる。

その瞬間、レオが魔法を発動。周囲の風を急速に集め、強力な竜巻のような風圧を生み出す。砂と小石が舞い上がり、魔獣の視界を遮り、跳躍の勢いを奪う。風に押され、魔獣は体勢を崩し、クラリスへの攻撃はかろうじて逸れた。


 クラリスは地面に膝をつき、息を切らしながらも必死で魔法陣を完成させ、魔獣の動きを封じる。僕も踏み込み、剣で止めを刺す。魔獣は倒れ、静寂が戻った。

クラリスの肩には薄く血が滲み、髪は風で乱れている。目にわずかに恐怖の色が残る。レオが彼女に駆け寄り、手を差し伸べる。クラリスはまだ膝をつき、肩にはかすかな傷が血で滲んでいる。呼吸は乱れているが、目には安堵の色が浮かんでいた。


「……レオ、ありがとう」

 クラリスは震える声で言った。普段は決して口にしない言葉だ。レオは少し顔を赤らめながら、控えめに微笑む。

「う、ううん……無事でよかった」

 声は小さいが、確かな誇りと達成感がにじんでいる。彼の目には、魔法で誰かを守れた喜びが確かに宿っていた。


 僕もクラリスの肩に軽く手を置き、傷口を確認する。

「大丈夫か、痛みは?」

 クラリスは小さく頷き、手で肩を押さえながらも、杖を握る手は緩めない。

「……大丈夫。少しだけ痛むけれど、歩けるわ」


 荒れた山道を前に、僕たちは互いに軽く視線を交わす。魔導国はもうすぐだが、今日は無理をせず最後の夜をこの近くで過ごすことにした。


 風が少し和らぐ場所を見つけ、簡単に焚き火を囲んでキャンプを張る。クラリスは座り込むと、レオが差し出した水袋で肩を拭い、わずかに表情を緩めた。

 レオはまだ少し緊張しているが、さっきの戦闘で得た自信のせいか、手元の魔法を軽く弄びながら、微かに笑みを見せる。


「今日のこと…本当に助かったわ。二人ともありがとう」

 クラリスの小さな声が、焚き火の揺らめきに重なる。僕はその声を聞き、少し心が温かくなるのを感じた。


 こうして僕達は、魔導国の入り口を目前に控え、最後の夜を共に過ごす。険しい道と緊張の連続だった一日を終え、互いの力と信頼を確認した夜――それは、これから待ち受ける未知の世界への小さな準備でもあった。

焚き火の炎が揺れる岩陰に僕たちは腰を下ろした。クラリスは肩の傷を押さえつつ座り込み、レオはそっとその隣に腰を下ろす。火の光が二人の顔を柔らかく照らし、冷たい山風に吹かれながらも、静かで落ち着いた時間が流れていた。


「……痛み、少しは落ち着いた?」

 レオの声は控えめで、ほんの少し緊張が混ざっている。クラリスは手元の水を見つめながら小さく頷き、肩に触れそうな手をそっと動かす。普段の冷静で凛とした表情とは少し違い、ほんのわずかに柔らかさが滲む。

二人の距離は自然でありながらも、肩が触れそうになると互いに一瞬目線を逸らす。火の明かりが揺れるたび、クラリスの髪が風にかすかに揺れ、レオの目がそれに追随するかのように、瞬間的に光を反射した。手元や肩の位置を互いに意識する様子に、ぎこちなさと同時に、ほんのわずかに甘酸っぱい空気が漂っている。

レオは水袋をクラリスに渡す時、少し指先が触れそうになり、二人は一瞬手を止めて視線を交わす。クラリスの顔には驚きと戸惑いが微かに走り、レオも目を伏せながらも、その視線の先にある彼女の存在を意識しているのがわかる。


 火を囲む距離で、二人はぎこちなくも互いを気遣う仕草を続ける。言葉は少ないが、肩越しに伝わる空気や、ささやかな手の動きに、互いの関心とほんのわずかな親近感が感じられた。クラリスの普段の冷静さと強さの影に隠れていた人間らしさが、今夜は少しだけ見え隠れする。


 僕は少し離れた焚き火の向こうから、その様子を見守る。微かに笑みを浮かべながら、二人のわずかな距離感と初々しいやり取りを温かい心で受け止める。緊張の続く旅路の中で、こんな穏やかな時間が流れるのは貴重で、見ていて微笑ましい。

夜風が山の匂いを運び、焚き火の炎が揺れるたび、二人の影も揺れ、距離感の微妙な変化を示す。魔導国は明日、もうすぐだ。しかし今夜は、火の周りで互いの存在を静かに意識し合いながら、ほんのわずかに甘酸っぱい時間を分かち合う、そんな夜だった。


 夜明け前の山風は冷たく、焚き火の名残の灰が微かに舞う。クラリスは肩の傷を軽く押さえながらテントから顔を出し、レオもまだ眠そうな目をこすりつつ、静かに身支度を整えていた。僕は二人の様子を確認しながら、日課の素振りを終える。

朝の光が山の稜線を照らすと、岩肌の荒々しさが一層鮮明になる。緑の森はすっかり消え去り、代わりに険しい山岳地帯が続いている。魔導国はもうすぐ、空気の奥に異様な気配が漂っていた。

 

 三人で肩を並べ、最後のキャンプ地を後にする。歩き始めたばかりの時、クラリスはまだ少し痛そうに肩を押さえていたが、レオはそっと彼女を気遣いながら進む。言葉は少なく、互いの呼吸や足取りからそれぞれの心配や思いを感じ取る。

道中、岩の間を抜けるたびに風が強く吹き付け、砂塵が舞う。けれど、三人で歩く足取りは確かで、互いの存在を頼りにしながら前へ進む。レオは朝の光に照らされる岩を見つめ、小さな風魔法で砂塵を払う。その手つきには、昨日の勇気の余韻と、少しだけ自信が混ざっていた。

昼を過ぎる頃には、山道はさらに険しくなり、岩の合間からは魔導国独特の陰影が見え始める。空気がひんやりと重く、これまでとは違う異様な雰囲気が漂う。僕たちは自然と足を止め、互いの装備や体調を確認する。クラリスは傷に触れながらも、険しい表情で前を見据えている。


 そして、ついに魔導国の入り口が視界に入った。岩の裂け目の先には、灰色の山肌と黒い塔の影が立ち上がり、不思議な魔力の気配が漂う。風が一層強く吹き、砂塵が舞い上がる中で、僕たちは息を呑む。


「……ついに、ここまで来たんだな」

 小さな声で僕が呟くと、クラリスは頷き、レオは目を大きく見開く。緊張と期待、少しの恐怖が入り混じる。だが、昨夜の焚き火の穏やかさ、互いを信じる気持ちが、僕達の心を支えていた。

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