第二話 この世界の情勢と弓野家
弓野家の朝食は毎日静かに過ぎる。これは《食事中は無駄口厳禁。特に料理の感想は》と母親が決めたルールに則ったものだが、今朝は少し様子が違った。
顔を洗い着替えが終わった祥吾が、ダイニングテーブルでおかずの焼き鮭(に似ているもの)を突いてると、いつもなら、祥吾より10分以上早く朝食を食べ始めている筈の結花が、今日は遅れて2階から下りてきた。
「結花遅い。遅刻する気か?」
「ごめん、お母さん。ちょっと支度に時間かかっちゃって……」
「あ? 支度ったって、いつもどお……」
不満げに言いながらキッチンからダイニングテーブルに振り返った里香は、娘の恰好を見てちょっと言葉に詰まった。
「ねぇ、あんた、タイツ忘れてるよ」
里香は片方の眉を少し上げながら、やや声のトーンを落とし抑揚を付けずに言う。
リビングに入って来た結花の足にいつも履いている厚手の黒いタイツの姿は無く、家族の誰よりも白い素肌が短めのスカートから覗いていたからだった。
「え?い、いやぁ……忘れたんじゃなくて……かな? えへへ」
結花は母親の追及から逃れるように照れ隠しの返答をするが、里香は容赦ない。
「へえ。そうかぁ。結花も遂に誰かに見せたくなっちゃったかぁ。ふ~ん」
「そ、そんなんじゃないってば! お母さん!! た、ただの気分転換だから……」
顔を真っ赤にして席に着く結花を、里香はニヤニヤしながら、「今日は男子達の視線を独り占めだねぇ。ああ羨ましいわぁ……風邪ひいて帰ってくるんじゃないよ!」と、からかう調子で言い放ちキッチンの方へ向き直った。
しかし、もうその表情に冷やかすような笑顔は無く、里香はただ寂し気な目で蛇口から流れる水を見つめ続けるだけだった……
「わ、わかってるよ……了解です!」
もじもじとスカートの裾を直しながら、ちょっと睨んでみたが、こちらに背を向けたままじっと動かずにいる母親の姿に、結花も何かしら胸に詰まる思いがして、俯き加減に朝食を採りはじめた。
しかし、結花の胸の詰まりは一向に収まる様子が無く、無意識にすがる様な視線を正面に向けると、それまでそんな雰囲気も気にも留めない様子で焼き鮭にかぶりついていた祥吾が、場の様子を察したかのように、チラっと結花へ目を向けた後、「親父、まだ寝てんの?」と、背を向けてる母親に話題を振った。
里香は一瞬虚を突かれたような顔で振り返ったが、直ぐにいつもの調子で、「お前たちを食わせる為に、山へ芝刈りに行ったよ」と返事をすると、祥吾は、「ったく、桃太郎かっての……こんな時間から天文台?」とあきれ顔で返す。
「ノリの悪い奴め」
「ノリ?もう食っちまったし。残念」
目の前の繰り広げられるくだらない日常のやり取りに、少しは気が楽になったように感じ、気を取り直して焼き鮭に箸を付けた結花だったが、里香から「あ、結花。手伝ってほしい事があるから、学校が終わったら天文台に来て欲しいってお父さんからの伝言だよ。」と聞かされると、焼き鮭を食べようと開けた口が塞がらなくなってしまった。
「え?ええーーーっ!! 無理無理! 今日は無理ーっ!!」
両腕を前に突き出して、《今日は無理!》を盛大にアピールした結花だったが、
「なんで?今日そんなに重要な用事ってあったっけ?」
里香は、全くもって不可解なり、といった表情で軽く返した。
「う、うんうん! あのさ、ほら……け、圭子! 圭子と、ちょっと学校行事のことで、放課後打ち合わせしようって。せ、先生も来るみたいだし……」
「ふーん、そっか。じゃ、お父さんに今日は行けないって、結花から連絡しておきな」
「あ、あたしから?」
「そ。お母さん基地に用事があって、今日はしばらく連絡できないし、結花から連絡した方がお父さんも喜ぶからさ」
「う、了解です……」
「で、祥吾は学校が終わったら格納庫に直行!」
「あれ? 今日は休みだろ?」
「予定変更。勝ち逃げは許さん」
「ひっでぇ。こっちにも予定ってもんが……」
「あ? 何か言ったか?」
「……りょーかいでーす」
父親である弓野英明への連絡をどうしたものか……機械的に箸を動かしながら、納得させる妙案が浮かばず逡巡していた結花だったが、軽やかな電子音と共に、名寄地域のお知らせ画面がダイニングテーブル上に浮かび上がると、答えの出ない問題は一旦隅に置き、祥吾と共に目の前に浮かび上がっている文字を追いかけた。
「野良犬う? 野良犬に注意だってさ」
「1週間前くらいから頻繁に見かけるようになったんだって。お母さん知ってた?」
「いや、知らないねえ。誰か襲われたとかなの?」
「ううん。違うみたい。ただ、まだ一匹も捕まえられないんだって」
「雪で食いもんが見つからないだけだろ。ほっときゃいなくなるよ」
「ま、噛まれでもしたら面倒だし、見かけても近寄るんじゃないよ。特に祥吾」
「はい。わかりました。ちかよりません」
祥吾の指先だけの敬礼と棒読みの台詞でこの話題が打ち切られると、父親への連絡の事、目下の大問題である明日の事で、結花の頭の中は再び一杯になった。
食事を終えた結花は、窓の外を眺めた。遠くに見える駐屯地は、日に日に武装化が進んでいる。特に人型の陸戦兵器『MPG』の開発に成功し、全国の駐屯地に配備が完了すると、陸自はますますMPGを核とした戦術へ傾倒し、新型の支援兵装や火器の開発も加速した。
弓野家は駐屯地近くの特別区画に居を構えていた。父・英明は量子物理学、ロボット工学の世界的な権威として、MPGの基礎開発から携わり、日本国政府が海外流出や亡命、誘拐を最も恐れる人物の一人だった。一方母・里香は女性初の特殊作戦群の元隊員で退官時は異例となる二尉まで昇進。またMPGパイロットとしても名を馳せ、模擬戦の全国大会において日本一を獲る程の腕前だった。
そして結花自身は「イーロン」。国家プロジェクトによって遺伝子設計され産み出された、特別な才能を持つ子供の一人であった。高校卒業後イーロンは例外なく里親から離れ、国の管理下で生きることになっている。
つまり結花がこの家族と生活するのは残り一か月あまりであった……