第二十一話 狩人達の前菜
午後9時10分。
自室の明かりに照らされた祥吾は、端末から浮かび上がる3次元ディスプレイとデジタルキーボードを操作していた。指先が素早く動くたびに、映像が切り替わり、今日の模擬戦の様子が様々な角度から再生される。
学校から自宅までの道すがら、コミュータでコンビニに立ち寄り、適当に夕食を買い込んだ。誰も居ない家で一人、それを平らげ、早々に風呂を済ませた祥吾は、コントロールルームから転送した戦闘データを見ながら、ディスプレイに向かって独り言を呟いていた。
「ここは、もう少し角度を浅くした方が良かったな……」
映像を一時停止し、MPGの動きを分析する祥吾の目は真剣だった。
「普段の機体と出力も違うからな……そこの補正が甘かった」
祥吾は、杏との模擬戦で勝利できなかったことについて、悔しさよりも、「なぜ? どうして?」と、その原因を追究することに集中していた。
自身のMPG操縦技術に、それなりの自信を持っていた祥吾は、昨日の訓練で里香に勝ったこともあり、やや慢心していたと率直に認めていた。
イーロンと言っても、MPGの経験は自分の方が上だ。隊の中では「鬼」と呼ばれている母親を負かすことができる自分が、学校での訓練程度の杏に負ける筈がない——そう思っていたのだ。
それがこのザマである……
何がいけなかったのか?どの判断が誤りだったのか?この場面では次に何をすべきだったのか?そんな疑問を巡らせながらキーボードを操作していたが、不意に、(要は、杏を舐めきってた。ってことか……)という結論に至った。
そう思うと、急に今やっていることが馬鹿馬鹿しくなり、祥吾はディスプレイの電源を少し荒っぽく切った。椅子の背もたれに体重を預けながら、窓の外を眺める。雪が降り始め、街灯に照らされた雪片が風に舞っていた。
模擬戦まで、杏のことは「結花のクラスメイト」という程度の認識しか持っていなかった祥吾だったが、今は、同じ技量を持つライバル……と格好良く思い込もうとしても、最初に脳裏に浮かぶのは、何故かMPGのコクピットで気を失っている彼女の姿だった。
(変態か?俺は……)
祥吾は自嘲気味に笑った。彼はこれまで特定の異性と付き合ったことがなかった。
中学から高校入学あたりまでは、告白された回数はそれなりにあった。しかし、誰からの告白にも曖昧な返事しかせず、実際には決して付き合わない祥吾の態度に、いつの間にか「告白しても付き合えない男」として、狭い田舎の学校でイメージが定着してしまった。
告白してきた女子の中には、校内で一番可愛いと男子から人気のあった子も居たが、「可愛いな」と思っても、「付き合ってみたい」とは思わなかった。
祥吾自身、なぜ自分は誰とも付き合ってこなかったのか、何となく察しはついていた。
それは、恐らく一番身近に居る者を気にしてのことだろうと、客観的な自己分析をしていた。
結花のことだった。
それは恋愛感情などではなく、彼女の境遇への配慮と、どこか憐みに似た感情が強かったのだろう。
血は繋がっていない同い年の兄妹として育った二人だったが、成長するにつれ、次第に結花の境遇が特別であり、そして窮屈なものであると、祥吾は感じ始めていた。
同じ兄妹なのに、結花に許されていない事を、兄だけ許されて良い筈がない——いつの間にか、そんな風に考えるようになっていた。
しかし、結花のことを疎ましいと感じたことは一度もなかった。
特に高校に通うようになってからは、結花は祥吾にとって常に気になる存在となっていた。
それは単に保護者的な立場からかもしれないし、全く別の感情が働いたのかもしれない……
(普通の兄妹ならこんな気持ちにはならないんだろうな……)
今の祥吾にはその答えを正確に出すことはできなかった。と言うより、出したくなかった、という言い方が正しい。
そして、杏である。
結花と同じイーロンであり、3月にはここ名寄を出て行く——そして、もう会うことはないだろう。
(何で杏が気になる?)
自問自答してみた祥吾だったが、そんなのは元来の負けず嫌いが作用した些細な抵抗であって、自分の気持ちはおおよそ見当がついていた。杏との対戦を通じて、彼女の技量や集中力に触れ、何か特別なものを感じていた。それは単なる対抗心とは違う、もっと複雑な感情だった。
お互いそれぞれの道に進めば、様々な想いも、時が経つにつれ時間という安全装置によって、綺麗に解決できてしまうのだろう。それが現実かもしれなかったが、今の祥吾に分かるものではなかったし、結花や杏も同様だった。
(なんでこのタイミングなんだよ……来月にはもうここから居なくなるってのに……)
祥吾は、自分自身が納得できるような答えが出せず、苛立ちながら頭の中に同じ想いをグルグルとループさせていた。しかし、その生産性を欠いた思考を断ち切るように、着信の電子音が鳴り響いた。
少しホッとしながら、机の上に置いたウェアラブルフォンを確認した祥吾だったが、発信者が結花だと分かると、再び複雑な感情が胸をよぎった。
祥吾は一呼吸置いた後、少し大きめの声で電話に出た。
「結花お疲れ。もう帰って来れんの?」
「あ、うん、いやまだ掛かると思う……お兄ちゃん、もう家に帰った……?」
確認するように結花が尋ねる。彼女の声には微かな緊張感が混じっていた。
「ああ、飯も風呂も終わってるよ」
「そっか……よかっ……わかった」
祥吾の返答に明らかに安堵したような口振りだったが、祥吾はその微妙な感情の変化に気づかなかった。
「そっちは?遅くなりそう?」
「うん。多分。でも、お父さんに送ってもらうから、先に寝てていい」
「オッケー。俺、ちょっと疲れたから、もう寝ると思うわ。結花も無理すんなよ。風呂はそのままにしておくわ」
「うん……有難う。おやすみ」
「おやすみー」
いつもの調子で電話を切った後、堂々巡りの思考が再発する前に部屋の電気を消し、ベッドに飛び込んだ祥吾は無理矢理目を瞑った。
すぐには眠れないだろうなと思っていたが、模擬戦での消耗が激しかったせいか、5分も経たない内に、彼の意識は深い闇へと落ちていった……
※ ※ ※
午後9時47分。
北海道北東部、オホーツク海に面した雄武港。港からは時折、機械の稼働音と男たちの声が風に乗って運ばれてくる。この夜、港には数隻の船が停泊していたが、その中でも特にロシア船籍の漁船が異彩を放っていた。
「ほら、お前がモタモタしているから、降って来ちまったよ……」
「あんたが急に作れって言うからじゃない!」
雄武港組合長の柏崎は妻である夕子と共に、徒歩5分の距離にある港へ足早に向かっていた。
沿岸部でも降り始めた雪は、時間が経過するごとに勢いを増し、道路にあらたな積雪を生み、夜の海原も白く濁らせていた。夫婦の足跡はすぐに消えていく。
柏崎は妻に依頼した夜食の差し入れを届ける途中だった。
当初、柏崎は自分1人で届けるつもりだったが、「冷えるだろう」と日本酒も持った為、思った以上の大荷物となってしまい、急遽夕子にも手伝ってもらったのだった。
荷物を持っている為、傘をさすこともままならず、防寒着のフードを頭から被り、雪に足を取られながら目的の場所へと急ぐ。
柏崎は転倒を避けるため足元ばかりに注意を払っていたこともあり、間近にするまで寄港している船の全体像を把握できなかった。ようやく到着したと思い顔を上げたところで、彼は足を止め、息を呑んだ……
「ちょっと、あんた待ってよ!……わっ!」
ようやく夫に追いついた夕子は、足元ばかり見ていたため、立ち竦んでいる柏崎の背中にぶつかりそうになった。
「急に止まって危ないじゃないのさ!」
よろめきながら毒づいた夕子だったが、反応のない夫の姿を訝り、同じ方向へ顔を上げた。
二人が見上げた目の前には、確かにロシア船籍の船があったのだが、その船の甲板には、船体とのバランスが取れていない長方形の壁が、まるで港側から甲板を隠すように立っていた。
「なんだぁ、こりゃぁ?」
柏崎が驚きの声を上げる。こんな装備のある漁船など、今まで目にしたことはなかった。それは明らかに後付けで、普通の漁業活動には不釣り合いな代物だった。
「寒いから、衝立代わりなんじゃないの?」
柏崎が、自身が感じた違和感と、あまりに見当違いの返事を寄越した夕子を無視して、船の反対側へ回り込もうとした時、二人の後ろからロシア語が聞こえた。柏崎と夕子は、ビクッとして振り返る。そこには髭を蓄えた白人の男が立っていた。身なりは漁師のようだったが、二人の全身に走らせた探るような視線を、柏崎は見逃さなかった。
(いつの間に……?)
漁師が纏う空気は、国が違えどほとんど変わることはない。これは、長年この地で漁師に従事し、様々な国の船が寄港することが珍しくない現在、柏崎自身が感じていたことだった。
しかし目の前の男からは、その空気を感じなかった。海から吹く風によって、雪が激しく舞っていたが、男は全く身じろぎせず片手は防寒具のポケットに入れたまま、こちらの返答を待っている。この時間、周りに人の影は皆無だった……
早くこの場から立ち去るべきだ、と本能的に感じ取った。しかし、手に抱えた差し入れをそのまま持ち帰るわけにはいかない。(これは夕子に無理を押して作ってもらったから、持ち帰るなどと言ったら何を言われるか……)と、判断した柏崎は、たどたどしいロシア語で、目の前の男に話しかけた。
話しかけられた男は、こちらに据えた目線を外さず、手を首のあたりに添え他の誰かと話を始めたようだったが、その内容まで聞き取ることはできなかった。(無線の類か?何故そんなもの……)ますます漁師とは思えない奇異な行動に恐れを抱いた柏崎は、思わず自宅の方角へ足を一歩踏み出したが、男の言葉がそれを遮った。
「有難うございます。船長がお礼を言いたいそうです。こちらのタラップを昇ってください」
丁寧な聞き取りやすいロシア語で、男はタラップを手で指し示したが、こちらには近寄ろうとしない。
うながされるまま、タラップを見上げると、そこに夕刻に挨拶をした船長の姿があった。
とりあえず知った顔を見付けた柏崎は、多少警戒を解き夕子と共にタラップを昇り始めた。
「あんた。ここの人達、なんか嫌な感じね……」
夕子が小声で夫に囁いた。彼女の直感は、往々にして鋭かった。
「馬鹿。お前は黙ってろ」
不平を言う夕子を諫め、柏崎は妻の手を引き甲板へ向かってタラップを昇っていく。
甲板へ到着しても、白い壁の向こうは窺い見ることはできなかった。
ただ、金属と金属が接触するような硬質な音と、インパクトレンチが作動しているような甲高い連続音が響き、何らかの機械作業をしていることが窺えた。
「先ほどは有難うございます」
柏崎が壁から聞こえてくる音に気を取られていると、船長がいつの間にか目の前まで近づいていた。
「何かお持ちいただいたとか?」
言葉は同じく丁寧だったが、世間話をするつもりはない、といった固い表情が夕刻の船長とは同一人物には思えず、柏崎は言葉に詰まってしまった。
しかし、「見せていただけますか?」と、押し迫るように言われ、たじろいだ柏崎は、「え、ええ、皆さんお疲れだと思って、夜食を……」「おい、ほら袋から出して見せなさい」と、慌てて妻の方を振り向き、抱えてきた大きなショッピングバッグの中から、夕子と一緒にプラスチックの容器を取り出した。
そして、あらためて船長へ向き直り、「これ、ウチの特産のホタ――」と、中身を説明しようとしたが、言葉が途切れた。唇が固まり、目が見開かれる。
いつの間にそこにあったのか……柏崎には全く分からなかったが、振り返った眼前に船長の手に握られた黒い塊があった。そして、その中央に穿った穴から光が迸る直前、「あ」と呟いたのを最後に、柏崎の意識は消失した。
続けて二回、風船が割れるような音が響き、海面に何かが落ちる音と共に、甲板から柏崎夫妻の姿は消えていた……
(回収しますか?)
(いや。放っておけ。この天候だ。夜明けまで誰も近寄らんだろう)
(了解。監視を続行します)
咽頭マイクに英語で指示を吹き込むと、船長は柏崎が持参したバッグを船外に蹴り飛ばした。
バッグは中身をまき散らしながら、上空から舞い降りる雪と共に海面へ落ち、瞬く間に波の間に消えていった。
バッグの行方を確認した船長は、ブリッジに戻る途中、先刻二人が気にしていた壁を見上げる。
風に舞う雪で見え難かったが、目を凝らすと壁の向こう側に先端が白く塗られた複数のブレードアンテナが見えた。それらは、波に揺られる船体の動きに合わせ、大昔のアーケードゲームの的のように壁から見え隠れしていた……




