第二十話 降り始めた雪は熱に溶けて……
午後6時58分。
「なぁ、いつお袋と知り合いになったんだ……?」
お互いの意見を出し合った模擬戦のミーティングも終盤に差し掛かったころ、祥吾は杏へ唐突に尋ねた。
ちょうど祥吾に買ってもらった紅茶を飲もうとした杏は、缶を口に付けたまま動きを止め、横目で祥吾を見た。
「その……ここ来る前に……ちょっと言われてさ……」
祥吾も少し気まずそうに言葉を続ける。気を取り直した杏が、「あ、うん、さっき声かけられて……」と小さな声で答えた。
「あぁ、模擬戦見てて、名嘉真のこと気に入ったんかな……」
単に納得したという表情で独り言のように呟いた祥吾だったが、それに対して杏は慌てて取り繕った。
「えっ?き、気に入った?……いや、そんなことはないと、思う……」
杏は顔を真っ赤にして俯いたが、モニターに集中している祥吾は、その様子に気づかなかった。
「いや。俺の操縦って、もともとはお袋のスタイルなんだよ」
祥吾は映像を一時停止させ、杏の方に体を向けた。
「教えられたから当然なんだけどさ。多分、名嘉真の操縦からも、同じ種類の匂いがしたんじゃないかな?」
祥吾の説明に、俯いていた杏は、チラッと視線を移した後、顔を上げた。「でも、よかったら家に来いって、言ってた」と、モニターの方を見ながら、反論するように答え、祥吾の反応を窺った。
しかし祥吾は、「ふ~ん。そっか。いいね、それ。結花も喜ぶと思うしさ」と、何の動揺も見せず平然と答えた。
祥吾の反応に何故か不満を覚えた杏だったが、それ以上何も言えず、「そう……ね」と小さく答えるしかできなかった。
最初は、基地で特別に訓練を受けている高校生がいると、杏の親が懇意にしている基地の幹部から聞いたのがきっかけだった。しかも教えを受けているのは、MPG模擬戦の元トップパイロットだと知り、興味を抱いて調べ始めた。
それが同じイーロンである結花の兄だと知った時は少なからず驚いたが、知ってからは自然と祥吾を目で追うようになっていた。
それは当初、恋愛感情ではなく、トップに教えられている生徒がどの程度の技量なのかを知りたいという単純な好奇心だった。しかし、次第に杏の心の中には得体の知れない感情が芽生え始めていた。それは、初めて味わう感情だった——対抗心でも、尊敬でも、単なる興味でもない、もっと複雑で温かいもの。
その正体に気づき始めた杏は、その感情に抗いたくなった。そして、その葛藤から今回の模擬戦に繋がったのだ。
自ら挑んだ模擬戦が引き分けだったことに対して、今となっては不思議と悔しさも後悔も沸かなかった。
その理由を自分自身、薄々気づき始めていた杏だったが、その流れに身を委ねるのは、ひどく独りよがりで身勝手なことだろうと思っていた。
杏は何となく祥吾と目を合わせる気になれず、録画した模擬戦の映像が終了し、舞い始めた雪がプラクティスグラウンドのライトに反射している様子が映るモニターを、ただじっと見つめ続けた。窓の外も、似たような景色なのだろうか——雪が静かに降りしきる中で、杏の複雑な感情も次第に積もっていくようだった。
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午後8時26分。
格納庫内には、整備作業の音が反響していた。空気中には、機械油と金属の匂いが漂っている。
「悪いね。降って来たってのに、昨日今日とこき使っちゃってさ」
トレーラから降りてきた佐久間に向かって、作業用のツナギ姿の里香が手を挙げた。
「いやいや、こん位大丈夫ですよ、二尉。残業代儲かっちゃうし」
軽口を言いながら格納庫の床へ飛び降り、佐久間は里香に敬礼した。
里香も軽く答礼しながら、トレーラに積まれたシェムカへ近づいた。
シェムカ(多脚型の人型戦闘機械)にはオリーブグリーンのシートが掛けられていた。
「あたしの方はどう?」
里香が手を触れたシェムカは、佐久間が今朝、旭川から運んだ濃紺の機体だった。
「二尉が出かけてからも作業を続けましたけどね、良いもん使ってますね、こりゃ」
佐久間は得意げに説明する。
「動力も駆動系も全部アップデートされた部品使ってましたよ。ただ、脚はちょっと柔らか目だったんで、二尉好みの固めにしときました」
「オーケー」
里香は満足げに頷いた。
「あと……あれも持ってきてくれた?」
自分の左肩を2回叩きながら、里香が尋ねる。
「はい……でも、あれを使うなんてことが……」
佐久間は心配げに答えたが、「万が一さ」とあっさり答えた里香に、「……くれぐれも、無茶は止めて下さいよ二尉」と、懸念を隠せない様子だった。
「わかってるよ……」
里香は軽く肩をすくめてから、機体の点検を続けた。
「ところで佐久間、これは?」
機体をチェックしていた里香が、突然怪訝そうに尋ねた。
MPG輸送の際は事故防止のため、武装はすべてトレーラに付随するラックへ固定するルールになっていた。しかし、里香がシートの一部をめくると、マニピュレーター(機械の腕部)に保持された50㎜アンチマテリアルライフル(対物狙撃銃)のバレルが見えた。
「あ、これはですね……」
佐久間は言葉に詰まりながら、視線を泳がせた。
「えー、いや、結局まともな方法じゃ、ライフルや弾薬を持ち出せそうになかったんで、こんな風に……そんな訳で、頼まれてた追加の武装は無理でした……すんません」
数時間前に受けた里香のリクエストに、完全には応えられなかった佐久間は、心底申し訳なさそうに頭を下げた。
「そうか……じゃ、万が一の時は、これと祥吾の機体しか動かせないね……」
里香は一瞬だけ眉間にしわを寄せた。
「でも感謝してるよ。無理言ってすまなかった……」
最後が「ありがとう」ではなく「すまない」と結ばれた里香の言葉と、その真剣な眼差しから、佐久間は事態が想像以上に深刻であることを悟った。彼の温厚な顔つきが一瞬で引き締まった。
「二尉……自分にはそんな雰囲気はさっぱりなんですが……ほんとに襲って来るんですか……?」
「わからないねぇ……」
里香は軽い調子で言いながらも、視線はシェムカから離さなかった。
「まぁ、取り越し苦労だったら、私が司令に土下座でもするよ」
里香は明るく返答したが、シェムカを仰ぎ見たまま、佐久間の目も見ないその態度に、彼も何かを察したようだった。
「わかりました。とは言っても、私も同罪ですからねぇ……そん時はご一緒させてください」
佐久間は真摯な表情で里香に答えた。
「ふっ……そうかい。助かるよ」
少しだけ佐久間に向けられた微笑みに、彼も笑顔を返したが、慌てて制帽を被り直し、「じゃ、こいつ上げちゃいます」「おい服部!こっち頼むわ」と、照れ隠しのように大声を張り上げた。
遠巻きに二人の様子を窺っていた保が、慌てて駆け寄ってくる。「佐久間さん、これ、弾積んでんスか?!」と、興奮した様子で息せき切って聞いてきた。佐久間に肯定されると、保は「ひゅう~」と口笛を鳴らした。
上官の前での態度としては不適切だったが、そもそも正規のルートを通さずに持ち出した機体と武装であり、発覚すれば処罰は免れない行為だった。それゆえ、佐久間もこの場で軍紀を持ち出す気はなかった。
「持ち出せた武装は、二尉と祥吾の分だけなんスね?」
トレーラを眺めながら、保が尋ねる。
どうやら、すでに里香から事情を聞いているらしいと判断した佐久間は、「ああ。これが精一杯だった」と正直に答えた。
それを聞いた保は、「う~ん」と唸りながら腕組みをし、思案顔で、「あのですね……」と、声のトーンを落として佐久間に近づいた。
「実は……訓練機分の実弾装填済みマガジンがあるんスよね……」
保は周囲を警戒するように視線を走らせた。
「ライフル本体はある訳スから、ちょいと手を加えれば、実弾入りライフルが出来ちゃったりします……」
「なに!?」
反応したのは、佐久間ではなく里香の方だった。
二尉の強い反応に、処罰対象になるかもしれないと怯えた保は、必死に言い訳を始めた。
「い、いや、俺のせいじゃないっスよ!前にここ担当だった時に、基地からペイント弾を補給に来た連中が、間違って実弾入りの方を置いてっちゃったんスよ……」
保は言葉を早めた。
「そん時は、ちょうど忙しかったんで、連絡すんの忘れちゃって……で、結局何の連絡もなく現在に至るって感じで……」
それを聞いた佐久間は、「補給の奴ら、ミスを隠しやがったな……」と呟いたが、里香は意外な反応を見せた。
「よし。良い判断だ服部! 早速装填作業に取り掛かってくれ」
里香の上機嫌な指示に、保は「へ? りょ、了解しました!!」と喜び勇んで準備に取り掛かった。一方、佐久間は「良いんですか?二尉……」と、慎重な声で問いかけた。
「残念だけど、ここも襲撃されたら、あたしと祥吾だけじゃ、支え切れる自信がないよ」
里香の声には、静かな覚悟が滲んでいた。
「しかし……」
「ここが地域指定避難所に指定されてるの忘れたかい?」
里香は佐久間をまっすぐ見つめた。
「有事の際には、町中の人間がなだれ込んで来るんだ。加えて、この地区のイーロンも集まるからね。恐らく狙われる確率の方が高いさ」
ここまで言い切った里香は、さらに一呼吸おいて、「もし……隊の連中が助けに来られない場合は、イーロンにも戦ってもらうしかないってこと……」と締めくくった。
「……わかりました二尉。とにかく準備に取り掛かります」
「佐久間!」
踵を返してトレーラに向かう佐久間を、里香が呼び止めた。
「悪いね……この2機を降ろしたら、お前は基地へ戻って、できる限りの応戦準備をしておくんだ」
里香の声は冷静だったが、その目には強い決意が宿っていた。
「もし事が起こったら、間違いなく基地も狙われるからね」
里香の本性を垣間見るような鋭い目で見据えられた佐久間は、唾を飲み込みながら、無言で頷き、作業に戻っていった。
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祥吾と杏は、ミーティングが終わり1時間ほど前に帰路に就いた。
結花も英明のところへ着いたと連絡があった。
(ひとまずファーストフェーズ完了、かな……)
里香は格納庫の外へ出て、夜空を振り仰いだ。
雪雲に覆われているせいか、空は漆黒ではなく灰色がかった色をしていた。街灯の光が雪に反射し、幻想的な明るさを生み出している。
里香の頬に細かい雪が落ちてくる。
それは里香の体温を奪うような心地良さと、少しだけ不安にさせる冷たさを同時に感じさせた。彼女は片手を伸ばし、掌に雪を受け止める。雪は瞬く間に溶け、小さな水滴となった。
(興奮してんのかいあたしは? ……ここまでして何にも起きなかったら、良い笑いもんなのにさ……)
唇を自嘲気味に歪ませた里香だったが、その目に宿した獰猛な光は少しも揺らがなかった。
(でも、もし何か起きるとしたら——)
彼女は格納庫内の準備の整いつつある機体たちを振り返った。そこには、彼女が守らねばならないものをすべてを守るための決意が映し出されていた。




