第九話 交差する想い —— チョコレートと照準器
「手が止まってるよ!」
圭子の声に、ハッとして振り返った結花の両手には、ボウルとスパチュラが握られている。
「全く・・・・・・そんなに気になんなら見に行けば?」
「え? な、何も見てないよあたし」
「見てるよ。何度も」「でも、ボウルの中は見てないようだけどね」
言われるままボウルを見た結花は、中で半ば固まりかけているチョコレートを見て、「あぁっ!」と我に返りスパチュラを動かし始めた。
「まぁ、相手は杏だからねぇ・・・・・・心配なのもわかんだけどさぁ、いろんな意味で」
結花に聞こえない位の声で独り言を呟きながら、圭子は自分のチョコレートを混ぜていく。
「ご、ごめん・・・・・・気を付けます・・・・・・」と圭子に謝りながらも、目は自然と窓の外へ向いてしまう。
事実、プラクティスグラウンドの方角を見て、何度もぼうっとしてしまっている事に、結花自身気が付いていなかった。
放課後に調理実習室を借りて、バレンタインチョコを手作りしてみたいから教えて欲しいと結花から圭子へ頼み込んだのが10日前。圭子から開口一番「これは一大事!一体誰に告るつもりか?」と問い質されたが、結花は終始「家族にあげるため」と言い張っていた。
勿論そんな答えには満足しない圭子は、様々な角度から探りを入れたが、結花が頑なだったので、それ以上は詮索せずに頼みを引き受けたのだった。
しかし自身がそこそこ経験豊富であり、特に色恋沙汰にはセンサーの働く圭子だったので、結花の態度を見てれば大方の予想は付いていた。
(結花があたしにここまで白状しないのは、まぁそういう事だよね。色々とハードルが高いのは事実なんだけどさ・・・・・・)
産まれて間もなく両親が離婚し、母方の祖父母に引き取られた圭子は、早々に保育園に預けられた。そして一年遅れて入園した結花をいたく気に入り、年がら年中一緒に遊ぶようになり、結花にとっても唯一気の置けない友達になっていった。
小学生の頃、結花がイーロンである事を知らされ、同級生から疎ましく思われた時も、自分の境遇に重ね合わせたのかその事を全く意に介さず、逆に「結花の事ごちゃごちゃ言う奴が居たら教えて。あたしがやっつける」
と、自称「結花の友達兼保護者」を標榜していた。そして実際に実力を行使した相手の数は片手では足りなかったらしい・・・・・・
このように姉御肌である一方、自由奔放な性格と目立つ容姿も影響してか、交遊範囲はかなり広く、アルバイトや男子と遊ぶ時間もしっかり捻出していたが、結花に対しては彼女の性格と出自を理解し、こういった事を無理強いする事は無かった。
高校卒業後は結花と離れ、その後会う事は難しいと聞かされていた圭子だったが、そんなルールに従うつもりは毛頭無かった。先々も何とかして結花へ連絡を取り続けてやろうと企んでおり、結花も同様に考えていた。
結花にとって圭子は、どんな事でも話が出来る無二の親友であった。
しかし、今回の件については、そんな圭子に対してもどうにも言い辛く、今日までずっと本当の理由をはぐらかしてきた。圭子の様子から、結花の気持ちに気付いている風であったが、そんな事も確かめられない程、自分の想いに臆病になっていた。
「ねえ、結花」
自分のボウルを捏ねながら、圭子にしては珍しく慎重な声色で話しかけて来た。顔はボウルに向かったままだった。
「なに……?」
結花は平静を装って答えたが、このタイミングと圭子の雰囲気から、ずばり核心を突かれるのではと心の中で身構えた。
「ええとさ。あたし、頭良い方じゃないから、上手く言えないんだけどさ……人の迷惑考えるとか、自分がこんな事していいのかなぁ、とか、思うことあるじゃん?」
「うん」
「そういう時って、大体やめといた方が正解だったりするんだよね……」
「……うん」
「でもさ……ずるい言い方だと思うんだけどさ、誰が迷惑すんの?とか、それってどのくらいヤバい事なの?とか、こんな事すると、自分も困るの?って思う事もあるんだよね」
「でさ、迷惑かけたり困るかもしんないけど、人が死んだり、大金損したり、病気になっちゃったりとか……そんな大変な事にならないんならさ……」
「で、自分にとっては一生に関わることって思っててさ、これやらなきゃ絶対後悔するって思っててさ……」
「そんで、それが失敗しても、それは自分の責任って覚悟決めててさ……」
「そんな風に思ってんなら……やってみれば良いと思うんだよね。あたしは」
気が付くと、いつの間にか圭子は真っすぐ結花の事を見ていた。
「結花、もう直ぐいなくなっちゃうじゃん……まぁ、あたしにはそんなの関係なくってさ、結花が東京に行っちゃってからも、迷惑になるくらい連絡しまくるわけだけど」
ここまで言い終わった後少し笑った圭子だったが、
「もしかしたら、他の誰かも同じ想いで、そんで同じようにそれを伝えると迷惑掛かるだろうって思ってる奴、いるかもしんないでしょ……? 勝手な自惚れかもしんないけど」
「そんなのも含めてさ、我慢ばっかりして、考えてばっかりなのは、このへんでちょっとやめてみんのも良いんじゃない?」
圭子が本心から自分の気持ちを話す時、挑戦的な目を向ける癖がある。今が正にそうだった。
「圭子……」
「めでたく高校も卒業なんだしさ、大した迷惑かかんないんなら、最後にやりたい事やってみなよ」
「但し。失敗しても、いつまでも泣かない。わかった?」
「……うん……ありがと、圭子……」
いつの間にか潤んでいた目尻をさりげなく拭い、泣きそうになっていた顔に無理やり笑顔を作った結花だった。
「よし! じゃ、仕上げちゃうよ! 結花のせいであたしに教わったチョコがしょっぱくなったって責任取らないからね!」
「うん。わかった」
そう答えながら、再び夕刻が迫る調理実習室の窓に目を向ける結花を、圭子はもう咎めなかった。
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午後4時23分。
模擬戦開始から約6分が経過していた。
祥吾とのMPG模擬戦に臨む杏の思考は、チョコ作りに集中できない結花とは対照的に、冷静かつ緻密に動いていた。彼女は開始直後から、移動と停止を繰り返し、頻繁に音響と振動索敵を行っている。
状況開始前の一連の行動から、祥吾がシェムカの扱いに自信を持っている、また杏が個人的に感じている祥吾の性格を加味した上で、恐らく積極的に前へ出て来るタイプの戦闘を好むだろう、との推測からだった。
シェムカの脚部に装備されているバンカーブレイカーは、地表に突き刺した状態で固定する事で地表面の振動を検知し、対象物が移動している場合一定の距離内であればその方角と移動速度を測る事が可能であった。
祥吾のシェムカは杏の予測通り、模擬戦開始後は同じ場所に滞留する事はせず、常に移動していた。
(こういう相手にはアンブッシュが有効……)
フィールドの形状は起伏に富んでいるものの、決して広大ではないので、側方から回り込む戦術は採り難い。
また、積極的に前進する場合、心理的な要因から出来るだけ機体を隠せる場所が豊富なルートを選びがちになるので、ある程度の移動エリアを絞り込むことが出来る。
お互い出発地点が判っている模擬戦なので、相手もこちらの位置を大まかに把握していると考えられるが、現時点においてはこちらの方が優位と判断した杏は、相手の予測移動ルートを俯瞰出来る森の丘陵付近で、アンブッシュを構築すべく再び移動を開始した。
(この森でこちらを目視で発見するのは困難な筈。レーダーを使いこなせれば、待ち伏せは察知されてしまうけど……)
(だけど、フェ―ズドアレイレーダーは標準装備じゃないから、今の装備でレーダーを使う場合、ある程度の指向性確保が必須……)
(だから、サーチする場合は必ず機体をこちらに晒す筈……)
(そこを叩く)
「イーロンの私ならやれる。私はあいつより速い」
最後は自分に言い聞かせるように、口に出して自身に気合を入れた。
(弱気になるな。私はイーロンなんだ……)
タイトなMPGのコックピットに座りながら、杏の思考は戦術から一瞬だけ遠い記憶へと流れた。
幼い頃、杏は他のイーロンたちとは違う環境で育った。彼女の里親は、イーロンの里親としての適性よりも単なる金銭的な理由で彼女を引き取ったのかもしれない。その家で彼女があてがわれた部屋は狭く薄暗いものだった。窓は小さく、外の世界とは遮断されたような空間で、彼女はただ与えられた課題をこなすだけの日々を送っていた。
その暗い部屋で、杏は少しずつ自分の価値を証明するためには、何よりも「優れていること」が重要だと学んだ。些細なミスも許されず、常に完璧を求められる環境で、杏は自分の運命に絶望しつつも、イーロンとして生きていくことを受け入れていった。
そんな捉われた過去の記憶を打ち消すかのように、短く鋭い電子音がヘルメット内に響く。(来た……)予め距離をセットしたエリアに、相手が侵入した合図だった。記憶は一瞬で現実へと引き戻される。
杏は、AIに「索敵リングを200へ変更」「ミニガンをスタンドアローン制御へ。以後の判断は任せる」と静かに指示を入れる。そしてスティックとスロットルレバーを軽く握り直し、深く息を吐いた。
コクピット内には、機械的なAIの復唱音声と、低く、小さく、断続的に唸る電子機器の作動音で満たされていた。彼女は機体を片膝立ちにさせ、50㎜アンチマテリアルライフルを両手で正面に構え、祥吾の到来を待ち構えた。
イーロンの彼女は、ここで勝たなければならない。何者よりも優れていることを証明しなければならない。それは単なるプライドではなく、杏の生きる理由そのものだった。




