第8話 神田古書街の誘惑
着飾った婚約者の手を引いて、僕らは百貨店を出た。
蒼月姉妹の出で立ちは西洋風に染まりつつある帝都では少し浮いて見える。双子という浮世離れした容貌と、彼女たち自身の美貌が引き立つような衣裳に、道行く人たちの視線が引き止められていく。
「視線がうるさい」
「それだけ僕らの婚約者が素敵ってことさ」
長幸は視線を嫌がるように、紅色の彼女を自分のほうへと抱き寄せる。
美しいものには自然と視線がつられてしまうものだからしょうがない。とはいえ、確かに予想よりも視線がうるさい。
目新しい着物だからなのは当然として、道行く人の声を拾っていくと蒼月姉妹に視線がいったあと、エスコートする僕らを見て二度見、三度見をしているみたいだ。双子同士の連れ添いがたいそう物珍しいようで。
百貨店の軒下で立ち往生しながら、僕は長幸と視線を交わす。
さて、どうしようか。
「行きたいところはありますか」
「「ありません」」
蒼月姉妹に聞いてみればにべもなく。
まぁ、そんなことも想定内。
長幸がそれなら、と行き先を提案してくれる。
「神田はどうだ。本が好きだと聞いている」
「あぁ、古書街ね。じゃあ、そっちに行こうか」
百貨店から神田まで行くなら、路面電車に乗ったほうがいいね。歩けなくもないけど、女性に四半刻も歩かせるのは忍びない。
そうと決まれば、駅へと行こうか。
帝都ではいくつかの路面電車が行き交うので、近くの駅があちらとこちらにある。神田へ行くのなら一本で行ける呉服橋の駅のほうがいいだろうと、そちらへ足を向けた。
神田の街までくると、さっきの百貨店の通りとはまた街並みが変わる。
行き交うのは書生ばかり。新しい教科書や本をたくさん買うことのできない学生にとって、古書店はありがたい存在だ。読み終わった本や使わなくなった教科書は売り、その金でまた新たな本を買う。神田の古書街はそうやって栄えてきた場所だ。
かくいう僕らも、その恩恵にたびたび預かっている。
本が好きというし、ここなら蒼月姉妹の興味を引けるはずだ。
僕らは神田の街を歩き出した。
「待て。ちょっとこの店に寄らせてほしい」
そして早速つられた若者が一人。
蒼月姉妹が足を止めるよりも早く、長幸が足を止めてしまった。
「気になる本でもあった?」
「詩集だ。持っていないのが見えた」
足を止めたのは主に洋書を扱う店だった。
長幸の目に止まったのは、軒先に無造作に積まれていたものの一つ。異国の詩集だ。
僕は長幸の手元を覗きこんで、肩を竦める。
「長幸、そういうの好きだよね」
「息抜きくらい好きにさせろ」
「まあいいけど。……お嬢さんたち、気になる本はあるかな」
長幸がまだ他にも物色したそうな素振りを見せたので、ここで少し足止めだ。
蒼月姉妹にも声をかければ、二人はお互いに顔を見合わせてからゆっくりと店の中へと入り、本が並ぶ棚を見上げ始めた。僕はその後ろについて歩く。
蒼月姉妹はゆっくりと本の背表紙を眺めていたけれど、小さな店の中を折り返したところで足を止めた。
その視線の先には、洋書の中でも物語を集めた一角だ。
「グリムにアンデルセン……童話か」
西洋で人気の物語だ。外国語を習う学生が勉強のために読んだり書いたりしたのだろう。きちんとした背表紙に紛れて、手書きの帳面が混ざっている。
「これが欲しいのかい?」
蒼月姉妹に尋ねてみても無反応だ。
この本じゃないのかな。二人の視線をもう一度追おうとしたら、蒼月姉妹はゆっくりと腕をあげた。
指を差すのは、童話に混じっている書籍の一つ。
「「ちるひめさまがいない」」
「ちるひめさま?」
蒼月姉妹の指の先にある背表紙の題を読む。
『NIHON SHOKI』
珍しい。外国語に翻訳された日本書紀だ。
僕はその書籍を手に取った。革張りで、背表紙や表紙に刻印がされている、しっかりとした作り。中を開いてみれば活字ではなく、手書きの原稿用紙が綴じられていた。
外と内でちぐはぐな印象のある本。翻訳された英文を読んだらなかなかに流暢だ。奥付を見たら個人の連盟になっていた。前書きを読んでみる。どうやら亡くなった翻訳家が趣味で翻訳した原稿を、その兄弟が勉学のためにと本の形にしたものらしい。
歴史書の翻訳か。
着眼点が面白いなって思う。
僕が翻訳された日本書紀のページをぺらぺらと捲っていると、一冊の本を持った長幸がこちらに寄ってきた。
「待たせた。次行も買うのか?」
「うん。ちょっと気になって」
「英訳の日本書紀か」
気になったのは別の理由だけど。
だけど翻訳された歴史書には長幸も惹かれたらしい。
「ちょっと読むのが大変そうだな」
「でも日本書紀なら大学の図書館にもあるだろうし、自分で答え合わせしながら読めるでしょ」
そう、答え合わせができるくらいに日本書紀は有名であり、日本人の根源を成す書物だ。
それに対して蒼月姉妹がつぶやいた言葉。
『ちるひめさまがいない』
僕はこの意味が気になっている。