6-3
顔を上げた直後に、ずいっと鼻先へ何かを突きつけられる。近すぎて焦点が合わないけど、どうやら手のひらに乗るほどの白い球体のようだった。
「え? これって……?」
「猫又の卵」
「ねこまたのたまご?」
猫又というのは、妖怪の一種だったはず。ヒノモトにも存在することは知らなかった。たしか尻尾の先が二つに分かれた猫だと思うけど、それと卵という言葉が結びつかない。猫は哺乳類だから、卵からは生まれないはずだ。
「全部のエリアでランダムに出現するって話、知らないのか? 要はペットだな、ペット。陰陽師が使ってる式神みたいなやつ」
「ああ」
陰陽師という職業のアバターには、たまに街ですれ違ったり、戦闘しているところを見掛けたりする。たしかに、半透明の鳥や狐や鎧武者のようなものが肩のあたりにへばりついていたような気がした。
「で、どうしてそれを僕に?」
「……ん? ん、ああ。そいつ、アンタが助けたから」
「え?」
どういうことだろう。まったく身に覚えがない。目をぱちぱちさせる僕に「月蝕の泉でのときだよ」と、卵を持たないほうの手を首の後ろに回して髪をわしゃわしゃしながら、鬼面が説明してくれる。
「ちょうど泉の真ん中の底のほうで、猫又の卵が出現したのを見たんだ。放置してるとそのうち消える仕様だから、誰か欲しいやつがいるなら教えてやろうと思ったんだけど、しばらく待っても誰もこねぇから……仕方なく、俺が泉に飛び込んで。そんで、まあ、あとはアンタが見たとおり」
「ああ、そういうことだったんだ。どうしてあんなところにひとりで突っ立ってたんだろうって、ずっと気になってたんだ……ですよ」
うっかり敬語が抜けてしまったことに気づいて、おかしな語尾をつけてしまった。「いいよ、普通で」と、鬼面が吹き出す。見た目が年上の人に対して友人のように話すのは少し抵抗があるけど、相手がいいと言うのならと、お言葉に甘えることにした。
「えっと、でも、それだと猫又を助けたのは僕じゃなくて君じゃない?」
泉で彼が胸元になにかを抱えていることには気づいたけど、きっとあれが猫又の卵だったんだろう。そうなると、その時点で卵は彼の所有物――つまり所持アイテムになっているはず。仮にそのあとで鬼面が毒によって死んだとしても、卵が所持品から消えるようなことはない。
だから僕が鬼面の体力を回復したことが、猫又の救いになるとは思えなかった。そんな僕の疑問に、鬼面が首を振る。
「この卵は、拾った時点で持ち主の状態とリンクする」
「リンク?」
「そ。持ち主の体力ゲージや状態変化が卵の生育に影響して、持ち主が得た経験値が卵の孵化に影響する」
「……えっと、卵が孵って猫又になるには、持ち主が物怪退治をしたり依頼を受けたりして経験値をためないといけないけど、その間に《瀕死》になったり《毒》になったりすると卵に悪い影響が出ちゃうってこと?」
「そういうこと。その中でも特に悪い影響ってやつが出やすいのが《死亡》だ。卵を持った状態で死ぬと、高確率で卵が割れてなくなる」
割れてなくなる。つまり、あのとき鬼面が死んでしまっていたら、猫又も死んでしまっていたかもしれないってことだ。「だから」と、鬼面がそこで軽く息をはく。
「こいつを助けたのはアンタだ。アンタが育ててやって」
僕の鼻先に突きつけたままの球体を、早く受け取れとばかりに鬼面が軽く振った。しばらく迷う僕に「猫、嫌い?」と、からかうような声が飛んでくる。
「……嫌いじゃないよ」
そう答えて、僕はゆっくりと卵へ手を伸ばした。視界の中央で自動的に開いたウインドウが、ほかのプレイヤーとのアイテム受け渡しについての説明を表示している。心の中で「はい」という選択肢を選びながら、僕は両手で抱えるようにして卵を受け取った。
「ありがとう。大事に育てるね」
「おう。……はー。孵化すると受け渡しができなくなるし、そもそもこいつがいると満足に戦えねぇから、アンタを見つけられてマジでよかったわ」
「ずっと探してくれてたんだ?」
「そうだよ。わざわざ毒の泉に飛び込んで赤の他人を回復して死んだ変な巫女だってことくらいしかわかんねぇから探すの大変だった。それっぽいのを見つけたら見つけたで、特コス着てるから雰囲気ゼンゼン変わってるし」
「そ、それは、なんかごめんなさい。わざわざ、ありがとう」
「いいって。礼を言うのは、こっちだし。泉のときもだけど、さっきの橋のときも」
意外なセリフに、思わず目をぱちぱちさせてしまう。
「橋から突き落とした件については、君は怒ってるのかと思ってたけど」
「なんでだよ。そりゃびっくりしたし、やっぱりおかしなヤツなんだなと改めて思ったけどさ」
ハハッ、と。気持ちのいい笑い声が、青空に高く高く響く。
「なんか、ちょっと楽しかった」
そう言う鬼の面の向こうでは、きっと無邪気な笑顔が広がってるんだろう。目元を隠してしまっているせいで、誰にもそれを見ることができないのは、とてももったいないと思った。
「お、ちょうどいいとこに。――じゃあな、よっと」
フィールドを巡回していたバスの、あろうことか走行中の屋根の上へ、鬼面は身軽に飛び乗る。水の上を歩いていたことといい、一体どういう身体能力をしているんだ。そもそも職業はなんなんだ。どうして呪われているらしき鬼の面をつけているんだ。そこまで考えて、僕は相手の名前すら聞いてないことに気づいた。
「僕はハルキ! 君は!?」
「コロウだ!」
「コロ! また会える!?」
「おい、犬みたいに呼ぶな! さあな!」
コロを乗せたバスは、あっという間に見えなくなってしまった。あの状態だと、運賃はどうなるんだろう。払わなくてもいいんだろうか。
そんなどうでもいいことを考えている僕の手のひらの上にある卵が、ほんのり熱を帯びて脈打ったような気がした。