6-2
「え……?」
顔を上げた瞬間、ざあっと強い風が吹いた。舞い散る無数の花びらが、僕の視界を覆い隠す。目をすがめながら風が通りすぎるのを待ち、ようやくクリアになった世界で、僕は見た。――鬼の面を被った、長身のアバターを。
銀灰色の長いざんばら髪。和紙の折り紙で作られたかのような、全体的に派手で角張った衣装。青い空と太陽の光を背景にしたその姿は、まぶしいほどに輝いている。なにより特徴的なのは、顔の上半分を隠す鬼のお面だ。二本の角も生えているので、たしかに鬼だということはわかる。でも、どこか未来的なデザインのおかげで、僕は日曜日の朝によく見るバイクに乗ったヒーローを連想してしまった。
月蝕の泉で出会った鬼面――で、間違いないはず。その人が、橋の欄干の上に片足で立ったまま、じっと僕を見下ろしている。
突然の遭遇で声も出ない僕と同じように、鬼面も無言のままだ。表情はよくわからないけど、なにやら少し驚いているような雰囲気がしなくもない。
「アンタ……」
「ひゃい!」
低い声で呼びかけられて、僕はびっくりしてしまう。背の高さと体格の良さから察してはいたけど、やっぱり男の人だった――というか、しゃ、しゃべったあ! ひょっとして、僕のこと覚えてる? そもそも、今どういう状況? この人、一体どこから来たの?
「いたぞ、捕まえろ! あそこだ、橋の上だっ!」
「え、え? なに? なに?」
なぜか麗春祭が行われている北側から、たくさんの人たちが土煙を上げながら走ってきた。全員が同じ制服を着ている。NPCの警察だ。街の中やフィールドなどで、たまに巡回しているのを見かけることがあるけど、こんなに大勢の警察を一度に見たのは初めてだ。それが僕たちに向かって「かかれー!」とか言いながら、ものすごい勢いでやってくる。
「え? え、ちょ」
後退しようと振り返ると、南側からも同じような人数が、同じような形相で突撃してくる。完全に挟み撃ち。橋の上なので、どこにも逃げ場がない。
僕に心当たりがない以上、彼らが追いかけているのは鬼面のアバターということになる。何をしたのかはわからない。警察が捕まえようとしているくらいだから、多分あんまりよくないことだ。
再び鬼面を見上げれば、驚いたことに彼はいまだに僕のほうを見ていた。警察の動向なんて、まるで自分とは関係ないと思っているのか。もしくは、捕まったって構わないと思っているのか。
また、なにかを諦めているんだろうか。――あの、毒の泉のときと同じように。
「とりゃ!」
「!?」
自分でも本当に信じられないことをしていると思うけど、体が動いてしまったんだからしかたない。僕は欄干の上にいた鬼面のアバターに体当たりをするように飛びつくと、そのまま一緒に川の中へと飛び込んだ。
「……あれ?」
そう、飛び込んだ――はずだった。
水面に叩きつけられたときの衝撃とか、水しぶきの上がる大きな音とか、全身に感じる冷たさだとか。そういうこともまるっと覚悟して硬く目を閉じたはずなのに。なぜか、なにひとつ起こらない。それどころか。
「え、え?」
浮いている。いや、正確には水の上に立っているのだ。
誰が?
僕が?
いや、鬼面のアバターが!
「なんでなんでなんで、どういうこと!?」
「舌かむから黙ってろ」
自分の今の状況がわからず、ぐるぐる回る視界で混乱している僕の耳に、少しいらだったような低い声が刺さった。反射的に、口にチャックをする。忠告どおり舌をかまないようにするためというよりは、彼の――鬼面の口から、意味のある言葉をもっと聞きたかったからだ。
そのまま、上に下にと体が浮遊している感覚がしばらく続く。どうやら、僕は川の上を走る鬼面に抱えられているらしい。いわゆる、お姫様抱っことかいうやつだ。だいぶ恥ずかしいけど、この状態だと鬼面の顔が近くにあるので、ここぞとばかりにじっくり観察することができた。
目元だけ覆った鬼面の下には、すっと通った高い鼻があって、強く引き結んだ唇がある。やっぱり、ちゃんとした人間だ。最初の印象より、だいぶ若く見える。僕とメイくんの、ちょうど中間くらいの年齢設定かもしれない。
そういえば、警察はどうしたんだろう。あまり身動きができない状態ながらも首だけを動かして、鬼面の背後を確認する。さっきまで僕たちがいた橋の上では、警察が団子状になって、こちらを指さしながらなにかを叫んでいる。けれど、その姿がだんだん小さくなると、やがて糸が切れた数珠玉のように全員が同じタイミングでばらばらに散っていってしまった。境界線から出た僕とメイくんを追ってこられなかった、あのコンニャク妖怪みたいに。
そんなことを考えている間に、いつの間にか川に沿って火ノ都の外までやってきたらしい。周囲に誰もいないことを確認すると、鬼面は芝の生えた地面に僕を立たせるように降ろしてくれた。
「あ、ありが――」
「アンタ、水に飛び込むのが好きなのかよ。フツー、あの場面であんなことするか?」
どうやら逃げている間も、よっぽど腹に据えかねていたらしい。覆い被さるように詰め寄ってくる鬼面の迫力に気圧されて、僕は思わず後ずさってしまった。
「で、でもその、お、追われてたから……」
「俺はな。アンタは関係ないだろ」
「いや、そうなんですけど、でも、あのときはああしたほうがいいと思いまして……」
「はあ? なんで?」
なんで。なんでだろう。ほとんど考えなしに動いてしまったので、言葉にするのは難しい。なので、相手の印象を率直に答えることにした。
「そんなに悪い人じゃないかもしれないと思ったから?」
「は?」
首をかしげる僕と合わせ鏡になったかのように、鬼面も同じ方向へ首をかたむける。ぽかーん、という大きくてマヌケな文字が、お互いの間に見えたような気がした。
「……ま、いいや。それで? なにをどうしたら、そんなに悪い人じゃなさそうな人を橋から体当たりして突き落とそうって結論になるんだ?」
「あの数の警察から逃げ切るには、川に飛び込んで岸まで泳ぐしかないかなと思って」
「アンタも一緒に? 俺だけ突き飛ばせばよかったのに」
俺だけ突き飛ばせばよかった。
鬼面のその言葉には、きっと悪気も深い意味もない。それはわかっている。けれど、僕の胸にはどうしようもなく重く響き渡った。
全身の血が一気に引いて、心臓が鈍い音を立てる。目の奥と頭の奥が白く光る。忘れていたものを思い出しそうで、思い出せない。いや、思い出したくない。
――なにがよかったって言うんだ。
なにも、なにもよくなんてなってないのに。
「……あー、違う。別にアンタに文句が言いたかったわけじゃないんだって」
いつの間にか地面に視線を落としたまま黙り込んでしまっていた僕の頭のてっぺんに、鬼面の困ったような声が落ちてくる。
「本題は、こっち。これを渡そうと思って、アンタを探してたんだよ。なのに、全然どこにもいねぇから」