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第三章 傭兵の決 1

 アマーリエがつぎに気が付いたとき、初めに感じたのは、鼻腔をくすぐる芳しい肉汁(スープ)の匂いだった。


 

 ――乾燥パセリとローズマリー。セージも入っているみたい……



 芳香の成分を無意識に分析しながら目を開けると、右手の頭上から斜めに射しこんでくる澄んだ灰色の陽射しのなかに、見覚えがあるのだかないのだかよく分からない若い男の顔があった。


 男というよりまだ少年の年頃かもしれない。

 くるくる縮れた褐色の髪とクルッとした茶色い目。

 幅が広くて鼻の短い頬の赤い顔だ。



 ――ええと……



「アルベリッヒ?」


 うろ覚えの名を口にするなり、少年――若い傭兵のアルベリッヒが目をぱちくりさせ、くしゃっと顔を崩して笑った。

 人懐っこい猟犬の子犬みたいな笑顔だ。

「覚えてくれてたのかお姫さま! そうそう、俺はアルベリッヒだよ。具合はどう? 起きられる? あ、隊長殿(シェフィン)! お姫さまが起きましたよ――!」

 忙しく口にしながら、首だけで光の後ろを振り返る。


 視線の先にあったのは、板床の一画を四角く切った狭い土間だった。

 右手の壁際に土づくりの竈がしつらえられて、その前に誰かがしゃがみこんでいる。煙出しらしい素焼きの円筒が壁沿いに上へ、上へと伸びて直角に曲がり、向かい壁の上部の三角形の隙間から外へとつながっている。

 澄んだ灰色の光は、格子を嵌めたその隙間から射してくるのだった。

 隙間の下にはドアがあった。

 木製のしっかりしたドアだ。


 ここは屋内なのだ。


 アマーリエは、そのときに至ってようやく、自分が毛織物を重ねた寝床の上に横たわっていることに気付いた。

 地面ではなく板造りの寝台の上だ。


 見れば、その場所は一辺二丈(ルーデ)《約6m》ばかりの、切妻屋根の丸太小屋のなかのようだった。

 赤茶色の木目をくっきりと浮かべた太い四本の梁から、よく乾かされた香草の束や表面が白く変じた古そうなベーコンや、大蒜や玉葱を連ねた紐が幾筋も吊るされている。



「ここは――」


「古街道上の番小屋だ」と、竈の前の人影が答えて立ち上がった。「目が覚めたかアマーリエ。具合はどうだ?」


 穏やかなアルトで言いながら、竈の上の鍋から大きな木の匙で何かを掬って厚手の木の椀に充たす。

 そして、光の帯を抜けて寝台の傍へと近づいてきた。


 灰金髪を短く刈り込んだすらりと背の高い女性だ。

 微かに黄みがかった白っぽいシャツの袖を捲って、ワインレッドのジレを重ね、膝までの丈の濃い灰色のズボンを履いている。

 年頃はよく分からない。

 唇が薄く鼻梁の細い怜悧な顔立ちをしている。


「……隊長殿(シェフィン)?」

 アマーリエが心許なく瞬きをしながら呼ぶと、女性は笑って頷いた。

「ああ。私は《赤翼(ローテ・フリューゲル)》のフレデリカだ。ゼントファーレンじゃちょっとした顔なんだぞ? ――念のためだが、あんたはフォン・ヴェルン男爵家の長女のアマーリエ姫で本当に間違いないんだな? 実は侍女だとか身代わりの乳兄弟だとか、そういうおちじゃないんだろうな?」

「はい。間違いありません」

 まるであの忘れがたい裁判の席の一番初めの問いかけのようだった。

 アマーリエは全身を硬直させて答えながらも、フレデリカの手許の椀から立ち上る湯気から目が離せなかった。


 数種類の香草(ハーブ)で風味付けした芳ばしい肉汁(スープ)の匂いだ。


 見ているうちに口のなかに唾が湧いてくる。

 飲み下したとき、キュウウ、と腹が鳴った。


「あ」

 アマーリエは恥ずかしさに耳まで真っ赤になった。


 フレデリカが声を立てて笑う。

「食欲が戻ってなによりだ! 飲め。少しずつな?」

 と、アマーリエの上体を起こさせて椀を持たせてくれる。


 アマーリエは両手で椀を包むように持つと、躊躇いながらもじかに口をつけた。

 一口啜るなり、芳醇な滋味が口いっぱいにしみ込んでくる。

 食べ物に味がするのは本当に久しぶりだ。


「美味しい……」


 思わず呟いてから、はたと思い出す。

隊長殿(シェフン)!」


「どうした?」と、フレデリカがなぜか視線を泳がせる。「その肉の正体だったら、何というかこう、飲み終わるまではできれば聞かないほうがいいというか――」


「いえその」と、アマーリエは肉については何も気づかずに訊ねた。「火傷はぶじ癒えましたか? あの、レオン殿の」

 治癒者としてまず第一に気にするべきことを忘れきっていた自分を恥じながら訊ねると、隊長がきょとんと眼を見開き、そのあとで、軽く目元を擦ってから頷いた。

「ああ癒えたよ。もうすっかり元気だ」

「よかった――」

 アマーリエは心底ほっとして笑った。

 フレデリカはその顔をつくづくと眺めてから、傍らに控えるアルベリッヒを見やって訊ねた。


「どうだアルベリッヒ、お前の見解は?」

「ええと、そのですね――」と、若い傭兵は口ごもりぎみに答えた。「わたくしめもレオン殿に賛成です。この()が本当にアマーリエ姫で、アマーリエ姫がこういうお姫さまだっていうなら、このままウーゼル城に向かうのは気が進みません」

「そうか。つまり私とも同意見だな」と、フレデリカは頷き、やおら立ち上がると、つかつかとドアへ歩み寄るなり、扉を開きながら呼ばわった。


「おいみな集まれ! 今後の方針について《傭兵の決》を採るぞ!」



「《傭兵の決》……?」

 アマーリエが心細く呟くと、アルベリッヒが幼馴染の友達みたいに肩を叩いてきた。

「大丈夫だってお姫さま! 安心して肉汁(スープ)を飲んでな。あんたの悪いようには絶対にならないから」

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