第二章 方陣聖域 3
「なんだアマーリエ!」
「後です! 知性触手が後ろから馬車を持ち上げています!」
その瞬間、隊長が振り返りながら叫んだ。
「――ハインツ!」
「はい隊長!」
「弩を構えろ!」
「はい!」
方陣のなかの傭兵の一人が答えるなり弩に矢をつがえる。
次の瞬間、車体がニメートルばかりも一気に持ち上がったかと思うと、ひときわ太い触手がその下から踊りだした。
「――全員動くなよ!」
触手は車体を高く掲げて、方陣の上から人々の上へと落とそうとしているのだった。
アマーリエは抑えようもなくガクガクと足が震えるのを感じた。
箱馬車が少しずつ、少しずつ頭上へ持ちあがってゆく。
触手が車体を放した瞬間、
「今だ、開口部を射ろ!」
隊長が鋭く命じた。
ハインツがあらかじめ構えていた弩から矢が放たれ、悍ましい粘液を垂らしながら収縮する開口部を射貫く。
同時に隊長が叫んだ。
「――わが守護たる風神アンティノウスよ! 風をくだされ賜え!」
途端、頭の上からグーっと見えない何かが圧し掛かってくるような圧迫感が生じたかと思うと、隊長を中心にして、渦を描くようにして四方から風が流れこんできた。
隊長が両腕で見えない球を抱くような姿勢をとったかと思うと、身をかがめて腕を広げた。途端に風の向きが変わる。
隊長の羽帽子が風に吹かれて後ろへと飛ぶ。
現れでた短い灰金髪がヤマアラシみたいに逆立つ。
アマーリエの長い黒髪が外側に向けて靡く。
方陣の真上に落下しようとしていた車体がわずかに後ろへそれる。
三本の触手も外へ向けて倒れてゆく。
「全員内側に伏せろ!」
隊長が鋭く命じる。
「アルベリッヒ、アマーリエを頼む!」
「はい隊長殿! 来いお姫さま!」
アルベリッヒがアマーリエの右手を掴んで二、三歩内側へ駆けだし、自分の体でアマーリエを庇うようにしてがばりと地面に伏せた。
次の瞬間、すぐ近くで大音響があがった。
車体が落ちたのだ。
馬二頭が甲高く嘶く。
そのあとで風が止まった。
「やれやれ、間一髪だったな――」
隊長が額の汗をぬぐいながら振り返りなり、灰色の眸を見張って叫んだ。
「レオン? おい大丈夫か、しっかりしろ!」
見れば、方陣の前衛右手を護っていた大柄な髭の男が、背中を丸めて地面に蹲っているのだった。その体の下に御者がいる。
黒髭のレオンの背中は焼けただれていた。
酸の粘液を受けたのだ。
その体の下から這い出た御者は提灯を抱いていた。
レオンの負傷に気付いて顔色を変える。
「いててて、隊長どの、大丈夫でさあ」と、レオンが体を起こしながら強がる。
その顔は蒼白だった。
「――おいお姫さま!」と、弩を手にしたハインツが怒鳴る。「あんたニーファの加護持ちだろ、さっさと癒してくれよ!」
「無理だ、この娘の顔色を見てみろ」と、隊長がとりなす。「レオン、癒さなければ今すぐ死にそうって程でもないな?」
「普通に治療してもらえればね」
黒髭のレオンがおどけた声で答える。
相当に痛むようで、額に脂汗が浮かんでいる。
アマーリエは肩で息を整えながら近づくと、黒髭の大男の背中にそっと掌を触れた。
「おい大丈夫か?」と、アルベリッヒが心配そうに訊ねる。
「無理はしなくていいぞ?」と、隊長。
「大丈夫です」と、アマーリエは掠れた声で答えた。
正直もう立っているだけで限界だった。
心臓がドクドクと高鳴りっぱなしで、息をするたびに肺が痛む。
それでもこの傷は癒したかった。
目の前に怪我人がいる以上、何とかして癒してやりたい。
アマーリエは目を閉じると、声に出して癒しの女神に呼びかけた。
「わが守護たる癒しのニーファよ。お力をくだされ賜え」
途端に全身が熱くなり、掌にその熱が集まってゆくのが分かった。
暗闇の中で、アマーリエの華奢な掌の下がぼうっと淡く光る。
柔らかな黄みを帯びた琥珀色の光だ。
アマーリエは全身を水に沈められているような息苦しさを感じた。
額に脂汗が浮かぶ。
「癒したまえ」
どうにか言葉を口にするなり、アマーリエの意識は途切れた。
暗い冷たい水の底に落ちてゆくようだった。