第二章 方陣聖域 2
アマーリエを含めた加護持ち四人が配置に付き、提灯を手にした御者を含めた八人と馬二頭が方陣のなかに入る。
赤い羽根帽子の隊長は、アマーリエから見て正面の方陣の一角に立っていた。
背丈より長い槍を構えて、方陣の内側に背を向けている。
女傭兵なら当然といえば当然だが、彼女もやはり加護持ちなのだろう。
森の静けさはもはや息苦しいほどだった。
緊張のために手に汗が滲んでくる。
アマーリエは昔教わった手順通り、心の中で聖ニーファへの加護を求める祈祷文を繰り返しながら、体のなかに充ちてくる熱と似た力を、足の裏を通じて、目の前の方陣のなかへと行きわたらせようとした。
力の行使は体力を使う。
じっと立っているだけで、まるで全力で駆けているように息が苦しくなる。
ハッハっと肩で息を整えながら汗ばむ手を握りしめたとき、不意に前方の石畳が地中から押し上げられるように盛り上がったかと思うと、投石器ではじかれた石礫のように跳ね飛び、牛の内臓が腐ったみたいなすさまじい臭気とともに、直径三メートルはありそうな赤黒く太い管状の何かが躍り出てきた。
皮膚を剥がれた巨大な蛇か、怖ろしく大きな蚯蚓のようだ。
「――地性触手……!」
「うわああ、森の巨大ミミズだあ!」
教科書知識を思わず叫んだアマーリエと、見たままを叫んだっぽいアルベリッヒの悲鳴が同時にあがる。馬二頭の激しい嘶き声がその声に重なった。
「うるせえクソガキども!」
「おい御者、馬を抑えておけよ!」
と、前衛のレオンと隊長がこれも同時に叫ぶ。
間髪入れず、今度は右横の地面が盛り上がり、前方よりはいくらか細めの赤くヌメヌメした触手が、やたらと素早い勢いで殆ど垂直に踊りだした。
それが上からまっすぐにアマーリエの頭の上へと鞭みたいに襲い掛かってくる。
「いやあああーー!」
アマーリエが思わず叫んで目を瞑ったとき、
「――アマーリエ!」
前方の隊長が叫んだ。
「目を瞑るな! 私の背中だけ見ていろ!」
アマーリエは必死で目を開いた。
四人の加護持ちが全員目を閉じたら方陣聖域は破れる。
四人が完全に同時に瞬きをする確率は極めて低いが、誰かがずっと目を閉じてしまえば、破れる可能性が格段に高くなるのだ。
アマーリエは必死で目を開いた。
魔術性の力が外から方陣を破ろうとしているのか、全身を上から圧迫されているような息苦しさが襲ってくる。
実物の地性触手は、教科書の挿絵で見るのとは全く違った。
まず臭いが酷い。
それに先端の開口部だ。
孔の内側に細かい牙があって、獲物を咥えて体液を吸収する孔だが、それが収縮を繰り返しながら、見るからにねっとりとした粘液を滴らせている。
粘液は強烈な酸性だ。
雫が地面に落ちるたび、下草がジューッと音を立てて焔をあげずに焼け爛れてゆく。その臭気も強烈だった。
目から涙が出てくる。
――痛い。苦しい。辛い。
アマーリエははあはあと肩で息をしながら必死で目を開いていた。
「お姫さま、気張れよ? そのうち本体が出てくる」
黒髭のレオンが囁く。
地性触手はいつのまにか三本に増えていた。
前方と左右からそれぞれ一本ずつ、地中から生える巨大蛇みたいに鎌首をもたげて、方陣聖域の上方でゆらゆらと先端を揺らしている。
開口部から滴る粘液が、ぽたり、ぽたりと地面に落ちて下草を爛れさせてゆく。
アマーリエは眼球が乾くほど目を見開いたまま、肩で息をしながら、ひたすらに前方に立つ隊長の背中だけを見ていた。
額に浮かんだ汗の粒が膨張し、小鼻の脇を伝って流れ落ちてゆく。
その雫が唇の端まで来たとき、背の後ろから微かな物音を感じた。
ギギ、ギギ、とごく微かな、石と金属が擦れるような音だ。
前衛の二人は三方を囲む鎌首に集中している。
右手のアルベリッヒは、今しがたまでのアマーリエと同じように、怯えた顔でひたすらにレオンの背中だけを見ている。
アマーリエは全身に緊張を感じながら、そろそろと背後を振り返った。
そして息を飲んだ。
背の後ろに停められた馬車が少しずつ浮き上がっているのだ。
アマーリエは咄嗟に叫んだ。
「――隊長殿!」