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第十五章 逆転裁判 3

 半月後である。


 アマーリエは豪奢な調度の暖かな部屋で、物言わぬ侍女たちに手伝われて、寝間着から黒い天鵞絨のドレスに着替えていた。

 高い襟に芯の入った、袖の上部にだけわずかにふくらみのある、ごくあっさりしたデザインのドレスだが、前身頃には磨きの良い黒玉の釦が並んでいるし、袖口にはかなり大粒の真珠のカフスがついている。南部地方きっての旧き剣の貴族の姫君という身分に相応しい贅沢な衣服だ。


 肩までの長さに切ってしまった髪も、昨夜丹念に湯で洗われて香油で整えられたために、かつての光沢を取り戻して、細い肩の上で艶々と輝いている。侍女たちはそのやや短めの髪を四苦八苦して髷にまとめようとしているのだった。


 じきに身支度が調うと、別の侍女の手で朝食が運ばれてくる。

 食器はすべて銀無垢だ。

 熱いグリューワインと白い軽いパン。

 蜂蜜とバターと干し果物の甘煮。

 口当たりの良い贅沢な食事が終わると、侍女の一人が無言でドアを開け、外へ出るようにと促してくる。


 赤い絨毯を敷き詰めた長い廊下を歩き、階段を下って、大扉の開いたままになっている玄関から戸外へ出ると、石畳の前庭に、窓に板戸を下ろした二頭立ての黒い小型の馬車が待ち受けていた。

 馬車の傍に黒馬がいた。黒い帽子に青い上衣の将校らしき若い男が手綱を引いている。

「姫君、どうぞお乗りを」

 アマーリエは無言で頷いた。



 護送馬車に乗るのは人生で二度目だ。

 これから裁判が始まる。



 二か月前に乗っていた粗末な箱馬車と違って、今回の護送馬車の内部は、さっき後にしたばかりの室内と同じほど贅沢で暖かかった。

 座席は革張りで、金の房の付いた赤い天鵞絨のクッションが置かれているし、足元には赤い炭火の燃える陶器の火鉢が置かれている。乗り込んで扉が閉められると、明かりは前の格子から射しこむ細い陽光だけになった。すぐに馬車が走り出す。石畳の上をカラカラと走る車輪の振動を感じながら、アマーリエは両手を組み合わせて聖ニーファの守護を願った。

 自分一人のためではない。

 これから始まる裁判には沢山の人間の人生がかかっているのだ。


 ――そうよアマーリエ・フォン・ヴェルン。絶望なんかしていられない。わたくしが冤罪を晴らさなければ院長先生の疑いも晴れない。隊長殿(シェフィン)は一生幽閉されてしまうだろうし、レオンやアルベリッヒたちもきっと罪に問われる。わたくしの身代わりを引き受けてくれた博士(ドクトル)にだってきっと類が及ぶ。


 わたくしの人生はわたくし一人のものじゃない。

 理不尽な運命を受け入れてはいけない。

 抗える限りは抗わなくては。



 自分自身にそう言い聞かせているうちに心が落ち着いてきた。

 そのうちに馬車が停まった。


 

 暖かな狭い馬車から降りると、冬らしい冴えた冷気が膚を刺した。

 目の前に、七本の円い石柱を並べた大きな建物のファサードがある。

 それぞれの柱の間に、黒い毛皮の帽子に青い上衣の兵士が一人ずつ立って、長槍(パイク)の矛を銀色に煌めかせている。

「――今日の裁判はずいぶんと耳目を集めていますからね」と、前を行く将校が独り言のように呟く。「見物の群衆が押しかけてこないよう、我々は大忙しです」

 淡々と告げる男の声からは、ごく微かながら、同情めいた暖かさが滲んでいるような気がした。

 無言の兵士が彫像みたいに立ち並ぶ天井の高い広間を抜けると黒い両開きの扉があった。


「主席判事閣下、フォン・ヴェルンの姫君をお連れいたしました!」


 護衛の将校がよく響く声で告げるなり、重たげな扉が内側から開いて、暖気とともになぜか眩い陽の光が射しこんできた。



 扉の内側はさほど広からぬ円形の広間だった。

 肋骨みたいな梁を備えた丸天井が被さって、頂に円い天窓が開いている。

 まったく風が吹き込んでこないところを見ると硝子が嵌まっているらしい。

 光の源はその天窓だった。

 天井が鮮やかな群青色に塗られているため、まるで室内に小さなもう一つの太陽が出ているようだ。

 鋭く射しこむ光の帯の手前に黒い木の椅子があり、向かいの台の上には肘掛椅子がある。

 椅子に掛けているのは、白い毛皮の縁取りのある重々しい群青色の長いケープの裾を代の上に広げたまだ若そうな人物だった。

 左右に地味な黒っぽいなりをした官吏らしき人物が二人ずつ並んでいる。

 広間の左右には長い木のベンチが据えられ、そこに幾人かの男女が腰掛けていた。


 左手の奥にかけているのはシグムンドだった。

 まるで今のアマーリエと御揃いみたいな仕立ての良い黒装束で、華やかな銀髪の巻き毛をふさふさと垂らしている。

 シグムンドの隣に短い灰金髪の女性がいた。

 すっきりとした紺のドレス姿の細身の女性である。

 よく見るとフレデリカだった。

 隣にレナーテまでいる。いつ、どこからどう取り戻したのか、アマーリエがベルガー工房に預けっぱなしにしていたはずの聖ニーファのローブ姿で、胸元に金のメダルを輝かせている。


 右側のベンチの奥に、レナーテと同じく聖ニーファのローブに、帝国上級治癒医師の証である金のメダルをかけた見知らぬ壮年の男がいた。

 黒いケープを肩にかけ、金の縁取りのある黒い円帽を被った、象牙色の端正な顔立ちをした男だ。

アマーリエはその男の横顔を見るなり寒気を感じた。

 血まみれの牙をもつ大きな獣が物陰で息を潜めていることに気付いてしまったかのような、何か本能的な恐怖を感じたのだ。

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