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第十四章 二人の祭司長 3

「ベルガーどの? どうなさいましたの?」

 アマーリエは狼狽えた。

 記憶の中にあるアーデルハイト・ベルガーは、顔を知らない母みたいに慕わしくも落ち着いた、しっかりした年配の女性だった。

 こんな風に取り乱して泣くところなど想像さえしたことがなかったのだ。


 アーデルハイトはそんなアマーリエの両肩を掴んで、すみません、すみませんと繰り返しながらすすり泣いていたが、じきに口元を抑え、ヒグっと喉を鳴らしてから、たった今水から上がったばかりのように大きく息をついた。

「申し訳ありません、取り乱してしまって。――フォン・ヴェルンの姫君、アマーリエさま、よくぞご無事でいらせられました。ウーゼル城からはどのように御逃れに? フレデリカも一緒に? ああ、その前に、どうぞお座りになって」

 たった今の狼狽を取り繕うかのように口早に椅子を勧めてくる。

 アマーリエは勧められるまま腰かけながら答えた。

「残念ながら隊長殿(シェフィン)はまだウーゼル城に捕らわれております。わたくしの身代わりとなってくれた同輩も一緒です。わたくしはこれから冤罪を晴らすためランサウへ向かうつもりだったのですけれど、水辺門から市内へ入ったところで何かに後をつけられているような気がして、念のため服装を変えようと思って、ベルガーどののご住所を思い出したのですわ」

「頼っていただけて光栄です。ああ、それにしてもなんて間の悪いこと!」

 アーデルハイトがひそめた声で嘆いてまた目を潤ませる。


 アマーリエは慌てて訊ねた。

「どうなさいましたの? まさか、わたくしが来たら引き渡せと市当局から?」

「いいえ、幸いそうではありませんけれど」と、アーデルハイトが愕いたように言う。「先ほど急に赤マントの警吏の使いがやってきて、あなた様のお顔を描いた素描があったら持ってくるようにと命じられたのです。よっぽど偽物を出そうかと思ったのですけれど、息子や夫にもし万が一のことがあったらと思うと嘘もつきかねて、本物の素描を差し出してしまったのです。何に使うものかと思っていましたが、あなた様が市内にいるとなったら使い道はひとつです。五つの市門すべてに人相書きを回して警備を固めるのでしょう。こんなことなら、どれだけ危険を冒しても偽物を渡しておけばよかった!」


「ベルガーどの、ベルガーどの、落ち着いて」

 アマーリエは慌てて宥めた。「そんなことをなさらなくてよかったわ。ご家族に類が及んだら大変ですもの。そういうことなら、わたくしは今すぐ出立します。今さっき素描を渡したばかりなら、人相書きがすべての門に行きわたるまでには少しは時間があるはず。急げばきっとまだ――」



 そのとき、不意に、ノックもなしに背後のドアが開いた。

 アマーリエはびくりとした。

 同時に男の声が言う。


「や、姫君。まずは確かめたほうがいい」



「フランツ!」と、アーデルハイトが眉を吊り上げる。「あんた、なんで勝手に入ってくるの!」


「勝手はあんまりだろう。俺の寝室でもあるんだから。あんたたち、密談をするならもう少し声を潜めたほうがいいよ」


 飄々とした声で言いながら薄暗い寝室に入ってきたのは、灰色っぽい髪をしたやせ型の中年男だった。顎の尖った小さめの顔ともしゃもしゃとした眉毛。毛織のシャツに黒いベストを重ねて細かい傷の沢山ついた黄土色の革エプロンをかけている。

 見ればその後ろにはヨハンまでいた。大層いたたまれなそうな顔をして、手に厚手の蓋つきの銅のゴブレットを持っている。


「ヨハン! あなたまでどうして」


「驢馬なら心配ありませんよ」と、フランツが飄々という。「表に繋ぎっぱなしにしておくと人目につきますから、荷物だけ中に入れて、うちの息子に埠頭地区の風の神殿に預けにいかせましたから」

「姫さま、勝手なことをしてすみません」と、ヨハンが項垂れる。

「いいのよ。あなたの判断だったら。こちらの方――フランツどのというのは」


「夫ですよ」と、後ろからアーデルハイトが唸るように答え、自分よりやや背の低い夫の顔を睨みつけた。「どこから聞いていたの?」

「そうだな――」と、フランツが顎に手を当てて首を傾げる。「『申し訳ありません、取り乱してしまって』ってあたりかな?」

「殆ど初めからじゃないの!」と、アーデルハイトが憤る。「じゃ、話の成り行きは大体わかっているんだね?」

「まあね。大体はね」

 フランツは何となく不服そうに答え、もしゃもしゃとした眉を吊り上げてアーデルハイトを睨み返した。

「ハイジ、随分水臭いじゃないか! ヨーゼフはともかく俺にまで秘密にするだなんて、あんたの連れ合いはそんなに頼りないかね?」

「巻き込みたくなかったんだよ。危険な話になるかもしれないから」


「申し訳ありませんフランツどの」と、アマーリエは詫びた。「追われる身で不用意に頼ってしまって。埠頭地区というところに聖アンティノウスの神殿があるのですね? でしたら、すぐそちらに――」


「や、そいつは無理ですよ」と、フランツが気の毒そうに答える。「埠頭地区は市壁の外です。あすこに出られるならどこにだって出られる。もうじきにヨーゼフが帰ってきますから、門がどんな具合だったか聞いてからにしたほうがいい。姫君はこちらでお休みを。わたくしは階下の作業場におります。ハイジ、あんたもたまにはゆっくりしているといいい。密談は小声でな?」

 フランツが悪戯っぽくウィンクをし、恐縮しきりと肩をすぼめるヨハンを連れて階下へと降りてゆく。


 まだかなりの温みを残した銅のゴブレットを両手で持ちながら、アマーリエはほうっと息をついた。

「ベルガーどの――」

「何です姫君?」

「素敵な旦那様ですねえ!」

 心の底から感嘆すると、アーデルハイトはちょっと愕いたように目を見開き、そのあとで声を立てて笑った。

「実はそうなんですよ!」


 

 グリューワインは蜂蜜とシナモンで風味づけられていた。底に細かく刻んだ干し林檎が沈んでいる。アマーリエがアーデルハイトと交互に一口ずつ啜りながら、ここまでの道中で何があったかを手短に説明していたとき、今度はきちんとノックをしてフランツが戻ってきた。


 何やら複雑な表情で、丸めた羊皮紙のようなものを手にしている。


「フランツ? どうしたの?」

 アーデルハイトが立ち上がって不安そうに訊ねる。「まさか、姫君がここにいることが?」


「や、それは大丈夫そうだ。だが、門はやっぱりもう難しそうだ。ヨーゼフの話では、いつもの門衛二人に加えて、大きい犬を連れて弓をもった狩人みたいな連中が三人もいたそうだから」

「――ゼント渓谷の狩人隊ですわ」と、アマーリエは蒼褪めた。

「谷の森林警備隊(レンジャー)たちか」と、アーデルハイトが難しい顔をする。「下手な傭兵より腕利きだね。そうなると、確かにもう門は無理だ。ところでフランツ、あんた何を大事そうに握っているの?」

 アーデルハイトがフランツの手元の細い羊皮紙の筒を見やる。


 紙の合わせ目の部分に濃い青い封蝋が垂らしてある。 

 上に押された印は《翼と車輪》を象っているようだった。

 風の神アンティノウスの紋だ。


「そちらは、その、埠頭地区の風の神殿から?」

 アマーリエが躊躇いながら訊ねると、フランツが目を瞠った。

「あ、ええ。その通りです。ヨーゼフが――わたくしどもの息子が、姫君のお連れの驢馬を神殿の厩に預けに参りましてね、そこで祭司長さまに、聖ニーファのローブをお召しの若い女祭司さまが母を訪ねてきているのだと話したようなのです」

「まあ」

 アマーリエは恐怖と緊張を感じた。


 アーデルハイトが後ろから肩を抱いてくる。

「大丈夫ですよ姫君。メレルさまは――埠頭地区の風の祭司長さまはフレデリカを可愛がっているお方ですから」

「お口は悪いし怒りっぽいが、あの方こそまさに民への奉仕者ですよ。埠頭地区の孤児や怪我人や老人たちを神殿内で沢山養っていらして、いつだってとても貧しいんだ」と、フランツも言い添える。

「で、その話をお聞きになったあとで、メレルさまが急にお部屋に引っ込んだかと思うと、縁の凹んだ細い銀鍍金の花瓶を持っていらして、うちの工房で修理をしてくれって言いだしたんだそうだ」


「鍍金の花瓶?」と、アーデルハイトが訝しむ。「ベルガー工房が額縁と宝飾細工の専門だってことは、メレルさまなら当然ご存じでしょうに」

「そうなんだ。それで俺もおかしいと思って、中を見てみたら、案の定この封書が入っていたってわけさ。但し書きに「A」へと書いてある。ハイジ、たぶんあんた宛だろう」

「そうだね。――もしかしたらアマーリエさま宛かもしれない。姫君、わたくしが開封しても?」

「お願いいたします」

 アーデルハイトはごくりと喉を鳴らすと、微かに震える指先で青い封蝋を剥がし、アマーリエに差し出してきた。

「姫君、念のため確認なさって。間違いなくゼントファーレンの風の神殿の印ですか?」

 《翼と車輪》の意匠の周りには、蟻のように細かな字で「帝国自治都市ゼントファーレン埠頭地区神殿」と刻まれていた。

「ええ。間違いありません。――そのメレル祭司長さまという方は何と?」

 訊ねても、アーデルハイトはすぐには答えなかった。

 額に浅い縦皴を刻んで何やら考えこんでいる。

「ハイジ、どうしたんだ?」

 フランツも心配そうに訊ねる。

 アーデルハイトはさらに眉をよせると、羊皮紙の文面を二人に広げてみせた。

「二人とも、これどういう意味だと思う?」


 アマーリエとフランツは絶句した。


 紙面に描かれていたのは地図だった。

 下方に太い二重の平行線で川らしきものが描かれ、真ん中に橋が架かっている。

 その上の円形は市壁だろう。

 ところどころに点々と赤い×印が散っている。


「これは――」と、フランツが呟く。「ゼントファーレンの地図?」


「そんなことは見れば分かるよ!」と、若き日に地図作成に精を出していた細密画家は憤った。

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