第十三章 市の白犬 2
アマーリエから渡された五枚のレーゲンハイム銅貨を握りしめたヨハンが西棟の二階の露台へ出ると、眼下の長細い中庭の四隅に篝火が灯っていた。
火明かりに照らされた庭の真ん中あたりで、派手な黄と緑の縦縞の衣をまとった旅芸人がヴィオラを弾いている。庭にはテーブルが並んで、袖や襟に毛皮を配した立派な身なりの泊り客たちが、揃いの白い陶器の杯を片手に肉料理に舌鼓を打ちながら、寒空の下で楽しそうに食事に興じているのだった。
彼らは階段を降りてきた小柄な年寄には何の注意も払わなかった。
ヨハンはそそくさと北棟沿いの物陰を進んで、東棟の裏手に設けられた厩舎へと急いだ。
厩舎には従者や傭兵向けの大部屋が二つ付随している。
ヨハンは大きい方の一室に入ると、荷物番の少年に預け札を渡して背嚢を出してもらった。中から野営のときに使う木製の鉢を取り出し、早足に中庭へと戻る。
陽気なヴィオラの旋律に合わせてほろ酔い加減の泊り客たちが手拍子を打っていた。
ヨハンは目立たない鼠みたいに南棟へと向かい、護衛にちょっと頭をさげてアーチ門の外へと出た。
もう陽が落ちているというのに、外の広場も中庭と変わらないほど明るかった。
左手の頭上に突き出す赤い竜の看板の横に火を入れた角灯が吊るされている。
並びの他の建物もみな角灯に燈を入れているし、左手のはるか高い位置には、市門の左右を護る円塔の歩廊に燈されているらしい篝火の火明かりも見える。右手の大橋の左右にももう火が燈されていた。
市門の扉は閉ざされていた。
ヨハンは用心深い犬みたいにきょろきょろっと左右を見回してから、人影の疎らな広場をよぎって南側へと向かった。
そちら側にも数軒の石造りの建物が並んでいるものの、真ん中の細い路を進んで広場から離れるにつれて、左右に立ち並ぶ建物の造りがだんだん粗末になってくる。大体がみな木造で、屋根はひび割れた板張りだ。建物が粗末になるにつれて、逆に賑わいが増してくる。
このあたりはゼントファーレンの埠頭地区だ。
ゴロゴロした丸い石を敷き詰めた幅1丈〈約3m〉ほどの狭い路の左右に、粗末な木造の木賃宿や酒場がびっしりと並んで、川船の漕ぎ手や荷運びや、傭兵や狩人や牛の解体人や、娼婦や芸人や乞食や何やらが、わいわいガヤガヤ騒ぎながら粗末な夕食に興じている。
田舎の長閑な城下町ミッテンヴェルン育ちのヨハンは、こういう本物の町場へ来るといつでも緊張してしまう。
雑踏の中をびくびくと歩きながら、ヨハンは唐突に、このままどこかの木賃宿に駆けこんで夜を明かし、明日の朝一番の下り舟に乗り込んでしまいたいと思った。
ゼントファーレンから下り舟に乗れば半日でザルツハウ領の小さな港町メルテにつける。
メルテからペラ川沿いを一〇歩里〈約30㎞〉も歩けば、明日の夜になる前にはミッテンヴェルンに戻れるはずだ。
運賃は銅貨5枚で充分に足りる。
家では老いた妻のハンナが、夫は骨ひとつ残さず死んだと信じて嘆き悲しんでいることだろう。子供らはみな遠くに奉公に出ているから、冬至までに帰れなかったら、可哀そうなハンナは地代が払えなくて借家を追い出されるかもしれない。
そう思うとヨハンはいてもたってもいられなくなった。
姫さまが本当に無実だっていうなら、お裁きのし直しはどこでだってできるはずだ。
いっそこのまま逃げてしまって、何もかもお城に報告してしまおうか。
そこまで考えてしまったところで、ヨハンはきっと唇を引き結び、自分自身を戒めるように掌を硬く握りしめた。
勿論、そんなことは論外だ。
そんな風に姫さまをほったらかして帰ったりしたら、長いことお城務めをしていて奉公精神の旺盛なハンナはきっと怒るはずだ。
ここまできたら乗りかかった船だ。
俺は最後まできちんと姫さまの御供をしよう。
ヨハンはそう心を決め直すと、できるだけ安くて腹持ちがよく、なおかつできるだけ清潔な食物を求めて、左右に並ぶ粗末な建物の中をきょろきょろと覗き込みながら歩いた。
求める品はじきに見つかった。
一軒の酒場の奥の火鉢の上で煮られていた蕪とベーコンのバター煮込みだ。
「おかみさん、こいつは幾らだい?」
「ひと椀でゼントファーレン銅貨なら一枚。ザルツハウ銅貨なら二枚だね」
「ああー―この銅貨だったら? 二椀貰いたいんだが」
「レーゲンスハイム銅貨? そうさねえ――二椀で三枚でどうだい? パンもつけてあげるよ?」
交換比率の相場を知らないヨハンは、その額が安いのか高いのか全く分からなかった。
しかし、手持ちの現金で買えることは確かだ。
ヨハンはひと椀を店の食器で貰い、硬いパンを浸して大急ぎで平らげると、もうひと鉢を持参の木鉢に注いで貰い、平たいパンで蓋をして意気揚々と帰路についた。
途中、雑踏のどこかから犬の吠え声が聞こえた。
ヨハンは特に気にせずに歩き続けた。
声の源は、雑多に並んだ木賃宿の一軒の玄関先だった。
地面から突き出す杭に船用の粗いロープが括られ、真っ白な大きな犬が一頭繋がれている。
ロープの環を首にかけられた犬は、耳を立て、何やら必死に懇願するかのように、雑踏の中をウロウロと遠ざかってゆくヨハンに向かって吠え声をあげているのだった。
じきに、入口にかかった薄汚れた革製の垂れ幕が分かれて、よく目立つ赤毛の大柄な男が現れた。
「おいシュヌー、うるせえぞ! オッタールの阿呆がお前を取り戻しにきやがったのか?」
角の杯を手にして現れた赤毛の大男は狩人頭のロドバルトだった。
彼もまた冬至月初めに大市に合わせて、毛皮の売却と必需品の仕入れのために、配下の狩人十数名を率いてゼントファーレンを訪れていたのだった。
ちなみに白犬のシュヌーは老狩人オッタールの愛犬だ。
馴染みの毛皮商人の旦那が「雪みたいに白い良い猟犬が欲しい」と連絡を寄越したため、ロドバルトが無理やり手放させてここまで連れてきたのだ。
「お前な、気持ちはわかるがそろそろ諦めろ。世の中には仕方がねえってこともあるんだよーー」
かがみこんで犬の頭を撫でようとしたロドバルトは、助けを求めるように必死に吼え続ける白犬が黒々と濡れた眸を向けている相手に視線をやるなり、眉間に皴をよせた。
犬が吠えている相手は老狩人のオッタールではなく、粗末な灰色のマントを羽織った小柄な年寄だった。手に平パンで蓋をした木鉢を後生大事そうに抱え、背中を丸めてきょろきょろしながら人混みのなかを歩いている。
「あいつぁー―なんだ?」
ロドバルトは思わず白犬に訊ねた。
その瞬間、彼は唐突に思い出した。
あの年寄は見たことがある。
あのとき――あの渡し場にいた。




